パブロフ

夢の途中

気怠そうに教育係りの男が喋っている。毎日毎日同じ事を説明しているのだろうか。慣れた話し方で説明をしている。説明を受ける間、窓から煙突が見えたので縫製工場になぜ煙突があるのかいまいち理解できない風景をぼんやり眺めていた。ラジオのように流れた社内説明も二時間ほどで終わり、工場内での業務説明に入る。なぜこの仕事を選んでしまったのか思い出せず、そしてそんな理由を考える事さえどうでも良くなっていた。工場内はけたたましい銃声のようなミシンの音とどこからか聞こえてくるモーターが動く音がずっと鳴り響いていた。この音に慣れていないせいか説明している教育係りの男の声が聞こえない。きっと戦場もこんな感じなのだろうかと思いながら後をついて行く。
  ひとしきり説明が終わり現場へ配属され改めて担当者から教育を受けた。言葉数も少なくぶっきら棒な女だった。年齢は25、6といったところか。「川辺です。よろしくお願いします。私、今月で会社を辞めますので仕事を一ヶ月で覚えてくださいね。」呆気にとられて返事をしてしまった。女の表情は人間では無いような無表情さで淡々と仕事を行っている。簡単そうな説明とは裏腹にとても重労働で覚える事がとても多かった。「言ってた事と全然話が違うじゃ無いか。」そんな事を心の中で叫んでもどうにもならない事はわかっていたが叫ばずにはいられなかった。
 「川辺さんどうして辞めようと思ったんですか。」数日が経ち仕事に少し慣れてきたので川辺に聞いてみた。「やりたい事が見つかったんで。でも、半分は嫌気がさしたからです。高校出てからずっとここでしか働いた事なくて、なんか嫌になっちゃったんです。」世間も何も知らず十数年ここで働いていたわけか。今更職を変わって何をしようと言うのだ。待っているのはきっと胸躍らせる希望ではなく確実に辛い現実しかないと思ってしまった。「何の仕事をやりたいのですか。」彼女は嬉しそうに「アパレル関係の仕事がしたい。」と言った。とても身なりはオシャレが好きそうな身なりには見えなかったが、きっと何か自信めいたものが彼女の中にあってそれが次への活力となっているのだろう。それが彼女を今救っているのなら夢から覚めるまでそのままでいいのではないかと思えた。「石井さんはなぜこの会社に来たんですか。」川辺がめずらしく質問してきた。よほどアパレルの話に気分を良くしたんだろう。「僕は、たまたま求人を見かけて応募しました。」「へぇ。そうなんですね。前職は何の仕事だったんですか。」堰を切ったように話しかけてくる。それはずっと孤独だった自分に共感を抱いてくれる人間を見つけた時と同じような感情に似ていて嬉しかったのだろう。「僕は、もともと営業やってました。色々あって会社辞めましたけど。」「へぇ。そうんですね。でも営業の人がこういう仕事をするなんて珍しいですね。今までは同じような業種の人ばかりだったから、意外でした。」いろんな話をした。たわいも無いような話ばかりだった。
 夕方には一段と仕事が忙しくなり、機械の音も人の往来も多くなってきた。みんなあしたの準備に追われている。川辺がせっせと準備をしていた。その姿をずっと眺めながら、彼女の仕事について考えてみた。十数年も毎日同じ作業を繰り返し、あしたの見えない暮らしに嫌気が差していたのは間違いないなかった。ただただ苦しい日々に終止符を打ちたかったのだろう。保証のない幸せを探しに。数週間が経ち川辺とも最後の仕事となった。相変わらず淡々と仕事をこなしているようだったが、足枷の外れる気持ちはやはり素直なもので、仕事も軽やかに行っていた。最後の別れに「今までお世話になりました。お体に気をつけて頑張ってください。」精一杯の餞の言葉だった。「はい。ありがとうございます。これから頑張ってください。」彼女の希望に満ちた言葉は僕の明日からの不安を一層強くさせた。翌日からの仕事は本当に大変だった。ずっと準備に追われ休憩時間もなくなり、最近では昼飯もまともに食べれないほどの忙しさだった。皆が笑顔で休憩に行く姿を見て虚しさと憤りが心の中に溜まって行く。だが、過去の自分と向き合う時間がないことだけが唯一の救いだった。小さな商社の営業を長くやっていた。会社の中でも中核を担う存在になっていたがある日、社長との意見が合わず口論になり自分の居場所がなくなってしまい辞めてしまった。今でも自問自答を繰り返す。本当にあの時の決断は正しかったのか?出世の道も約束されていたにも関わらず全てを投げ捨ててしまったことへの後悔と自分の決断の正しさを信じる思いと交互に揺れ動いていた。
 この日は珍しく昼に休憩が取れた。体の疲れも限界に達しており工場の隅の椅子の上で寝ていると「突然すみません。石井さんですよね?」珍しく色白の若い女性が声をかけてきた。「あ、すみません。休憩中に。私、石井さんと同じラインの谷川と言います。ご存知ないですよね?」一瞬あっけに取れられ何が何だかわからなかった。「ごめんなさい。僕もまだ日が浅くて皆さんの顔と名前を覚えてないんです。どうかされましたか?」谷川は慣れた口調で喋り出す。「すみませんけど、一五番の糸を用意してもらってもいいですか?」雑用の仕事までしなきゃならないのかと思ったが「わかりました後で準備しときますね。」力なく返事をした。暫くして頼まれていた糸を谷川に届けた。谷川は休憩時間がまだ三〇分もあるのにミシンの手入れをしている。さっきはいきなり話しかけられて顔もよく見てなかったが、改めてみるととても透明感のある肌と少し幼さの残る顔立ちをしていた。「お待たせしました。これでよかったですか。」糸を見せたが、こちらの方を見ることもなくミシンの手入れをしていた。「ありがとうございます。そこの机に置いてて下さい。」ミシンを見つめながら返事をしてきた。「昼休憩もろくに取らずに大変ですね。」谷川はミシンを見つめながら、「私、仕事が遅いから人より早く準備始めないと間に合わないんです。」まっすぐ見つめる眼差しはどこか追い詰められた感じすらしている。「あんまり無理しないようにしとかないと体を壊してしまいますよ。」離れる前の挨拶のようなセリフを残してその場を後にした。
    昼休みが終わりまたあの騒がしい時間が始まった。バタバタと走り回る中、谷川の事が気になりミシンの方へ目をやった。準備してた時より一層追い詰められた形相で作業をしていた。人をここまで追い詰める会社のやり方に少し恐怖心すら感じた。そんな彼女の姿をみて自分の生き方について考えてしまう。このままここで飼われて死んで行く自分を想像してしまう。しかし、どうすれば良いのか見当もつかない。このまま辞めても職はない。だからと言ってやりたいこともない。どうすればいいのだろう…
 そんな事を考えるうちに谷川が会社に来なくなった。病気になり会社を長期休職するらしい。
気になったので谷川と仲の良かった人に話を聞いた。どうやら体が動かなくなる病気になり入院しているらしいとの事だった。そんな谷川の事を聞きより心の中にあった思いが大きくなった。
一度しかない人生に後悔していていいのだろうか。ましてや谷川のように入院を余儀なくされてしまう事だってあるのに何一つ満足に出来ていない自分に腹がたった。後悔しない生き方をしないといけない。自分の人生だから。そんな事を呟きながら工場の窓に打ちつける雨を眺めた

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