醤油とシーサーとモハメドの鋭いパンチ。
02,醤油の話は宇宙の神秘へ。
ふむ、成程。
これから俺の根城となる八畳間のキッチン付きワンルームに帰還し、まだ荷解きしていないダンボールに腰掛け、スマホを駆使して少々調べてみた所。
その昔、まだ日本が第二次大戦の戦後復興期にあった時代に、ご近所さんで調味料を賃借し合う文化があった様だ。
今日日そうそう無いやり取りと化してはいるそうだが、当時は当時。
コンビニやスーパーなんぞない時代だ。
朝早く、夜遅く。あらやだ調味料が足りないわファック!! となった時、お財布片手に駆け出したって当然お店は開いていない。
なので、ご近所さん同士で足りないものは補い合う、助け合いの精神が強かったのだと言う。
「……何がしたいのだ、あのギャモ野郎は……」
先に言ったが、昨今ではそうそう無いやり取りだ。
現に、俺もネットで検索するまでそんな距離感のイカれた文化があるなどとは知らなかった。
現在時刻は一〇時少し過ぎ……ギャモ野郎との邂逅から体感で一時間くらい経っているから、あの時は九時くらいか。
コンビニどころか、スーパーやデパート、商店街だってシャッターを上げている頃合だぞ?
何故にわざわざ俺から借りる?
まぁ、貸したけどもな。
にしても、外国人が朝っぱらから醤油を駆使して何を作る気なのだか……いや、存外普通に日本料理を作ったりするのだろうか。
そう言えば、醤油が必要な料理ってなんだ……? 全然料理をしないからわからない。
パッと思い付くのは、各種照り焼きや生姜焼きくらいだ。
あとはもう、目玉焼きにかける……刺身に付ける……調理と言うより、いわゆる【ちょい足し】の方面でしか思い浮かばないな。
……ふむ、ちょい足しと言えば……醤油は味噌の溜まり汁にルーツがあると言うくらいだし、味噌汁なんかにちょい足ししても合ったりするのだろうか。
昼にでも試してみようか。
…………まぁ、それはさておき、と。
ようやく、混乱気味だった頭が落ち着いてきた。
冷静に思う事は、ただひとつだ。
ギャモ野郎、途方も無くおっぱいが大きかったな。
流石は外国人。ダイナマイトボディと言う表現がよく似合う圧巻のインパクトだった。東洋には無い神秘。
ま、アレだ。
いきなり醤油を貸してくれなどと図々しいお願いをしてくる辺り、向こうは勝手に俺の事を好意的に見てくれていると考えて良いだろう。
無理をおして神対応スマイルを披露した甲斐があったか。
もう、充分良好な関係は築けたはずだ。後日改めて会話の機会を持つ必要は無くなった。
大家とは入居前の挨拶でそれなりの好印象は与えたはずだし……
ふぅ、ひと段落、だな。
来月には入社説明会、そしてその翌週には入社式が待っている。そしたら俺は、職務を円滑に進めるために上司や同僚と必要最低限の関係構築をしなくてはならない。
ご近所さんとの関係構築が手早く済んでくれたのは実に有り難い。
と言う訳で、来月までは人と関わる事なぞ綺麗サッパリ忘れて、のんべんだらりとマイペースに過ごそう。
もう学生時代の縁の維持なんぞに拘らなくても良いし、家族親類は遠くの田舎。ご近所さんとの顔合わせは無事終了。
今の俺は完全に独り。自分の事だけ考えてれば良い。
来月の入社説明会で上司や同僚となる者達と顔を合わせたらそうはいかなくなる。
多分、この一ヶ月が俺の人生で最も自分らしく過ごせる時間だ。たっぷり堪能しなくては。
まずは……そうだな、実家から持ってきて未だダンボールの中にある大量の書籍を本棚に収めた後、片っ端から読み返すとしよう。
今日一日……下手したら明日まで潰れるな……ふふ、読書は大好きだ。
書は完璧な娯楽である、と言うのが俺の私見。
小説、漫画、図鑑、辞書……種別は問わない。
書を手に取り、開き、その中に飛び込む。瞬間、まるで脳内に博物館や映画館が現れ、それを自分だけで貸し切っている様な錯覚を覚える。
独りで夢想に耽るだけ、大した手間をかけずに、多彩な刺激がこの脳を愛撫する……これほど最強的コスパを誇る娯楽が他にあるか?
では、ダンボールを開けて本棚に書籍を並べて行こう。
って、おう……インターホンの呼び出し音が鳴ったな、今。
幻聴ではないぞよ、と主張する様に、また鳴った。追い打つ様に更にもう一度。
計三プッシュ。しつこいのが来たともとれるが、まぁ、ノックに換算すれば常識の範囲内ともとれる。
一体誰だ、俺を訪ねてくるなんて。
大家か? まぁ、それくらいだろうな。やれやれ、一体何の話だろうか……
「はーい。少しお待ちくださ……げっ」
ドアの覗き穴から外を覗いてみると、そこにいたのは愉快な外国おっぱい。
銀色のショートボブに紅い宝石の様な瞳、健康的なむちむち褐色肌……間違い無い、一時間程前にも見た奴だ。ギャモ野郎だ。
その胸には、俺が貸してやった醤油のボトルが抱き挟まれていた。おいボトル、少しそこ代わ…じゃなくて、醤油を返しに来たのか。
と……醤油を胸に押し当てて抱いている方とは逆の手、左手の方に何かビニール袋も持っているな。
何だアレは……よく見えん。
居留守を決め込み、醤油だけ玄関先に置かせて帰らせる……のは無理だな。さっき、思いきり声を出してしまった。失態だ。ガッデム。
仕方無い。
「やぁ、御戸成さん、さっきぶりですね」
ドアを開けながら限界ギリギリの微笑みを作り、可能な限り好意的に出迎える。
「ノンノン、ギャモ子って呼んでくださいヨ、ヨッシーさん!」
やかましいぞ、ギャモ野郎。
何がノンノンだ。本当に典型的な【愉快な外国人】だなお前は。ズバリ嫌いなテンションだ。
「お醤油、返しに来ましタ!!」
見ればわかる。むしろそれ以外の用件ならば「その醤油はなんだ」とまくし立ててやる所だ。
「ありがとでしタ!!」
「どういたしまして」
素早く醤油を受け取り、速やかにドアを閉め……
「あ、ちょっと待ってくだサイ!」
うごッ、掴み止めてるんじゃあないぞッ……一体、何のつもりだ、ギャモ野郎ッ……!!
「これ、お礼のコッコロー、デス!」
「はぁ?」
おれのこっころー? ……あ、お礼の心、か?
そう言って、ギャモがおっぱいを揺らしながら元気に差し出して来たのは、左手に持っていたビニール袋。
受け取り、中身を検めてみると……
「……何だ、これは……」
思わず、素の表情になってしまうくらい謎の物体が、入っていた。
なんだ……味付けのり等が入れられ市販されている様な円柱型のプラスチック容器の中に、薄青色のゼリーと黒いゴマの様なものが……これ……動いて……まさか、
「蟻……?」
俺は視力にそれなりの自信がある。
この容器の中をせこせこと動き回る黒い粒みたいな生き物共は、蟻と呼称される昆虫で間違い無いはずだ。
「はい。蟻さんデス」
「あー……」
国営放送の教育番組で見た事あるぞ、これ。
蟻の飼育・観察キットだ。
薄青色のゼリーが土代わりで、そのゼリーに蟻が巣を作り、生活する様を観察する代物だ。
自由研究にお勧めだなんだと人気のタレントさんが宣伝をしていた。
「お礼のコッコローを表現するために、私のペットの蟻さんを一〇名、選出しまシタ!」
「蟻を一〇匹……ああ、そう言う」
如何にも、日本語を覚えたての愉快な外国人が考えそうなトンチだ。
「……ほんとは、借りたお醤油で作った料理もオスソワーケしようと思ったんデスが……ダークマターになってしまって……」
ダークマター……確か、地球上では観測されていないが宇宙のどこかには存在しているだろうとされている未知の物質群の総称ではなかっただろうか。
醤油をどう調理したらそうなる? 調理と言うか錬成か?
と言うか、料理下手なのか……人から醤油借りてまで挑戦せずに、大人しく惣菜で済ますか外食すれば良いものを、全く非効率的な……
「ちなみに、蟻さん達にはちゃんと名前あるデス。この子が有吉、この子が有村、この子が有栖川、この子が有馬、この子が有野、この子が有場、この子が有山、この子が有原、この子が有巾木、この子がモハメド・アーリーです」
「モハメド」
「きっと蝶蝶の様に舞い、蜂の様に刺す蟻になりマス」
仮に本当にそうなったとして、それは本当に蟻なのだろうか。
と言うか、どこでどう個体識別を……?
俺には全て同じ蟻にしか見えんぞ……個体差が行方不明だ。裸眼でも虫眼鏡と張り合えるこの俺ですらできない芸当を……顕微鏡レベルの眼力でも持っているのか、こいつは。
……あ、しかし待て。ギャモ野郎が最後に指差した蟻……モハメドは他に比べて若干足が太いな。もし二足歩行が可能になれば良いパンチができそうな太さだ。
モハメドだけなら俺にも識別できる。
「私の可愛いペットちゃんデス!! 可愛がってあげてくださいネ!!」
「はぁ……」
まぁ、昔からカブトムシとか育てるのは嫌いではないし、少しは面白そうだから有り難く頂戴する。
「では、ヨッシーさん!」
「ああ、はい。さようなら、ギャモさん」
「はい!! グッバイバイ! また明日もお醤油貸してくださいネ☆」
「はぃ、ん?」
おい、待て、今去り際に何か妙な事を……?
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