BLIZZARD!

青色魚

第二章59『無機質な契約』

 決意と共に踏み出した足は、かつてないほど強いものであった。従ってそれにより引き起こされた雪兎シュネーハーゼの大跳躍も過去にないほどはやいものであった。

「……お、お…………」

 その勢いに体勢を崩しかける翔であったが、目線は迷いなく前を向いていた。その目に捉えているのは今にも大地の割れ目クレバスに落ちようとしている一人の少女である。

 ──追いついたところで、この角度じゃ俺はコハルを助けられない。二人揃ってあの割れ目に落ちるのがオチだ。それでも……

 そう覚悟を決め、翔はいよいよコハルに手を伸ばす。そうして急加速の勢いそのままに、翔はその手でコハルを抱き寄せた。

「……っ!」

「おおおおおおおお!」

 そうして二人の体が密着したその時、翔の身体の加速は止まり、刹那落下運動を始める。

「……はてさて、どうなることやら」

 自らも割れ目クレバスに落ちていくそのさなか、翔は小さな声でそう呟いた。






 一方その二人の落下を遠目で捉えていた残りの遠征隊の面々は、静かに臨戦態勢へと入っていた。

「……隊長」

「……ああ、分かってる。

 総員、あの二人のことは後だ。臨戦態勢に入れ」

 キラのその呼び掛けに元二はそう頷き、通信を全員に繋げた。

「……各々、持てる全てを賭けろ。『新種コイツ』は強いぞ」

 そうして元二が向き直った先には、コハル達が落ちていった間接的な原因となった、一匹の『新種』の獣がいた。

 ──ただでさえランとヒロがいない人員不足の今、加えてカケルとコハルもはぐれた。三年前総力戦フルメンバーでも勝てなかった『新種』に、勝てるのか……?

 その迷いを断ち切り、元二は叫んだ。

「総員、かかれ!」

おうっ!!」

 掛け声と共に、カケルとコハルを除いた遠征隊と『新種』の獣との戦闘は始まった。

「…………」

 そしてそれを、先程までカケルを見つめていたその人物は静かに見守っていたのだった。









「う、お、お、お、お、お!」

 一方翔はその頃、身で風を切る感覚を全身で味わいながら落下に身を任せていた。

 ──っ! この割れ目クレバス、深い! それに入口こそ狭いが、どんどん割れ目の幅も広がってきてやがる!

 重力に任せた落下の最中さなか、翔はその割れ目クレバスについてそう考察をする。底が深く、形状がねずみ返しのようなその割れ目クレバスは、一考してわかるように上に登ることを拒絶したものであった。

「……これじゃ、上に登るのはマジで無理だな」

 翔は上に戻るという元々当てにしていなかった可能性きぼうを捨て、改めて下に視線を移す。

 ──それより問題はこっちだ。このままじゃ、上に戻るとかそんなこと考える暇もなくお陀仏だ

 翔は自らの下、猛スピードでこちらに迫ってくる氷の地面を見て戦慄する。

 この地形を割れ目クレバスと翔は呼称したがそれは正確には正しくないのかもしれない。翔の目から見て、それは正確に言うならば『物凄く幅の狭い崖』であった。氷河の割れ目ではないため最深部にも足を付けるための地面はあるが、その事実は翔にとって救いであるのと同時に絶望であった。

 ──足を付ける地面があるのはいいけど、このままじゃあれに激突して死ぬのが先だ! 何か、何かしねぇと……っ!

 そうして翔は必死に頭を回すが、落下までもう時間のないその状況で、明確な助かる方法など思い浮かぶはずもなかった。そうしている間にも迫り来る氷の地面に、翔は思わずその思考を投げ出しそうになる。

 が、その時翔は、両腕でかかえ自らの身体に密着させた、一人の少女のことを思い出す。

 ──そうだ、今落ちてるのは俺だけじゃない、コハルも一緒なんだ。諦めてる暇なんて、ない。

 密着した少女コハルの確かな温もりを感じながら、翔は決断する。

「……せめてコハルだけでも助けねぇと……っ!」

 そうして翔は身体をひるがえし、自らの背中を氷の台地に向ける。それによりそのまま落下したとしても衝撃が一番に伝わるのは翔の身体だけとなり、コハルは翔の身体がクッションとなり落下の衝撃からも生き残れる可能性が生じた。

「コハル、しっかり俺に……」

「……何やってんですか、邪魔ですよ」

 しかしそうして翔が守ろうとしたコハルは、冷静な様子で翔に抱えられた状態から片腕を伸ばし、その割れ目の壁に手を触れた。

「……『滑り台』っ!」

「──!?」

 コハルがそう叫んだのと同時に、コハルが触れたその壁面から、氷で出来た緩やかな滑り台スロープのようなものが出来上がった。

「お、お、お、お!」

「喋らない方がいいですよ。舌を噛みますから」

 そうして翔とコハルの身体は落下運動に任せその滑り台の表面に着地し、そしてそのままその傾斜に沿って滑り始めた。

「うおおおおおおおお!」

 そうして二人の身体は猛スピードで氷の滑り台を滑り、そしてその勢いのまま氷の大地を転がった。その勢いに翔は鈍い痛みを覚えながらも、決してコハルの身体は離さなかった。

 そうして数メートル転がったところで、ようやく二人の身体は停止した。

「……っ! はぁ、はぁ……、生きてる……」

 それまでのその猛スピードの落下運動に、翔は思わずその感想を口にする。上を見れば翔達が今いる割れ目クレバスの底は随分と深い所らしく、せり出す壁に阻まれて翔は空を見ることが出来なかった。

「……こんな深くまで落ちて、ホントよく死ななかったな」

 驚きとも感嘆とも安堵とも取れるその呟きをこぼしてから、翔はあることに気付く。

「……あ……」

 コハルの作った氷の滑り台から勢いのまま転がった結果、翔とコハルの身体は密着したままその場を転がった。その結果、翔はコハルに覆い被さるような体勢になっていた。

「……いつまでそうしてるんですか、セクハラで訴えますよ」

「っ! すまん!」

 冷たい目で睨まれながらコハルにそう言われた翔は、すぐさまその体勢から立ち上がりコハルの身体から離れる。

「……ごめん、決してわざとじゃなくて、コハルを落下の衝撃から助けようと……」

「まぁいいですよもう。お互い助かったんですし、そのことセクハラについてはもういいです。それより……」

 コハルはそう割り切ったように言い放ったが、翔には未だ先程まで密着していたコハルの身体の柔らかさが残っていた。その感覚に思わず鼓動を早める翔に、コハルは冷徹な一言を言い放った。

「……なんで・・・あなたまで・・・・・降りてきた・・・・・んですか・・・・?」

「……っ!」

 そのコハルの問いかけに、翔は思わず身を強ばらせる。そのコハルの強い語気に、翔の頭に再びアンリに貰った助言が蘇る。

『余計なことをしないことですよ』

 その言葉は、今翔が置かれている状況に痛いほど響いていた。

「あの時、私が落ちるのを助けられないにしても、わざわざ一緒に落ちるとか何を考えてるんですか?」

「……それは……」

コハルを守るため、ですか? でしたら残念でしたね、さっき見せた通り落下の衝撃から助かったのは私の凍気フリーガスのお陰ですし、純粋な戦闘能力も私の方が上です。端的に言えばカケル先輩・・・・・何の・・役にも・・・立ちません・・・・・

「……っ!」

 そのコハルの冷静且つ冷酷な言葉に、翔は思わず顔をしかめる。その言葉が翔にとって厳しいものとして刺さったのは、コハルが口にしたことがまさに事実であるからだった。凍気フリーガスの使えない翔に、凍気フリーガスを駆使するコハルを守る力はない。傍目から見ても、その実力差は歴然であった。

「……それなのに、なんでカケル先輩まで落ちてきたんですか?」

 そのコハルの言葉は割れ目クレバスの最深部に静かに響いた。

「…………」

 そのコハルの問いかけに、その場にしばらく沈黙が流れる。そこが音のない雪の世界であるのに加え、遠征隊がいる地上から隔離されたその深層部は、二人の会話がないと音が消えたように静かであった。

「……やっぱり、また考え無しに余計なことをするんですね。あれですか? 三年前私とかがカケル先輩を英雄ヒーローとか呼んだから、すっかりその気になったとでも言うんですか?」

 その沈黙にコハルがそう呆れ返ったように言ったが、その言葉に翔は口を開く。

「──いや」

「……?」

 翔の否定に首を傾げるコハルに、翔はキッパリと言った。

「考え無しでこんなことした訳じゃ、ねぇよ」

 その翔の予想外の言葉に、コハルは一度目を丸くしてから訝しげな顔になる。

「考え無しじゃないって……じゃあ一体なんで……」

「分からないのか? 俺がコハルと一緒にここに落ちたことで、コハルが・・・・遠征隊と・・・・合流・・出来る・・・可能性が・・・・出来た・・・んだぜ」

 その翔の言葉に、コハルは不機嫌そうに眉をひそめる。

「……言ってる意味がわからないですね。何も出来ないカケル先輩がここにいることと遠征隊と合流出来ることに、どんな因果関係が?」

 そのコハルの棘のある口ぶりなど気にする様子もなく、翔は微笑を浮かべて言った。

「フィルだよ」

「……?」

「フィーリニだ。あいつは今遠征隊と一緒にいる。だから、俺らは大丈夫だ」

「…………ぁ」

 その翔の言葉に、コハルはようやく翔の言わんとすることを理解する。

「あいつは、フィーリニは絶対に俺を見つける。俺はまだあいつのことよくわかってないけど、これだけは絶対にそうだと言える。これまでが、そうだったからな」

 そう笑う翔は、フィーリニに奇妙な信頼を抱いていた。言葉通り翔はその獣の少女のことをまだ詳しくは知らない。この猛吹雪の世界で共に過ごした時間は最も長い関係性であるのに、彼女が言葉を発しないからか、それとも彼女が何かを隠しているからか。翔はまだ、フィーリニという少女を理解できていない。

 しかし、翔は事実として分かっていた。彼女フィーリニは、絶対に翔を助けに来ると。夢の中でフィーリニに似た何かに妙な事を言われても、誰もが寝静まった丑三つ時に過去に戻ることを提案されても、それだけは揺らがなかった。

「あいつは絶対に俺を助けに来る。遠征隊もきっと連れてな。だから、俺と一緒にいればコハルも遠征隊と合流出来る」

「…………」

 その翔の筋の通った論理に、コハルは押し黙る。そんなコハルに、翔は笑って言った。

「な? 考え無しじゃなかったろ? 俺だってたまにはちゃんと考えて行動するさ」

 その翔の笑みに、コハルは不機嫌そうに言った。

「……確かに、そこは見誤ってました。すみませんでした。でも、それって私とカケル先輩が一緒にいることが前提ですよね?」

「それは……」

 コハルのその妙な言葉に、翔は疑問を返して言った。

「それは、仕方ないことなんじゃないのか? そもそも今俺らは遭難してるようなもんだし、コハルは俺の事嫌いかもしれないけどさ、遠征隊と合流するまではひとまず協力するのが妥当じゃないか?」

 その翔の言葉に、コハルは何か少し考え込んでから、口を開いた。

「……いえ、こう言ってはなんですけど、カケル先輩は・・・・・・お荷物・・・、ってことを言いたくて」

「…………」

 そのコハルの辛辣な言葉に、翔は口を閉じる。

「……私はご存知の通り凍気フリーガス精密操作コントロールが得意です。氷の武器を作ったりすることもできます。ですが、獣達相手に一人の人間・・・・・庇い・・ながら・・・戦えるほどの戦闘能力はありません」

「……つまり?」

 そのコハルの勿体ぶるような言い方に、翔は先を促す。その言葉にコハルは一瞬悲しそうな顔になってから、すぐに不機嫌そうに言った。

「私ではカケル先輩を守れない・・・・ってことですよ。なので、自分の身は自分で守ってもらわないと困ります」

 そのコハルの突き放すような言葉に、翔は苦い顔になる。

 ──要するに足を引っ張るな、ってことか。手厳しいな、こりゃ

 翔はそのコハルの言葉に苦い顔こそすれど、反感は覚えない。今やコハルの方が翔より強いということは事実であり、コハルの言うこともある意味もっともと思われたからであった。

「……いいぜ、約束する。だから俺が危なくなっても、コハルは俺を助けなくていい」

「物わかりが良くて助かります。同様に万が一・・・私が危なくなったとしてもカケル先輩は私のことを助ける必要なんてないので、そのつもりで」

 そうして二人の間に無機質な契約が交わされた後、二人は割れ目クレバスの広がっていく方に身体を向けた。

「……では、行きましょうか。短い間になるでしょうが、よろしくお願いします」

 そのコハルの相変わらず無愛想な言葉を皮切りに、二人は割れ目クレバスの最深部を歩き始めた。

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