BLIZZARD!

青色魚

第二章54『偽物の言葉』

 外壁で外の猛吹雪と隔絶されているとはいえ、基地の床はひんやりと冷たい。その冷たさは、ようやく翔に宿ったエネルギーを少しずつ奪っていた。

「……話をしようぜ、翔」

 それを察知して時間が無いと悟った『松つん』は、早速そう呟く。その呟きに翔は反応し、まだきぼうの灯っていない目を『松つん』に向けた。

「…………」

 その目に、『松つん』は改めて翔に厳かな顔で向き直る。

 彼が今置かれている状況は明白だ。目の前の親友カケルを話が出来る程度まで回復させることには成功した。しかしその絶望の根本の廃絶には、まだ至っていない。

 特別な力など持たない彼が唯一出来ること。それは彼が目の前の翔を励まし、助けることであった。

 そんな一世一代、責任重大な仕事を前に、『松つん』は皮肉的シニカルな笑みを浮かべつつ内心苦笑していた。

 ──ああ、ホント、我ながららしくない・・・・・ことしてるよな。




『松つん』──本名、松本マツモト友哉トモヤは幼い頃から人に好かれやすい性格タチであった。彼が行くところには必ず同年代の友人が数人取り巻き、彼を中心とした輪にはいつも笑いがあった。

 しかしそれは、彼が人の心がよくわかる人間であるからではなかった・・・・・・。彼が友人作りを得意としていたのはむしろ逆の理由。彼が誰とでも友人になれたのは、他人の心・・・・など・・分からない・・・・・と知っていた・・・・・・からであった。

 彼は幼い頃、両親から虐待を受けていた。彼が生まれて程なくして両親は離婚しており、彼を一人育てた母親は度々彼に暴力を振っていた。

 彼の記憶にはないが、母親は彼が生まれてからすぐの時期はそのような暴行をしていた訳ではなかった。むしろその育児は彼を最大限気遣ったものであり、その事実から母親は彼に対して確かに愛があった、そう言えるだろう。

 母親の愛情が変質したのは彼女がちちおやと離婚してしばらくであった。そしてその離婚以前は、彼に対して虐待をしていたのは父親の方であった。

 しかしそんなことは知る由もない彼は、母親は自分のことが嫌いなのだと思って成長していった。その考えが変わることとなったのは、彼が幼稚園の遠足で行方不明になるという小さな事故に遭ってからのことであった。

 行方不明と言っても、彼は遠足の翌日には発見された。行方不明の原因は単純。彼が自由時間中に規定の場所より奥の方に進んでしまった結果足を滑らせ崖を滑り落ちてしまったからであった。

 幸い怪我もなく、迅速に警察によって保護された彼の心には、助かったという安心と同時に再び母親と出会うことへの恐怖があった。加えて母親は他人ひとさまに迷惑をかけるのを酷く嫌う人であった。不可抗力とはいえ、今回のような事故を母親は不機嫌に思う。彼は幼心に、そう考えたのだった。

 しかしその考えは正しくなかった。保護された彼を引き取りに来た母親の目には、涙が浮かんでいた。

「…………」

 聞いているこちらの方が恥ずかしくなるほどの鳴き声とともに母親に強く抱き締められた彼は、困惑する他なかった。いつも自分に暴力を振るっていた母親と、目の前で自分の無事に涙を流す母親が同一人物とは思えなかったのだ。

「……ごめんね、ごめんね。

 ……生きててくれて、ありがとう」

 嗚咽混じりに母親が言ったその言葉を、彼は今でも鮮明に覚えている。

 程なくして母親は警察に捕えられた。奇しくも彼女が自らの子供への愛情を思い出したその遭難事件において、彼の身体に残った虐待の跡が警察に露呈したからであった。彼は叔父の家に引き取られ、そこで以後の人生を過ごすこととなった。彼が十七歳の時、つまり『氷の女王』が襲来するその日まで。

 そうして母親と離れ離れとなった彼であったが、彼が十歳のとき、刑務所にいる母親と面会したことがあった。その時の母親の反応も、やはり遭難事件の時と同じ、喜びであった。

「トモヤ、本当にごめんね。

 おかあさん、これでも今でもあなたのこと愛してるのよ」

 涙ながらに母親がそう言ったのを、彼は不思議な気持ちで聞いていた。彼には目の前の母親が理解できなかった。彼の頭は悪い方ではなく、むしろ学校のテストでは度々満点を撮っていた。しかしそれでも全く分からなかったのだった。何故自分をあれほど虐待していた母親が、自分を見てこれほど喜んでいるのかを。

 母親が本当に彼を愛しており、それでも虐待をしてしまっていたという事実に彼が気付くのはそこから少しあとのことであった。

 しかしそれより前に彼は、幼いながら悟っていた。他人ひとの考えていることなど、分かるはずもないのだと。






 それから月日が流れ、彼は中学生、高校生と成長していったが、彼が幼い頃に悟ったその真理は尚健在であった。むしろその長い思春期を通じて、彼は自らの見つけた真理の正しさを再確認しつつあった。自分以外の人間の考えていることなどわかるはずもない、と。

 彼のそうした無愛想にも見える態度は、意外にも周囲の人の心を引き付けつつあった。人の心などわかるはずもない、だから・・・どれだけ・・・・親しくても・・・・・決して・・・深入りはしない・・・・・・・。彼のそのような信条モットーは、彼の周りの人にとっては心地よかったのかもしれない。

 だから今、彼は──『松つん』は心中で自らの言動に苦笑していた。人の心は分からないと悟っあきらめた自分が、こうしてまた人の心に入っていこうとしているのが信じられなかったからであった。

 ──それでも、まだ俺の信条モットーは変わらない。他人ひとの心は分からない、分かるはずもない。何故なら他人ひとは俺とは違う人生を歩んでるから。だから、俺には他人ひとにかける言葉なんてない。

 彼は他人ひとの心が分からないから、他人ひとに知ったふうな口を利くのを辞めた。他人ひとの心が分からないから、他人ひとと深く関わるのをやめた。

 ──それでも。

 しかし、彼は目の前の翔に対してはその理論を用いるのを諦めていた。

「……まずは状況を聞かせてくれるか? 俺はあくまで一人の基地の住民でしかないからお前が置かれた状況とかも詳しくなくてな」

 それらの理論を振り払うように、彼は意を決して翔にそう言った。その言葉に翔は静かに笑って答えた。

「状況も何も、絶望おわりだよ。お前ならもう気付いてるんだろ?この三年間遠征隊が基地から消えたのは、俺が『時間跳躍』を暴発させたからだ」

「……それは……っ」

 嘲笑を浮かべながら翔が言ったその言葉に、『松つん』は思わず言葉を失う。翔がスラスラと語ったその現状が、彼の想像していた最悪に近いものであったからであった。

「そのせいで遠征隊みんなには嫌われてさ。特にリー先輩……ベイリー先輩には絶対に許さないとまで言われたよ。まぁ、それだけの事をしたから当然だけどな」

「…………」

 翔がそう語るのを、『松つん』は静かに耳を傾ける。

「ついでに言えば俺のせいで『先輩』が……。遠征隊最強のランバート・ロンネが、今意識不明の重体だ。隊長……、元二さんは俺が三年後の世界に連れて来ちまったせいで、息子さんの誕生に立ち会えなかった。両方とも、俺のせいだ」

「…………」

 遠征隊内の通称から『松つん』に通じるように時々言い換えながら、翔はそこまで静かに語った。未だ『松つん』が口を開かないのを見て、翔は更に続ける。

「基地の連中もことごとく嫌われたしな。俺のせいで危険な目に遭わせちまった『代理遠征隊』のキラとコハル
 は勿論……フィルヒナーさんにも、アンリにも。

 もう基地ここには、この世界には、俺の居場所はないのさ」

 そこまで語ってから、翔は『松つん』の方に向き直る。

「……それで、ここから何をどうしろって言うんだ?」

「……………………」

「こんな絶望的な、何をしても悪い方向にしか転がらないこの救いのない状況で、俺は一体何をどうしろって言うんだよ?」

「……それは……」

 その翔の問いかけに、『松つん』は苦い顔になる。

「……信頼を取り戻す、しかないだろ。確かに難しいことかもしれないけど、それでも……」

「『確かに難しいことかもしれないけど』、ねぇ……」

「…………?」

「ああ、なんでもねぇよ。続けてくれ」

 そうして翔が妙なところで引っかかったのを不可解に思いつつ、『松つん』は続けた。

「……それでも、お前カケルなら出来る。これまでだってそうしてきたじゃんか。だったら……」

「ああ、うん。まっつん、ごめんな」

 そこまで聞いてから、翔は話を遮って言った。

「……無理なんだよ、だから。ここから俺がみんなの信頼を取り戻すことは難しいんじゃない、不可能なんだ」

「……っ!」

 その翔の意気消沈した言葉に、『松つん』は眉間に皺を寄せる。

「無理だ無理だって言っても何も始まらないだろ。何事もやってみなきゃ分からない。だからやるんだ」

「……やってみなくても分かるよ。もう無理だ。俺なんかが出来ることなんて、たかが知れてるしな」

「……っ! 翔は、お前は『俺なんか』なんて言うほど弱くない! 自信を持てよ、お前なら出来る」

 と、そこまで『松つん』が熱く語ったのを聞いて、翔は不機嫌そうに眉をひそめて言った。

「……なぁ、何をそんな知ったふうな口を利いてるんだ?」

「…………っ!」

 その言葉は、『松つん』が聞くのを最も恐れていたものであった。人の心など分からないと悟った彼が、ようやく出来た親友相手に、一番言われて欲しくない言葉であった。

「『確かに難しいことかもしれないけど』『お前カケルなら出来る』。なるほど、そりゃ大層なお言葉だ。でも、俺にはとどかねぇよ。何故なら……」

 そうして先までの『松つん』の言葉を引用して、翔は言った。

「……俺は、本当はお前らが思ってるような英雄ヒーローじゃないからな」

 その一言は、翔がもはや全てを諦めたという事実を、痛切に証明していた。

「俺はお前らが思っているほど強くない。賢くもない。カッコよくもない。英雄ヒーローだなんて笑わせる。俺は、小手先の技と運の良さでここまで来た、ただの凡人なんだよ」

 それは、冰崎すさきかけるがこの猛吹雪の世界に来てからずっと貯めていた、どうしようもなくみっともない本音であった。

「……なのに、なんなんだ、なんなんだよ松つん」

「……カケル」

 そうして翔は、『松つん』にその一言を言い放った。


「……お前に俺の・・・・・何が・・分かるんだよ・・・・・・!」


 その翔の一言に、『松つん』は思わず硬直する。

 ──他人ひとの心なんて分からない、分かるはずもない。何故なら他人ひとは俺とは違う人生を歩んでるから。だから、俺には他人ひとにかける言葉なんてない。それでも……。

 それでも、彼は決めたのだった。目の前の翔には、その理論を用いないと。

 ──何も知らない、偽物の俺の言葉でもとどくなら。もし、それで翔を救えるなら。

 そうして覚悟を決めて、『松つん』は言った。

「……ああ、何もわからねぇよ。

 だから・・・しっかり・・・・教えてくれ・・・・・。お前が本当はどう思ってるのか、何がしたいのか」

「────っ!」

 その『松つん』の言葉に翔は思わず息を飲んだ。その予想外の返答に翔は先程までの勢いを失う。そこに畳み掛けるように『松つん』は言った。

「俺にはお前の心なんて分からない。だからしっかり言葉にして教えてくれ。

 そしたらそこから改めて話し合おうぜ。これからどうするか、どうすべきか、どうしたいか」

 その『松つん』の論理に、翔は困惑しつつも苦い顔をする。その苦しい顔はすなわち、『松つん』のその理論が最もであると、そう考えたからこそであった。

「…………ああ、分かったよ」

 そうしてしばらくの沈黙の後、翔はそう言い切った。

 そうしてなんとも情けない英雄ヒーローの、どうしようもない独白は始まったのだった。

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