BLIZZARD!
第二章52『手』
正午を回った頃の基地の廊下は、まるで昨晩翔がニヒと話をしていた時のように冷たく静まりかえっていた。どこかから漏れ出て聞こえてくるか細い外の吹雪の音以外、その場所の空気を震わせるものは無い。その静けさの理由はただ単純にその場にいるのがたった一人の青年であるからというのと、その青年が先程から全く動いていないからであった。
『……もう、以前のようには戻れませんよ。カケルさん』
「──っ!」
その脳裏に響いていたのは、その日の朝キラに掛けられたその言葉であった。
──以前のようには戻れない、か。
薄々気付いていたことをキラにそうして叩きつけられたことで、翔は思わずその場で塞ぎ込んでいた。加えて、その後に自分を呼んだ時のキラの翔への呼び名が、翔の心をずっと蝕んでいた。
翔がキラと共に雪原を逃げ回っていた時、敵の包囲網をようやくの思い出突破したその時から呼ばれていたその呼び名は、密かにだが確実に翔の中で大きなものとなっていた。
「『カケル兄ちゃん』……って、あの呼び名結構気に入ってたんだけどな」
そう翔は力無く呟いて灰色の天井を眺める。
──きっと心の底で俺は、キラは、キラだけは、自分の味方だと、味方をしてくれると思っていたんだろうな。そしてキラが味方をしてくれれば、この状況も何か変わると。
先のキラの『拒絶』は翔が先日何度も味わったものだ。ベイリーに恨まれ、フィルヒナーに軽蔑され、元二に目を逸らされ、アンリに嘲笑され。翔は『三年前』からここに来てからの二日間で嫌という程多くの人から拒絶されてきた。それに慣れたという訳では無いが、もう幾度となく味わったその『拒絶』の中でも、キラのそれが翔の心に刻んだ傷はそれ以外と比べ物にならなかった。
──味方なわけが、ない。基地に居る人達は一般人も遠征隊も関係なく、『三年前』俺と仲が良かったか悪かったかも関係なく、俺を恨んでいる。
翔は改めて現状の厳しさを再確認した。自分が罪を犯したこと、それを償わなければいけないことは既にわかっていた。だが、ようやく気づいたのだ。
翔は今や、その罪を償うことすら出来ない。
翔は今や、助けを求めることすら出来ない。
「……償う意味でも、助けを求める意味でも。
もう俺の手を取ってくれるやつは、基地には居ないんだ」
もはや先も答えも見えないようなその状況に、翔は思わず歯を食いしばる。三年もの月日の償いは、することが出来ない。その償いをするための助けを、誰かに求めることも出来ない。
──つまり、どうやっても詰みじゃねぇか。
そう内心ボヤいたその時、翔の脳裏に昨夜のことが過ぎる。その瞬間、翔は奮起した。
『つまりまぁ……、俺はどんな世界でも英雄でいたいんだよ』
それは昨夜、夢か現かは知らないが、確かに翔がニヒに言い放った言葉であった。その言葉のことを思い出した翔の目には、少しの光が宿った。
「そう……だ。英雄に、ならないとな。英雄で、居続けないとな」
その呟きは普段の彼からは信じられないほど弱々しいものであった。しかし、翔の目には既に、微かにだが闘志が宿っていた。
──どれだけ現状が厳しかろうが、為す術もなかろうが、やるしかない。打開するしかない。償うしか、ない。
結局は堂々巡りの思考となったが、思考が一巡した結果翔の意思は以前よりも強かった。それは考えるまでもない単純明快な答え。冰崎翔は、罪を償うしかない。
──何が出来るか、なんて考えるな。とにかく動け、動け、動け……
そう翔は心の中で自らにそう念ずる。その念に押されるように、蹲っていたその手が微かに動き始め、その足が僅かに上がり始めた。
翔の目は前を向く。その目には弱々しくも力が宿っていた。あの日々を取り戻すしかないと、そう決断した目であった。
────動け!
そうして翔は再度自分に命ずる。その瞬間翔の手はその場から解き放たれ、翔の足はその地から踏み出した。だが……
「………………あれ?」
一拍置いて自分の身体が力無くその場に倒れるのを感じて、翔はそう呟く。
「……っ! なん……でっ!」
そうしてその場に倒れ込んだ身体をよそに、翔は悲愴に満ちた表情でそう言った。
翔には理解が及んでいなかった。何故自分が立ち上がった瞬間倒れ込んでしまったのか。何故自分の身体がその場から指一本も動かすことが出来ないのか。
「なん……でだよ! 俺は……っ! 無理だろうと不可能だろうと……! 『取り戻す』って、『償う』って決めて……! 決めたのに……!」
翔はいつまでも動かすことの出来ない自らの身体に、そうして焦燥を露わにする。その目には涙が浮かんでおり、訳の分からないまま最悪となっていく気分をよそに身体はわなわなと震え始めた。
翔がその時立ち上がることが出来なかった理由。それは悲しいほど単純であった。あまりに単純で、そして単純であるが故に、どうしようもない理由であった。
──っ!まさか……!
そしてあまりに単純であったために、翔にもすぐにその理由は分かった。何故翔は、立ち上がれなかったのか。
「……もう、限界なのか……?」
翔は茫然自失とした様子でそう呟く。
限界というのは、何も身体だけに訪れるものでは無い。心にも、その精神力にも、必ず『限界』というものは存在する。
翔は『三年前』からこの時空に来てからの二日間、否、その三年もの『時間跳躍』の原因となったあの遠征から。翔は頑張り続けていたのだ。その方向が間違っていようと、その結果取り返しのつかない過ちを犯したとしても、翔は事実心をすり減らして、頑張っていたのだ。
「……だからって……っ!」
翔は苛立ちや悔しさや悲しさ、色んな激しい感情の交じった声でそう呟く。
しかし、現実は現実である。走り続ければ体力はいずれ尽きる。身体を動かし続ければ、いずれ筋繊維は限界を迎える。それと同じである。頑張り続ければ、いずれ心も限界を迎える。
「……でも、俺は、それでも頑張らなきゃ……っ!」
そうして翔は必死に身体を動かそうとする。しかしそれは燃えカス同然の、か細い『心』に過ぎない。どれだけ『諦めない』ようにしても、もう心には、気合いに応じるだけの力はない。
「────ぁ」
決定打となったのは奇しくも先の奮起であったのだろう。翔にとって、翔の自尊心にとって最も大きな割合を占めているキラからの『拒絶』。それに負けてたまるかと、奮起したあの時。
翔の精神力はもう尽きた。つまりもう翔は、何かをすることすら出来ない。
「……は、は、は…………」
もはや廃人同然となった自らの身体に、翔はそう嘲笑を浴びせる。
──もう動くことも出来ない、だ? そんなのもう、どうやって『諦めない』って言うんだよ……。
翔はやけにひんやりとした基地の床の硬さを感じながら、虚ろな目になって考える。
── 償う意味でも、助けを求める意味でも、もう俺の手を取ってくれるやつは、基地には居ない。
先程呟いたその言葉を、心の中でもう一度繰り返す。
──そして、それに加えて俺はもう動くことすら出来ない。
また状況を繰り返す。今もか細く灯り続ける闘志を、今度こそ完全に消す為に。
──もう、そんな状況なら、仕方ない、よな。
そうして翔は重々しい口を開いて、こう呟いた。
「……もう、俺は。
全てを、諦め──」
その瞬間、翔の首元に鋭い衝撃が響く。
「何してんだよっ!」
「痛てぇっ!」
突然のその攻撃に、翔は思わず言葉を止めてそう叫ぶ。それと同時に、衝撃の瞬間何とも気の抜ける台詞を言い放った、その人物の方に顔を向ける。
「……っ!」
「おう、ようやくこっちを向いたな」
翔がその顔を見て驚くのをよそに、その人物は何とも朗らかにそう言った。
「お、お前は……」
翔はその人物を知っていた。翔がまさに沈みこもうと、諦めようとした時に自らの手を差し伸べた、その男を知っていた。
翔はその人物の顔を見上げる。白髪の交じった髪に、皺の増えた顔。しかしその顔立ちは、その雰囲気は、何時代になっても変わることの無い、色褪せることの無いものであった。
「……久しぶり、だな。
元気にしてたか? 親友」
見ているこっちが恥ずかしくなるほど屈託のない笑顔で、『松つん』はそう言ったのだった。
『……もう、以前のようには戻れませんよ。カケルさん』
「──っ!」
その脳裏に響いていたのは、その日の朝キラに掛けられたその言葉であった。
──以前のようには戻れない、か。
薄々気付いていたことをキラにそうして叩きつけられたことで、翔は思わずその場で塞ぎ込んでいた。加えて、その後に自分を呼んだ時のキラの翔への呼び名が、翔の心をずっと蝕んでいた。
翔がキラと共に雪原を逃げ回っていた時、敵の包囲網をようやくの思い出突破したその時から呼ばれていたその呼び名は、密かにだが確実に翔の中で大きなものとなっていた。
「『カケル兄ちゃん』……って、あの呼び名結構気に入ってたんだけどな」
そう翔は力無く呟いて灰色の天井を眺める。
──きっと心の底で俺は、キラは、キラだけは、自分の味方だと、味方をしてくれると思っていたんだろうな。そしてキラが味方をしてくれれば、この状況も何か変わると。
先のキラの『拒絶』は翔が先日何度も味わったものだ。ベイリーに恨まれ、フィルヒナーに軽蔑され、元二に目を逸らされ、アンリに嘲笑され。翔は『三年前』からここに来てからの二日間で嫌という程多くの人から拒絶されてきた。それに慣れたという訳では無いが、もう幾度となく味わったその『拒絶』の中でも、キラのそれが翔の心に刻んだ傷はそれ以外と比べ物にならなかった。
──味方なわけが、ない。基地に居る人達は一般人も遠征隊も関係なく、『三年前』俺と仲が良かったか悪かったかも関係なく、俺を恨んでいる。
翔は改めて現状の厳しさを再確認した。自分が罪を犯したこと、それを償わなければいけないことは既にわかっていた。だが、ようやく気づいたのだ。
翔は今や、その罪を償うことすら出来ない。
翔は今や、助けを求めることすら出来ない。
「……償う意味でも、助けを求める意味でも。
もう俺の手を取ってくれるやつは、基地には居ないんだ」
もはや先も答えも見えないようなその状況に、翔は思わず歯を食いしばる。三年もの月日の償いは、することが出来ない。その償いをするための助けを、誰かに求めることも出来ない。
──つまり、どうやっても詰みじゃねぇか。
そう内心ボヤいたその時、翔の脳裏に昨夜のことが過ぎる。その瞬間、翔は奮起した。
『つまりまぁ……、俺はどんな世界でも英雄でいたいんだよ』
それは昨夜、夢か現かは知らないが、確かに翔がニヒに言い放った言葉であった。その言葉のことを思い出した翔の目には、少しの光が宿った。
「そう……だ。英雄に、ならないとな。英雄で、居続けないとな」
その呟きは普段の彼からは信じられないほど弱々しいものであった。しかし、翔の目には既に、微かにだが闘志が宿っていた。
──どれだけ現状が厳しかろうが、為す術もなかろうが、やるしかない。打開するしかない。償うしか、ない。
結局は堂々巡りの思考となったが、思考が一巡した結果翔の意思は以前よりも強かった。それは考えるまでもない単純明快な答え。冰崎翔は、罪を償うしかない。
──何が出来るか、なんて考えるな。とにかく動け、動け、動け……
そう翔は心の中で自らにそう念ずる。その念に押されるように、蹲っていたその手が微かに動き始め、その足が僅かに上がり始めた。
翔の目は前を向く。その目には弱々しくも力が宿っていた。あの日々を取り戻すしかないと、そう決断した目であった。
────動け!
そうして翔は再度自分に命ずる。その瞬間翔の手はその場から解き放たれ、翔の足はその地から踏み出した。だが……
「………………あれ?」
一拍置いて自分の身体が力無くその場に倒れるのを感じて、翔はそう呟く。
「……っ! なん……でっ!」
そうしてその場に倒れ込んだ身体をよそに、翔は悲愴に満ちた表情でそう言った。
翔には理解が及んでいなかった。何故自分が立ち上がった瞬間倒れ込んでしまったのか。何故自分の身体がその場から指一本も動かすことが出来ないのか。
「なん……でだよ! 俺は……っ! 無理だろうと不可能だろうと……! 『取り戻す』って、『償う』って決めて……! 決めたのに……!」
翔はいつまでも動かすことの出来ない自らの身体に、そうして焦燥を露わにする。その目には涙が浮かんでおり、訳の分からないまま最悪となっていく気分をよそに身体はわなわなと震え始めた。
翔がその時立ち上がることが出来なかった理由。それは悲しいほど単純であった。あまりに単純で、そして単純であるが故に、どうしようもない理由であった。
──っ!まさか……!
そしてあまりに単純であったために、翔にもすぐにその理由は分かった。何故翔は、立ち上がれなかったのか。
「……もう、限界なのか……?」
翔は茫然自失とした様子でそう呟く。
限界というのは、何も身体だけに訪れるものでは無い。心にも、その精神力にも、必ず『限界』というものは存在する。
翔は『三年前』からこの時空に来てからの二日間、否、その三年もの『時間跳躍』の原因となったあの遠征から。翔は頑張り続けていたのだ。その方向が間違っていようと、その結果取り返しのつかない過ちを犯したとしても、翔は事実心をすり減らして、頑張っていたのだ。
「……だからって……っ!」
翔は苛立ちや悔しさや悲しさ、色んな激しい感情の交じった声でそう呟く。
しかし、現実は現実である。走り続ければ体力はいずれ尽きる。身体を動かし続ければ、いずれ筋繊維は限界を迎える。それと同じである。頑張り続ければ、いずれ心も限界を迎える。
「……でも、俺は、それでも頑張らなきゃ……っ!」
そうして翔は必死に身体を動かそうとする。しかしそれは燃えカス同然の、か細い『心』に過ぎない。どれだけ『諦めない』ようにしても、もう心には、気合いに応じるだけの力はない。
「────ぁ」
決定打となったのは奇しくも先の奮起であったのだろう。翔にとって、翔の自尊心にとって最も大きな割合を占めているキラからの『拒絶』。それに負けてたまるかと、奮起したあの時。
翔の精神力はもう尽きた。つまりもう翔は、何かをすることすら出来ない。
「……は、は、は…………」
もはや廃人同然となった自らの身体に、翔はそう嘲笑を浴びせる。
──もう動くことも出来ない、だ? そんなのもう、どうやって『諦めない』って言うんだよ……。
翔はやけにひんやりとした基地の床の硬さを感じながら、虚ろな目になって考える。
── 償う意味でも、助けを求める意味でも、もう俺の手を取ってくれるやつは、基地には居ない。
先程呟いたその言葉を、心の中でもう一度繰り返す。
──そして、それに加えて俺はもう動くことすら出来ない。
また状況を繰り返す。今もか細く灯り続ける闘志を、今度こそ完全に消す為に。
──もう、そんな状況なら、仕方ない、よな。
そうして翔は重々しい口を開いて、こう呟いた。
「……もう、俺は。
全てを、諦め──」
その瞬間、翔の首元に鋭い衝撃が響く。
「何してんだよっ!」
「痛てぇっ!」
突然のその攻撃に、翔は思わず言葉を止めてそう叫ぶ。それと同時に、衝撃の瞬間何とも気の抜ける台詞を言い放った、その人物の方に顔を向ける。
「……っ!」
「おう、ようやくこっちを向いたな」
翔がその顔を見て驚くのをよそに、その人物は何とも朗らかにそう言った。
「お、お前は……」
翔はその人物を知っていた。翔がまさに沈みこもうと、諦めようとした時に自らの手を差し伸べた、その男を知っていた。
翔はその人物の顔を見上げる。白髪の交じった髪に、皺の増えた顔。しかしその顔立ちは、その雰囲気は、何時代になっても変わることの無い、色褪せることの無いものであった。
「……久しぶり、だな。
元気にしてたか? 親友」
見ているこっちが恥ずかしくなるほど屈託のない笑顔で、『松つん』はそう言ったのだった。
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