第二章21『一歩』

　黒、黒、黒。ただ虚空のみが存在するその空間で、一人の少女が佇んでいた。

「……まったく、本当に貴方あなたは話を聞きませんよね」

　その声は抑揚がないようで、その実どこか弾んでいるようだった。まるで、旧友の懐かしい姿を久しぶりに見ることが出来たことを喜ぶかのように。

「……いつも、無茶ばかりするんですから」

　しかしその声は同時に寂しそうにも聞こえた。その獣の少女のような存在は複雑な気持ちを抱えていたのだった。喜び、悲しみ、怒り、憂い。しかしそれらのどれよりも大きく、その存在は『愛』を抱えていた。それは自らがかつて一生を共にした、その少年への愛だった。

　しかしその時ばかりは、その愛と同じくらい憂いも募っていた。今見送った少年がまた力を使ったらしいと分かったからだった。

　──カケルのあの力は、その力に対を成す私フィーリニのあの力同様、人の身にはあまりにも危険な力……。

　その存在は本当に翔のことを心配していたのだった。自らも持つその力がどれだけ危険なものであるかを知っていたからであった。

「……本当に、知りませんからね」

　その存在の憂いは、少年がこの先ぶち当たることになるであろう壁のことを知っていてのことだった。英雄ヒーローを名乗るその少年が、仲間を失うことになるその未来を憂いていたのだった。

「私は、忠告しましたからね。カケル」

　その声は静かに、少し悲しそうに、その虚無の空間に響いた。


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　一歩。踏み出してからその靴の底を踏み切って、雪兎シュネーハーゼの急加速を起こす。その流れまでは完璧であった。踏み切り、フィーリニとキラを背負った翔の身体は大きく基地に向かって跳躍をした。

　違和感に気付いたのはその大跳躍の最中だった。最初に感じたのは脚に残る鈍い痛み。その後に感じたのは肌を切る風の僅かな乱れだった。

「──！」

　その瞬間、翔は確信していた。その脚の痛みか、はたまた少しの焦りで体勢が崩れたか。何が原因かは分からないが、この大跳躍は・・・・・・失敗する・・・・、と。

　そしてその確信通り、翔の身体は基地に向けた放物線から大きく外れ、その手前一メートルほどに頭から転げ落ちた。

「……くっそ……！」

　めまぐるしく回る視界になんとか耐えながら、翔はそう悪態をついた。半ばはだけた防寒具の隙間から雪が染み込み、翔の身体に僅かな冷たさを与えていた。しかしその冷たさをも無視して、翔は前へ前へと、基地に手を伸ばそうとする。

　しかし、翔の大跳躍は一歩足りなかった。翔が起き上がるより前に、その背後で拳銃を構える音がした。

　──まずい、終わった・・・・。

　瞬間、翔の頭に浮かんだのはそんな諦念だった。

　──基地まであと少しだってのに……！　あと一歩、足らなかった……！

　今や翔の身体は基地から一メートルほどの場所に投げ出されていた。立ち上がろうとすれば背後うしろの敵が黙ってはいないだろう。翔と基地とは這ってでも辿り着くことのできる距離だが、それもその目論見が敵に悟られた瞬間一巻の終わりである。

　──クソ、ここまで頑張ったってのに……！

　そこがどれだけ終着点ゴールである基地に近い場所だとしても、敵にキラを連れて行かれたらそれで終わりなのだ。その場合、翔のこれまでのすべての奮闘は水泡に帰すことになる。

　──これじゃ、これまでの全て、無駄に……！

　翔はこの先の未来を想像し、顔を苦悶に歪ませた。背後の敵の様子は伺うことが出来ないが、もう二度と翔が彼らの裏をかくことなどは出来ないだろう。二重の囮作戦から始まり先程の『時間転送』に至るまで、翔は文字通り死力を尽くして彼らを欺き基地に近付いたのだ。もう彼らは決して翔に対して油断などしてはくれない。その代わりに翔に投げかけられるのは、油断のない純粋な殺意であった。

「ぐっ……！　あと、少し……！」

　無駄だとは分かりつつも、翔はその手を必死に基地へと伸ばす。しかし、やはりその手は届かない。それはつまり、翔のこれまでの努力はすべて無駄になるということであり──

「くっそがァァァァァ！」

　伸ばした手を思いっきり雪原に叩きつけて、翔は感情の昂りに任せてそう叫んだ。その目は目の前の現実を見たくないがために閉じられ、閉じた目からは僅かに雫が滲んでいた。そうして翔の冒険譚は無駄に──


「──無駄になんか、させないよ」

　瞬間、響いたその声に、翔は閉じていたその目を開く。

　するとその目に映ったのは、翔達に背を向け敵に向かい合う、男達遠征隊の姿であった。

「よくやったな、カケル」

　だがその『声』だけは、翔の前方、基地の方から聞こえていた。その声の主は翔の頭を優しくポンと叩いたかと思うと、その遠征隊の列に加わった。それと同時に、その場にかすかな煙草タバコの匂いが吹き抜ける。

「お前が繋いだこの『一歩』は、決して無駄なんかじゃないよ、カケル。俺らが、無駄にさせない」

　そう言って笑うのは、遠征隊の隊長の元二であった。翔が辺りを見ると、翔を撃たんとする男達に対抗するかのように、その場には翔を守るように遠征隊が集結していたのだった。

　しかしその中に金髪の『先輩』がいないことに気付いた翔は、同時に元二と同様遅れてその列に加わらんとする足音に気付いた。

「……ったく。迷惑かけやがって」

　それは紛れもなく翔を嫌い翔が嫌う男、ランバートであった。彼は気だるそうに肩を鳴らしながらその遠征隊の列に歩いていく。

「それに嘘ホラも吐ふきやがって。何が『遠征隊最強のランバート・ロンネの一番弟子』だ」

　そのランバートの言葉は、翔が洞穴での包囲を抜ける時に敵に向かって吐いた虚言ハッタリであった。何故それをランバートが知っているのか、翔は羞恥心とともに疑問に思ったが、その答えはすぐに出た。

　──あ、そういえば通信が……。

　翔は顎のダイヤルを触る。その通信は全開となっていた。つまりは翔のこれまでの言動は遠征隊に筒抜けであった訳だが、これはいつもの翔の度忘れミスによるものではなかったのだった。

『……フィーリニちゃんをそちらに向かわせています。彼女にはゲンジさんのマスクを付けてるので、カケルさんの居場所はいつでも把握できます。だからカケルさんは通信を全員に繋げた状況で、ひとまず逃げ回ってください』

　翔がダイヤルを全開にしていた理由。それはこの逃走劇の発端となった少女アンリの、その言葉であった。度重なる騒動ゴタゴタで翔はその言葉の存在自体半ば忘れていたのだが、それでもしっかりと言われた通り通信は全員に繋げていたらしい。そのためランバートは翔のその虚言ハッタリの存在を知り得たのだろう。

　しかし、それは同時に翔にとって不都合なマズい事実であった。翔を嫌うその男が、翔にそのようなことを好き勝手言われた時のその心情は想像するのに難くないだろう。どんな酷い文句ことを言われるのか。翔がそう身構えたが、ランバートの口から出たのは意外な言葉だった。

「……大言壮語はもっと実力付けてから言うんだな。技凍刃も借りるんならちゃんと自分の力・・・・で借りやがれ」

　ある意味では鼓舞とも取れるそのランバートの言葉に、翔は小さく頷いた。

「……さて、と」

　翔がそうしていると、遠征隊の列の中心にいる元二がそう話し始めた。

「この際、お前らの不法侵入ズルは見逃してやろう。ただな……」

　そうして元二はその指で男達を指して続けた。

「……もし今後も、コイツカケルやこの子キラを狙うつもりなら」

　そうして元二は、その目で厳しく男達を睨んで言った。

「……来いよ、俺ら・・が相手してやる」

　その元二の声はかつてないほど低く威圧感のあるもので、思わず翔も身震いする。

　その元二の言葉に、男達はたまらず戦意を喪失したようで、何も言わずに去っていった。

「……終わった、のか……？」

　そのなんとも呆気ない幕切れに、翔はそう呟く。翔があれだけ苦戦した相手を遠征隊元二達がひと睨みで退散させた、というのはあまりに信じ難かったが、それでも目前の敵は姿を消した。

「ああ、終わったさ、すべて。改めてお疲れさん、カケル」

　その翔の呟きに、元二はそう返す。元二の口からその言葉を聞いた途端、改めて翔とキラの逃亡劇が成功に終わったことが翔にも実感させられた。それと同時に、それまでピンと張られていた翔の緊張の糸は、あっという間に緩んでいき……

「……あ」

　元二がそう呟くよりも一瞬早く、翔は力なくその雪原にうつ伏せになる形で倒れた。

「ちょっと隊長、カケルは大丈夫なんすか！？」

　その様子を見ていて思わずそう声を出したヒロだったが、元二はそれに笑いながら答える。

「多分大丈夫だろ。きっと疲れが溜まってただけさ。何せ、ここまでキラを連れてきてくれたんだからな」

　そうして元二は、スヤスヤと健やかな寝息を立てる翔を見て、微笑んで言った。

「……お疲れさん、カッコよかったぜ？　英雄ヒーロー」

　その元二の言葉と共に、そうしてその謎の少年キラを巻き込んだ一連の騒動は、幕を閉じたのだった。