生意気な義弟ができました。

鈴木ソラ

生意気な義弟ができました。41話



成樹くんと教室で別れて、俺は少し本屋に寄ってからいつも通り電車に乗った。電車内は毎度のように帰宅ラッシュで込み合っていて、ついこの間の痴漢被害に遭ったことを思い出した。今度は成樹くんがいないから、一応警戒してドアに沿うようにして立った。

「…………」

けれど何やら、いつも電車に乗る感覚と少し違った。背筋に変な緊張が走っている気がする。

……怖いのか?いや、そんなことない…成樹くんが追い払ってくれたから、きっともう痴漢になんて遭うことはない。…じゃあ、なんだろう、この緊張は…。

モヤモヤと俯いて考えていると、俺はその緊張の正体に気づいた。


誰かに、見られてる。


「………」

こんな人の多い満員電車の中、俺はふとそんなことを思った。漠然と感じる嫌な視線、それがどこから飛んでいるのか、顔を上げて確認することはできなかった。この間のおじさんかもしれないと思うと、目を合わせるのも怖くて顔を上げられない。変な冷や汗が肌を伝う感覚が脳を支配する。乗り慣れた電車のはずなのに、どうしてこんなに居心地が悪いのか。ただ早くこの電車を降りたいと一心に唱えた。



結局、その嫌な視線は俺が電車を降りるまで続いて、いや、正直ホームを出た後からもずっと誰かに見られているような気がした。電車の中での緊張を引きずってしまっている自分の気のせいなのだとは思ったが、あの閉鎖空間を出てもその緊張が解かれることは無かった。


「………は、はぁ…っ」

帰路の途中、耐えきれなくなって俺はその確信のない視線を撒くように、走ってアパートに駆け込んだ。急いで玄関に入って、俺はドサリとその場に崩れ落ちる。静かな部屋に自分の上がった息が響いた。やっと緊張が解けたような、けれどやはり落ち着かなくて、テレビをつけて無音という状態を避け気を紛らわすようにした。

………父さん、は…今日は帰ってこないし…成樹くんも、今頃部活だ…。

妙に強ばった心を落ち着かせようと、俺は紅茶を淹れることにした。キッチンに立って様々なことを考える。

…あの嫌な視線は気のせい……じゃ、ないよね…。だとしたら、誰が…?

言われてみれば心当たりはたくさんあるのだが、どれもやはり確証は無い。ここ最近たしかに、変わったことは何度かあった。成樹くんとの登下校中や学校の中で視線を感じてはいたが、それはてっきり成樹くんが人気者だから俺と居るのが物珍しくて注目を浴びているのだと思っていた。いや、おそらく学校で感じる視線の大半はそれで違いないのだろうけど、もしかしたらその中に今日のような嫌なものも紛れていて気づかないだけだったのかもしれない。

……てことは、同じ学校の人…?

いつの間にか止まっていた手元を再び動かして、俺は紅茶の入ったティーカップを持ってテレビの前に座る。

学校内と絞ると、もうひとつ心当たることがあるのを思い出した。

少し前、下駄箱に手紙が入っていた。誰が書いたのかは分からなかったけど、放課後、空き教室に呼び出す内容だった。単にノートの端を破っただけのような紙に書かれていて、書いたのが女子でないことは確かだった。成樹くんに相談したら、そんなの行かなくていいとか、行くなら俺もついて行くとか、心配してくれたっけ。

紅茶をひとくち飲むと、自然とホッと安らぐ気がした。

結局、その日成樹くんは放課後先生に呼び出されて、空き教室には俺一人で行った。それを知った成樹くんが、先生の話をすっぽかしてすぐに駆けつけてくれたんだけど、手紙を出した人が姿を現すことは無くて、俺ももうすっかりそのことを忘れていた。

……もしかして、あの日俺を呼び出した人…じゃないよね…。そもそも誰なのかも分からないし…。

考えても考えても答えに辿り着くことはなくて、余計にモヤモヤするばかりだった。また落ち着かなくなってきたので、紅茶を飲み終えてから俺はお風呂に入ることにした。お風呂を出てほっと一息つくと、玄関の方から何か物音がした。

「っ、」

俺はそれにビクリと肩を揺らして、恐る恐る玄関を覗く。家の中に誰かいる様子は無かったので、恐らく今の物音は玄関の外からだ。玄関の前に、何か気配を感じる。さっきのあの視線と同じだ。

父さん、なはずがない。成樹くんも、まだ部活中のはずだ。

あまりの緊張に心臓がドクドクと脈打つ。音を立てないようにゆっくり扉に歩み寄って、息を止めた。扉の覗き穴から外の様子を覗く。

「………っ!」

そこにいるのは同じ学校の制服を身にまとった男子高校生だった。けど、知らない、知らない人だ。いや、一度話したことがある。この間、成樹くんの後輩だと言って俺に声をかけてきた1年生。けれど、それすら企みの一部だったのかと思うと恐怖心が込み上げた。

もしかしてずっと、扉の前ここに居た……?

「……ふ…っ、は」

そう考えると、あまりの恐怖に足が竦んで呼吸がしづらくなる。俺は音を立てないよう口を両手のひらで塞いで呼吸を整えた。

今、そこに立っている人物と、俺とを隔てるものはこの扉一枚しかない。

俺はそこで重大なことに気づいた。

…………鍵、かけてない……。

本能的にまずいと思った。もしかしたら今にもそのドアノブを捻って男が入ってくるかもしれない。想像しただけで恐怖に体が震えた。

早く、早く閉めないと。

俺はゆるゆると立ち上がって扉の鍵に手を伸ばした。早く閉めなければと思えば思えほど、呼吸が乱れる。俺は片手で自分の口元を抑えて、もう片方の指を鍵まであと数センチのところまで伸ばす。

「先輩、夏向先輩」

鍵をかけようとした瞬間、扉の向こうから妙に落ち着いたトーンで名前を呼ばれる。俺はそれにゾクリと背筋を凍らせた。

「っ……!」

怖くて、体が動かない。早く鍵をかけなくちゃ。

脈打つ鼓動を抑えながら、俺は意を決して扉の鍵をカチャリと回した。そうすると、次はインターホンが鳴らされて、俺は叫びそうになる。

「酷いなぁ、せっかく遊びに来てあげたのに」

さっきよりもワントーン低くなった声でそんなことを言うのが聞こえる。俺は思わずその場に座り込んで動けなくなる。

「先輩、覚えてませんか?俺とあなたは運命ですよ?中学で、話したことあるんです。あのとき転校することになったのは寂しかったなぁ。それでも、やっぱり俺たち運命だったんですね。あとから先輩がこっちに転校してきてくれて、嬉しかった」

知らない、知らないそんなの、覚えてない。

得体の知れないその人物に、俺の中でどんどんと恐怖心だけが湧いていく。

「でもすぐに、邪魔が入りましたね。俺が入る隙なんて無いくらい、いつもベタベタして見せつけて、許せません。ね?だからお仕置きしましょう、先輩」

そう言うと、再びインターホンが鳴った。それに飽き足らず、開けてください、と言いながら扉をドンドンと叩く。俺はもう泣きそうになりながら、反射的にリビングの方に逃げてスマホを手に取った。

…成樹くん、成樹くん、…お願い、お願い助けて……っ。

部活が終わっているかまだ際どい時間、俺は泣きそうになりながら何度も電話をかけた。4、5回目でやっと成樹くんが応答すると、俺は消え入りそうな声で必死に助けを求めた。スマホから聞こえる成樹くんの声にさえ、今は少し救われる。

すぐに向かうと言ってくれたので、俺はそれを信じてただじっと待った。何度も何度もインターホンが鳴らされ、定期的に扉を叩く乱暴な音が聞こえる。

「夏向先輩、どうしてあのときアイツまで空き教室に来たんですか?先輩と二人っきりでお話しようと思ったのに、アイツが来たせいで邪魔されましたよ」

やっぱり、あの呼び出しの正体はこいつだったのだ。開けてください、と何度もドアを叩かれる。俺は震える手でスマホを握りしめた。

電話を切ってからどれくらい経った?30分くらい経っただろうか、いや、もしかしたらまだ20分も経ってないかもしれない。

そんなことを考えていると、男は痺れを切らしたのか無理に扉を開けようとドアノブをガチャガチャと回し始めた。響く乱暴な金属音に俺はビクリと肩を竦める。

「なんでですか?なんで入れてくれないんですか、あの男はいいのに、俺はダメなんですか?」

声のトーンがどんどん低くなっていって、憤りを露わにしているようだった。あの男とはもちろん成樹くんのことで、いつの日か成樹くんがこの家に遊びに来るところも見ていたということだ。まるでずっと監視されていたかのようで、考えただけで鳥肌が立つ。果たしていつからそのような悪趣味なことをしていたのだろうか。

ドアノブを乱暴に回そうとしたり、ドアを蹴ったりして、向こうはこちらに入ることで必死のようだ。もしかしたら扉が蹴破られるかもしれない。考えれば考えるほど嫌なことしか想像できない。

「ねぇ先輩、俺もう我慢できないよ、夏向先輩」

どこか恍惚とした声がドアの向こうから聞こえた。ゾクリと背筋が凍る。すると突然、扉の向こうからガンッと物凄い音が聞こえた。

「っ、」

その音に心臓がドクリと脈打った。外で何が起きてるのか分からないが、もしかして実力行使にでたのではないか、そんな嫌なことが頭に浮かんだ。もし玄関を蹴破られたら、俺は絶対に無事では済まない。

リビングで足を竦めて動けずにいると、妙に扉の外が静かになった。緊張感に呼吸がしづらくなる。ドクドクと心臓が脈打つ中、扉をドンドンと叩く音が部屋に響いた。それに俺の息は止まりそうになる。

けれど、扉の向こうから聞こえた声に、体の力が一気に抜けた。


「夏向っ!俺だ!大丈夫かっ?」

息を切らしたように声を上げる、成樹くんの声がした。俺はなんとか玄関まで走り寄って、扉の鍵をカチャリと開ける。勢いよく扉を開くと、その先には、左手に男の胸ぐらを掴む成樹くんの姿があった。

「夏向、よかった、無事かっ?」

俺を心配する成樹くんに、そのままの勢いで抱きつく。

「ぅ……だ、大丈夫…っ」

目頭が熱くなって涙がじわじわと頬を伝う。それを見て、成樹くんは俺の頭を撫でてから、左手の男に目をやった。俺は思わず成樹くんの背後に隠れる。

「…こいつ、誰?」

成樹くんが胸ぐらを掴んでグイッとそいつを引き寄せると、男は苦しそうに声を漏らした。口の端から血が垂れているのを見ると、どうやらさっきの物音は成樹くんがこの男を殴り倒した音だったということが分かる。

「っ、おまえ、また邪魔しに来たのかっ…いつもいつも俺たちの邪魔しやがって、」

男がそこまで言いかけると、成樹くんは軽くそいつの頬を叩いた。

「はぁ?ってかおまえ、もしかして夏向のストーカーか」
「す、ストーカーなんかじゃないっ!お、俺は夏向先輩の運命のっ…」

そう言いかけたところで、成樹くんがギロりと睨みつけるとそれに怯むようにして男は口を噤んだ。成樹くんは、至極機嫌悪そうにこちらを振り返る。

「…夏向、こいつ知ってる奴?」

そう聞かれ、俺は咄嗟に首を横に振る。そうすると、その男はショックを受けたようにこちらを見た。俺は目を合わせるのも怖くて、再び成樹くんの後ろに隠れる。成樹くんは手元の男に目をやって舌打ちをした。男はそれにビクリと肩を揺らす。小刻みに体を震わせ、どうやら成樹くんの殺気に怯えているようだ。

「…夏向、コレどうする、警察突き出すか?」
「えっ、いや、そこまでは…」

俺が遠慮すると、成樹くんはそいつの胸ぐらを引き寄せた。

「おい、夏向が優しくて助かったな。…けど、二度と俺らの前に出てくんじゃねぇ。出てきたらその時はまたぶん殴るからな」

成樹くんがそう言って強く睨みつければ、男はひぃっと声を上げて慌てて首を縦に振った。俺はその仕草にひとまずホッとする。成樹くんがドサッとそいつを突き飛ばせば、逃げるようによろよろと立ち上がって走り去って行った。

「………………っは、はぁ…」

俺が安心のあまり脱力して玄関先に座り込むと、成樹くんがガバッと抱きついてきた。

「ごめん、ごめん夏向、大丈夫か?何もされてねえ?」

酷く心配そうにそう言うので、俺はなんとか笑って返す。

「……大丈夫だよ、ちょっと、怖かったけど…」

未だに手が少し震えていたけど、成樹くんの服をぎゅっと掴んで誤魔化した。そんな俺を見て成樹くんは、腰の立たない俺を難なく抱きかかえて家の中に運んでくれた。


「俺が、ちゃんと一緒に帰ってやればよかった」

部屋の中に入るなり、成樹くんは俺をベッドの上に座らせてそう言った。

「そ、そんな、成樹くんには部活だってあったんだし……」
「部活なんて、そんなのどうだっていい!それより、夏向のほうがずっと、」

俺は、言おうとしていることが分かって、思わず成樹くんの左頬をバチンと叩いた。突然の衝撃に、成樹くんは黙り込む。

「っ、成樹くんの馬鹿っ…俺、成樹くんにそんなこと言って欲しくない……!」

部活も友達も、苦手な勉強にさえ諦めず一生懸命に力を尽くす成樹くんが、俺は好きだ。だからそんな悲しいことは言って欲しくない。

成樹くんは、それを聞くとゆっくり顔を上げてこちらを見つめた。その視線が少し鋭くて俺の背筋にはゾクリと緊張が走る。

「…俺は、おまえの為に…」
「そ、そうだけど…わかってるけど、成樹くんにそんなふうに思って欲しくないっ…!」
「っ、わかってねぇよっ!」

成樹くんは声を荒らげてそう言うと、ガンッと拳を壁に叩きつけて憤り露わにした。俺はその様子と衝撃にビクリと体を強ばらせる。

「全然わかってねぇ!一人じゃ自分の身も守れねぇのに、平気な顔で大丈夫とか言うんじゃねぇよ!」

俺はそう言われ、何も言えなくなって口を噤む。成樹くんはそんな俺を見て、ハッとしたように目を見開いて俺を凝視した。

「……っ、帰る」

そう言って成樹くんは荷物を持って、俺が止める間もなく家を出て行ってしまった。俺は動けないまま成樹くんの出て行った玄関を呆然と見つめた。

………………馬鹿だ、俺………。

汗まみれになって、せっかく走ってここまで助けに来てくれたというのに、ありがとうの一言も言えなかった。本当に馬鹿、何してるの俺。

「…………っ…」

俺は我慢できなくなって、よろよろと立ち上がった。成樹くんの後を追いかけようと玄関の扉を開けると、扉の横には成樹くんが俯いてしゃがみこんでいた。

「っ……ま、成樹くんっ?………い、行っちゃったかと思った…」

成樹くんは少し驚いて俺を見上げると、すぐにまた俯いてしまった。

「…行かねぇよ…あんなことあって、夏向を一人にできねぇだろ…」

どこか悔しそうにそう言うので、俺は思わず成樹くんをぎゅっと抱きしめる。

「っごめん、叩いたりしてごめんね成樹くん…俺、ちゃんとわかってるから、成樹くんが俺のこと守ろうとしてくれてるって、わかってるよ」

こんなにも大切に俺のことを守ろうとしてくれる成樹くんが、俺は愛おしくてたまらない。

「……夏向…、俺こそ、ごめん。夏向が俺のこと想ってああいうふうに言ってくれてるの、わかってんだけど……、自分にムカついて…夏向はもう十分怖い思いしたってのに、また俺が乱暴に怖がらせて、ごめん」

悲しそうに謝るので、俺はふるふると首を振った。

「…怖くないよ、成樹くんなら怖くない…。けど俺やっぱ、成樹くんには俺以外もちゃんと全部大切にして欲しい…。これって、俺のわがままかもしれないけど…」

俺がそこまで言いかけると、成樹くんはぎゅっと俺を抱きしめ返した。

「ん、大丈夫。夏向のことはちゃんと守るけど、だからって他のものを捨てたりしねえよ…夏向がそうして欲しくないって言うなら尚更」

耳元で優しくそう言ってくれる成樹くんに、なんだか俺は泣きそうになった。けれどもまだ言っていないことがあるので、俺はぐっとそれを堪える。

「…成樹くん、ありがとう、助けに来てくれてありがとう」

俺がそう言うと、成樹くんは黙って優しく俺の髪を撫でた。


俺が生まれたのは、この人に守ってもらうためかもしれないとか、成樹くんが生まれたのは、俺を守るためなんだとか。そうだったらいいと、厚かましく都合のいいことばかり考えてしまうのも、幸せかもしれない。



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