生意気な義弟ができました。
生意気な義弟ができました。40話
学校からの帰り、帰宅ラッシュで混んだ電車に揺られていた。満員電車の中、その人は離れてしまわないように俺の腕にしがみついている。身長差で少し上から見下ろすと、俯きがちに長い睫毛が瞬きして動く。よく見ると本当に人形のように綺麗な顔だ。
「…夏向、今日は俺んち寄ってかねぇ?」
それこそ、ずっと見つめていると変な気を起こしてしまいそうなほど、俺には魅力的に写る。
「………あ…えっと、どっちでも…いいかな…」
曖昧に返答を濁す夏向は、どこか様子がおかしい。こちらを見てくれず、視線はさっきから泳ぎっぱなしだ。どうした、と声をかけようとすると、夏向は何も言わずに俺の服の袖をぎゅっと掴んだ。
俺はもしやと思い、夏向の背後に目をやる。スーツ姿の男が一人、その手は夏向の太腿あたりを這っていた。
っ…このおっさん…!
俺が真っ先に声を上げようとすると夏向はそれを察したのか、ふるふると首を横に振ってそれを拒否した。一瞬、夏向の意図を掴めなかったが、考えればすぐにわかった。
いくら女子みたいな夏向でも男は男。俺だったら、電車内で男に痴漢されるなんて屈辱にも程がある。
俺は周りに気づかれないようにそいつの手首を掴んだ。その男の目をギリッと睨みつけると、少し怯えたような顔ですぐに手を引っ込める。幸いすぐに電車は停車して男はそそくさと降りて行った。
「夏向っ、ごめん、すぐ気づいてやれなくて…」
ホームに出てすぐ、俺は夏向の両肩を掴んで声を上げた。夏向は困ったように笑って俺を見る。
「…最初は気のせいかなって思ったんだけど…大丈夫、成樹くんが追い払ってくれたし。それに、女の子じゃないんだからそんなに心配してくれなくても平気だよ」
「……そっか…なら、いいんだけど…」
……さっきの奴、やっぱ殴っておけばよかった。
俺が俯くと、夏向は俺の顔を両手のひらで挟んだ。
「もう、成樹くん、元気だして…?早くお家行こう?」
「……ん」
可愛い恋人がそう言うので、俺は素直にうなづいた。
「ただいまー」
「おじゃまします」
もう随分慣れたように、夏向は靴を脱いで家に上がる。するとリビングから兄貴が顔を出した。
「おかえり。あ、夏向くん」
「こんにちは誠さん、おじゃまします」
夏向が丁寧に挨拶すると、兄貴はどーぞどーぞと返してまたリビングに顔を引っ込める。
「夏向、今日は泊まってかねぇ?明日休みだし、それともなんか予定ある?」
「ううんないよ。…でも、こんな頻繁に泊まりに来て迷惑じゃない?」
夏向が申し訳なさそうに言うと、それが聞こえたのかリビングから、へーきへーき、と兄貴の声が聞こえる。俺は夏向を二階の自分の部屋へ促した。
「そういえば成樹くん、今日ね、成樹くんの後輩っていう子に話しかけられたよ」
夏向が、俺の部屋に入るなり思い出したようにそう言う。
「後輩?てことは1年?」
「うん、サッカー部の。なんだか成樹くんのこと慕ってるみたいだった」
夏向は自分のことのように嬉しそうにそう言う。その少し幼いはにかむような笑顔に、俺の心臓はキュンと掴まれる。
「…なんで夏向に?何話したんだよ」
「うーん、 本当にちょっと成樹くんのこと喋っただけだよ?たぶん、よく一緒にいるから声かけられたんじゃないのかな。成樹くんは後輩からも慕われててすごいね」
「…えー、なんかアヤシー。理由つけて夏向に近づこうしてんじゃねぇ?」
物静かで目立たないためなんとか今は夏向のその魅力的な容姿を隠せているが、もし他の奴がそれに気づいてしまったらと考えると気が気でない。
「他には?最近変な奴に声かけられたりとかしてねえ?」
俺が顔を覗き込んで聞くと、夏向は考えるようにして唸った。
「…特に無いかな、平気だよ。それに、成樹くんがいつも一緒に居てくれるでしょ?」
夏向は天使のような笑顔でそう俺に微笑みかける。俺は耐えられなくて、その場で夏向を床にドサッと押し倒した。
「っ!ちょ、ちょっと成樹くん…!」
「…今のは、夏向が煽っただろ」
俺の腕の下から逃れようとする夏向の腕をを俺はカーペットに縫い付けて、逃がすまいと首に吸い付いた。そうすると、夏向の息を呑む声が聞こえる。
「ぁ、待ってっ…昨日、シたばっかだから……だ、め!」
そう言って夏向は顔を真っ赤にして俺の胸を押し返した。そんな恥ずかしがる姿に余計唆られて今度は唇に吸い付こうとすると、背後の扉をコンコンと叩く音がした。
「おーい、ドア半開きでサカってんじゃねーよアホ」
振り向くと、半開きだったドアから呆れた顔の兄貴が姿を現した。俺はそれを見てチッと舌打ちをした。
「…邪魔すんなよ兄貴」
「いや状況考えろ。あと、無理矢理は嫌われちゃうぞ成樹クン」
くく、と笑うように兄貴はそう言った。俺に組み敷かれた夏向に目をやると、どうやらこの状況を見られたことが相当恥ずかしかったようで口をパクパクさせている。
「…ってか成樹おまえ、男友達組み敷いてるとこ兄貴に見られてよく平然としてられるな」
「はぁ?だって、兄貴もそうだろ」
さも当然のように呆れ顔をする兄貴に、俺は真顔で言う。すると、兄貴はにっこりと気味の悪い笑顔を貼り付けて首を傾げた。
「……はい?」
「今更だけど、兄貴あのバイト先のマスターと付き合ってんだろ?兄貴もその人も男じゃん」
俺がそう言うと、腕の下の夏向が、えっ、と思わず驚きの声を漏らす。兄貴はしばらく黙ってから、そっぽを向いて真顔で舌打ちをした。
「…ほんと面倒なとこで鋭いよなおまえ、うちの家系ってみんなそう…」
「姉貴には秘密な?」
「当たり前だろ」
そこでやっと、夏向が俺の体を退かして慌てて起き上がった。
「ま、誠さん、男の人と付き合ってるんですかっ?」
「ん、まぁ…一応」
「…い、意外です…誠さん優しくて紳士だし、彼女とかいるんだと思ってました…」
「…おい兄貴、夏向はやんねぇからな?」
「誰も狙ってねーよ」
夏向が兄貴を褒めるものだから、俺は思わず夏向の肩を抱き寄せて兄貴を睨んだ。もちろんそんなもの兄貴はスルーしてしまうのだけど、夏向に手を出そうという奴がたとえ兄貴であったとしても絶対に容赦しない。
「悪いな夏向くん、こんな出来損無いな弟で。勉強はできないし気も遣えない、取り柄はサッカーと顔だけだろ」
さらっと俺の悪口ばかり言ってのける兄貴を、俺は睨みつける。
「そ、そんな…成樹くんのおかげで毎日楽しいですよ」
照れたように言う夏向に、俺の心臓はまたもや射抜かれる。
「ならいいんだけど、嫌になったらちゃんと言ってやってよ、こいつ馬鹿だから」
「もう兄貴いいだろ…用ないなら出てけって!」
図星をつかれたので、俺は追い出すように兄貴の背中を押した。兄貴は、俺これから出かけるから、とだけ言ってすぐに下の階へ降りて行く。
「ほんと兄貴いらねーことしか言わねぇ…。どうせまた彼氏んのとこ行くに決まってる」
「ふふ、良いお兄さんだよ。それに、俺一人っ子だからあんなふうに兄弟で言い争えるのすっごく羨ましい。誠さんまで彼氏がいるなんて驚いたけど」
楽しそうに笑う夏向は、俺の心のオアシスのような存在になっている。
「っ……やっぱ、キスだけ、だめ?」
俺が詰め寄ってそう聞くと、夏向は恥ずかしそうに視線を泳がせてから、小さな口を開いた。
「……キスだけ、なら…」
思春期真っ盛りの男子高校生、こんなに可愛い恋人を目の前に我慢出来るわけがない。
校舎内に帰りのチャイムが鳴ると、教室から続々と生徒たちが出てきて騒がしくなる。そんな中俺もスポーツバッグを肩にかけて席を立つ。
「かーなた、今日部活あるから、じゃあな」
「うん、部活頑張ってね」
「夜電話するから」
待ってる、と夏向は言って俺を部活へ送り出した。最近の楽しみは、部活終わりに夏向と長電話をすることだった。仮にもサッカー部のエースとして真面目に部活に取り組んでいるからには、頻繁に夏向と帰ることはできない。この間なんか、一刻も早く夏向の声が聞きたくて、部活終わりに部室で着替えながら夏向に電話をかけたことがある。それがコーチにバレて怒られたっけ。
そんな思い出し笑いをして部室に向かっていれば、いつの間にか隣にいた部活仲間に声をかけられる。
「なんか浦部とすげー仲良くね?浦部ってそんなおもしれーの?」
「えー、あー全っ然?ふつー」
本当は夏向といるのはすごく楽しくて一秒でも多く一緒にいたいくらいだけど、そんなことを言えば友人たちは夏向に興味を示してしまう。それを避けるべく俺は誤魔化した。
「はぁ?じゃあなんでそんな仲良いわけ」
意味不明、と友達はつまらなさそうに言う。
「あ、そいえばさ、部活で俺と夏向が仲良いって知ってる1年居るの知らね?すげー俺のこと慕ってて」
「いーや、知らねーけど。ってか成樹エースなんだし1年からは大体慕われてんじゃねーの」
「まぁ、とーぜん」
俺が鼻にかけて言うと、ムカつくーと友人は愚痴を零す。
にしても、夏向に声をかけた後輩というのは誰なのか、部活終わりにでも直接後輩たちに聞いてみよう。
「おい成樹、スマホ鳴ってっけど」
練習後コーチに呼び止められ、ようやく解放されてから部室に戻ると、先に戻っていた部活仲間に荷物の上の揺れるスマホを指さされる。
「ん、ほんとだ。ちょい、コーチ来ないか見張ってて」
着替え終えた友人にそう頼んで、俺は鳴り続けるスマホを耳に当てて応答した。部室ははしゃぐ部員でガヤガヤと騒がしい。
「ん、もしもし、夏向?どした」
いつもはこちらから電話をかけるのに、部活が終わっているかいないか、際どいこの時間に、らしくなく夏向は俺に電話をかけた。しばらくして、スマホから夏向の声が聞こえた。周りがあまりにも騒がしくて、一瞬その消え入りそうな声を聴き逃してしまいそうになる。
『…………成樹、くん……助けて…お願い…』
今にも泣きそうな程に震えたその声が、たしかに耳元でそう呟いた。俺はハッとして、着替えようとした手を止めてスマホから聞こえる夏向の声に注意する。
「夏向…?なに、どうした、なんかあったのかっ?」
『…………家に、居るんだけど…ずっと、玄関の前に誰かいるの…知らない人…インターホンが、ずっと、鳴ってて…』
そう言う夏向の声の後ろから、確かに一定のリズムで鳴り続けるインターホンの軽快な音が聞こえた。その音が鳴る度に、ひっ、と恐怖に息を呑む夏向の声が聞こえる。
「わ、わかった、すぐ行く!今から行くから!絶対ドア開けるなよ?窓もちゃんと鍵閉めて、待ってろ…!」
俺は電話を切るなり、これまでにないくらいの速さで着替えを終え部室の戸締りを友人に押し付けて、学校を出た。試合でボールを追いかけるのに劣らないくらいの速さで俺は帰り道を駆ける。
っ………馬鹿だ、馬鹿だ俺…!この前電車で痴漢被害に遭って怖い思いしたばっかだってのに、一人で帰らせて、何も気遣えてなくて…これじゃほんとに、兄貴の言う通りだ。
俺は酷い自己嫌悪と悔しい想いに引き裂かれそうになりながら、必死に走って夏向の家へ向かった。夏向の家は父親と二人暮らしらしいが、父親は仕事で多忙なのでほとんど家に帰らない。こんなときでも、駆けつけて守ってやれるのは俺だけなのだ。
頼むから、無事でいてくれ、夏向…。
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