ろりこんくえすと!
2-50 灼熱の記憶の欠片 9
2-50 灼熱の記憶の欠片 9
夥しい血液の華が咲いた。絶対捕食者たる魔物は男の亡骸を踏み潰し、残りの餌にありつこうと牙を向く。
脅威度A、タイラントグリズリー。
脅威度Aとは歩く災害だ。人如きの手には負えない人智を越えた化け物。
それが今、私達の目の前に存在し、口から獰猛な牙をギラつかせていた。
「ヴィクトル!」
「はははっ.......あいつさ、俺達が仕留めたワイルドボアの血の匂いを嗅ぎつけてやってきたみたいなんだよ.......」
視線を横に向けると、確かに猪型の魔物の死体が横たわっていた。すく傍らには焚き火をしていた後が見られる。
肉を捌いて焼いて食ったのだろうか。その匂いに引き釣られてやってきたわけだ。予想を遥かに超える大物が。
ヴィクトルが乾いた笑いを口から零す。それは絶望か、諦め故か。
今にもタイラントグリズリーは剛腕を振り上げ、男もろともヴィクトルを血祭りにあげようとしていた。
「だけどな.......俺は、俺は.......ここで死んでいい人間じゃなあぃ!」
ヴィクトルは声にならない奇声を発したと思うと、腰にぶら下げていた剣を引き抜いた。
だが、剣の矛先はタイラントグリズリーでは無かった。
「なっ!?」
私は思わず息を呑む。
なんとヴィクトルはまだ残っていた男の背中目掛けて剣を突き立てたのだ。肉が断つ鈍い音が聞こえて血飛沫が飛んだ。男は喀血し、背中からドクドクと血が流れ落ちた。
ヴィクトルの奴、男を囮にして逃げるつもりだ。まさか、まさかこの土壇場でそんな考えが思い浮かび、実行までする等、私にはとても信じられなかった。
その光景を見たタイラントグリズリーは鼻をひくつかせた。
魔物に取って人間は餌に過ぎない。これはタイラントグリズリーは新しい獲物に目を付ける事に意味する。
男の肉を。新鮮な、肉を。
「ヴィクトルッ!」
ヴィクトルは男の背中に剣を刺したまま置き去りに、この場から脱兎の如く逃げだした。
「グルガガガガァァァァァァ!!!」
ウルラキア山中に響き渡るような、身も竦むおぞましい雄叫びをタイラントグリズリーはあげた。
血濡れた剛腕がぶれる。
とにかく身体が動いた。感情とか理屈とかじゃない。気付けば勝手に私の身体が動いていた。男の脚を掴んでぶん投げ、タイラントグリズリーから距離を引き離していた。
男がさっきまで蹲っていた場所に、タイラントグリズリーの剛腕が地を穿つ。地面に揺れが生じ、土砂と石塊が爆ぜ散り土煙が巻き上げられる。やはり、山頂から噴き出していた土煙はタイラントグリズリーの一撃のものだった。あんなものをまともに喰らえば、ひとたまりもない。
「グルルルルゥ.......」
殺意を灯したタイラントグリズリーの眼が私達を見据える。
全身に悪寒が走った。本能が最大級の警鐘を鳴らす。
逃げろ。
その考えだけが頭の中を支配した。
「.......ッ!? エドガー! 私と一緒にこいつを担いで逃げるぞ! ドレム、走ってる間に魔法を練って足止めしてくれ!」
タイラントグリズリーの咆哮が反響する。目の前の獲物を奪われた憤激の咆哮だ。
私とエドガーは男の腕を肩に回すと、焦燥と恐怖の感情が背中を押したかのように、転がり落ちるように山を下っていく。
タイラントグリズリーはそんな私達を逃がさまいと、地を砕いて追いかける。
メキメキ、ボキボキとその巨躯故か通っただけで周りの木々が押し倒され、薙ぎ倒される。
大木が剛腕を振っただけで、木の葉のように吹き飛んでいく様は圧巻だ。
すぐ横には木の残骸が降り注ぎ、後ろからは破壊音と雄叫びが木霊する。
タイラントグリズリーの身体は大きく、周りの木々に身体を阻まれて私達を思うように追いかけられないでいた。この時ばかりは、あの巨体が私達を首の皮一枚繋がらせることに至っていた。
追い付かれるのは時間の問題だった。こちらは負傷した男を背負っていてスタミナが切れるのもそう遠くない。
いつかは追い付かれ、殺されるのがオチだろう。
「ドレム! やられるか!?」
「ライトニングシャベリンッ!」
私の声にドレムは頷き、虚空に巨大な魔法陣を展開し魔法を発動させる。青白い輝きを放つ雷の槍が、稲妻を迸らせて、一直線にタイラントグリズリーへと向かい直撃する。
落雷が降ったかのような音が爆音がすぐ側で鳴り響いた。焼け焦げた独特の苦い香りが鼻を掠め、タイラントグリズリーの胸から黒い煙が上がっていた。
されど、無傷。
ドレムの魔法でも毛皮が少しだけ黒く炭化しただけで、タイラントグリズリーからしてみればかすり傷にすらなっていない。人で例えるなら産毛が少し抜かれたぐらいの感覚だろう。
こんな時に重砲があれば、と私はサバイバル試験で剣を選んだことに悔やんだ。いや、ドレムの魔法ですらタイラントグリズリーの毛皮に塞がれてダメージが一切通っていなかった。例え私の重砲でも、タイラントグリズリーにとって有効打となる一撃は与えられそうにない。
「くそっ、全然効いてねえ! ドレム、もっと強い魔法ないのかよ!?」
「さっきの魔法が私が使える中で一番強力なやつですよ!」
私達は身を翻してタイラントグリズリーから逃げる。
行く先々で木々がだんだんと少なくなってきている。山頂から遠ざかったことにより、木々の繁殖地が変わっていたからだ。これが意味することはタイラントグリズリーを阻む障害物が少なること、即ち私達が追い付かれる時間が残りの僅かとなった。
全員が荒く息を切らしながら走る。後ろからは獰猛な雄叫びと粉砕音が徐々に、徐々に這い寄ってくる。
疲労と緊張で既に身体が限界だ。担いだ男は鉛のよう重く、足を一歩踏み出すだけで筋肉がはち切れそうだった。それは、私と一緒に男を担いでいるエドガーも同じだった。滝を浴びてきたかのような汗を両方とも全身から滴らせている。 
早くどうにかしなければ。このままではタイラントグリズリーに追い付かれ、殺されたあの男のように血祭りだ。解決法を模索し、思考に耽るが何も思い浮かばないまま時間だけが過ぎていく。
その時、パキリ、と足元から乾いた音が聞こえてきた。視線を下に逸らすと焦げた薪が私の足で砕けていた。
そうだ、ここは私達が焚き火をしていた場所だ。山頂から既にここまで来ていたのかと思う反面、まだこれだけしか距離を離していなかったのかと絶望が心の中で広がった。
遂にタイラントグリズリーはすぐそこまで迫っていた。吹き飛ばされ、砕かれた大木が私の横を掠めて飛んでいく。いや、それだけだはない。シャバシャバと水の流れる音が耳を通る。
私達が焚き火を焚いたすぐ側には川が流れていたんだ。
「ドレム! ドレムなら回復魔法を使えるだろう!」
「一応使えますけどこんな時に何が!」
「そいつを背負って逃げろ! 川に飛び込め!」
私は男の腕を離してドレムに預ける。男は意識は既に無いようで、ぐったりとしたまま力無くドレムに寄り添った。
「水の中に入れば血の匂いも消える! 流れに沿って下れば麓まで着く筈だ!」
「でもッ! アシュレイさんとエドガーさんがッ!」
ドレムが悲痛な顔で叫びをあげる。
私とエドガーには男から流れ落ちた血がべったりと貼り付いていた。着用していた衣服は既に元の色が分からないぐらいに赤く染まり、鉄の強い匂いが漂っている。
ヴィクトルはタイラントグリズリーは血の匂いを嗅ぎつけてやってきたと言った。それは紛れもない事実だ。ドレムと男の血の匂いは川の水で薄まるが、私達の衣服に付いた血の匂いがまだ残っている。
「アシュレイ、くるぞ.......!」
後ろからは地響きと、荒削りな爪で木々が跡形もなく粉砕され、タイラントグリズリーの声が背後まで迫っていた。
「グズクズするな! 早く行けッ!」
私は怒鳴ってドレムの背中を押した。
「.......ッ!」
唇を噛み締め、ドレムは男を抱えて、私達に背を向けて走り去っていった。後にドボン、と水の中に飛び込んでいく音が聞こえた。
そうだ、それでいい。
私とエドガーは踵を返し、なるべく木々が多い場所の中へと駆ける。
男を担いでいた足枷が無くなったことで身軽になった。さっきまでとは違い、縦横無尽に木の根や幹を踏み台にして夜の森に紛れ込んでいく。
それでもタイラントグリズリーは中々捕まえられない私達に怒りのボルテージをあげたのか、嵐のような爪撃を巻き起こし、地形が変わる程の勢いで追い掛けてきた。
「アシュレイ出るぞ!」
ぶわっと、木々に囲まれた光景から一変し、視界が晴れた。
「ここはっ.......!?」
私とエドガーが出た場所は、果てしない夜空が広がっていた。
行き止まり。
ここまで逃げてきた中で最悪の選択をしてしまっていた。
崖だ。もう逃げ道がない崖に私達は追い込まれてしまっていた。
振り返ればタイラントグリズリーが唸り声を漏らしながら、仁王立ちしてじわじわと私達に近付いてくる。
私は徐々に後退りをしてしまう。転がっていた石ころが踵に当たり、何の音も立てずに下に落ちていった。
思わず真下を見下ろせば、気が遠くなりそうな高さから、轟々と音を立てて水が流れ落ちている。
「なあ、俺ってさ、これまでアシュレイに一度も勝てなかったよな」
「エドガー、何を言って、」
私はエドガーにトン、と胸を押された。突然のエドガーの行動に私は何も出来ないまもバランスを崩し、真っ逆さまに崖から落ちていった。
「だからまた勝負しろ! 覚えておけ! 絶対だ! 絶対だからな!」
浮遊感が全身を襲う中、エドガーの背中がどんどん離れていく。手は伸ばすも届かない。ただただ虚空を掴むだけだった。
エドガーの姿が小さくなっていく。豆粒みたいに点になり、私は飛沫を挙げて水の中に沈んでいった。
「エドガーッ! エドがっ.......!」
必死に叫ぶが水が喉に入り込み声は遮られた。エドガーの元に戻ろうとするが激しい水流が私の邪魔をする。川は深くて足が水底に着かなく、私は抗う術もなく流されていった。
「エドガー.......ッ! エド.......」
それが、私が最後に見た彼の背中だった。
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