八番

黒虱十航

無題

 思い出したくないことを思い出したおかげで、僕の移動教室は最悪なものになり始めていた。とはいえ、僕も一応、演技は得意なつもりだ。仮面をつけて、無難にやり過ごすくらいなんてことない。
 それにこの移動教室にだっていいことはあった。思い出すのは一日目の夜のことだ。夜に行ったレクの後僕たちは、夜空が綺麗だということで、ベランダに出て、星空をみることが許可された。二日目の夜だってそうだ。望遠鏡もあったので、一日目より本格的で少し面倒だったが、それでもとても綺麗な星空は、僕の心を奪った。


 真っ暗な世界で、僕は誰とも関わることなく、ぽつんと一人で空を見上げた。都会なんかよりずっと澄んだ漆黒の中に輝く星の美しさは、僕と物語に確かに描写され、消えることはない。
 去年も、一昨年も、移動教室はあって、同じように星空鑑賞のようなものはあったのに、そのときは星空が綺麗だ、なんてこと思えなかった。そんな余裕がなかったのだ。毎日、生きることに必死で、生き延びるために必死で。
 それがつまらないことだと教えてくれたのはきっと僕の心の師だ。今、人格を借りて僕を守ってくださす師匠こそ、僕を助けてくれたのだ。
 わちゃわちゃと喋るリア充たちには興味も湧いてこなかった。彼らの描写は僕の物語にはいらないのだ。


 そんな風に、いい思い出だってある。だから、この移動教室を悪いというのは少し間違いだろう。思い出したくないことを思い出したのは僕のせいであって、移動教室のせいではない。そう結論付けて、僕はレクに向かった。


 雨で始まった移動教室は、飯盒炊爨という大イベントのある三日目の今日も雨という色に染めた。全員が待ち望んでいたわけではないだろうが、料理が好きな人からすればそれなりに楽しみだったイベントのはずだ。僕は、というと別に楽しみにしていたわけでも楽しみにしていなかったわけでもない。
 ただ、嫌だったのは飯盒炊爨の代わりに行われたのがレクであったということだ。周りに順応して、適当に遊ばなければならない。それが僕にとっては苦痛だったのだ。しかも、班対抗とか、班対抗じゃなかったりとか、色んな種類の遊びをやる。それが苦しかった。
 気持ち悪い。そんな感想が浮かんで、僕は僕と同じにおいをしていたあの少女を無意識に捜した。が、見渡しても彼女は見つからなかった。そういえば、これまでの学校生活で、彼女を見かけたことはあまりないような気がする、クラスも違い、体育も違う。だから、見かけないのは当たり前と言えば当たり前なのだがそれにしたって人数の少ない学校だ。数ヶ月いるんだから見かけてもいいはずだ。
 でも、僕は見かけなかった。無論、意識的に捜していなかっただけなのかもしれない。そうしなければ他人に興味を持っていない僕は見つけられないのかもしれない。が、それだけではない気がした。


(まあ、別にいいけど)


 心の中でそっと呟いてから仮面をつけなおした。省木にその仮面を容易く見透かされてしまいそうですごく恐ろしくなりながらも、僕はなんとか、上手くレクをやりすごすことにした。




 レクを終え、僕は全力疾走していた。
 本当に何で僕がこんな目に遭っているのか分からない。こうなるのが嫌だから、始めから急ごうと言っておいたのに。
 それは、クイズラリーのようなものだった。予め定められたコースを規定の時間内に、決められたポイントを回りながら、ミッションをこなしていくというものだ。
 二つ目の関門まではよかった。それなりに時間にも余裕があって、休みながらゆっくりゆっくりと歩いていられた。歩きながら適当な雑談なんかもして、それなりに楽しそうに班員がやっていたので文句もあまり言わなかった。
 ただ。他の班と一緒になって話し始めたあたりからまずいな、と思った。サボる仲間を見つけたら、人というのはとことんサボる。競争意識なんてものは、優れた人間の間でしか生まれないのである。浴場で泳ぐような程度の低い人間の集まりのなかで、競争意識は生まれるはずがないのだ。だから、間に合わないだろうと言って急かそうとした。
 でも、僕の言葉は響かなかった。急いでくれず、結局、関門を越すごとに時間はやばくなってきた。
 最後の関門の前で、流石にやばいことに気付いたので急いだ。けれど、そんな程度でどうにかできるような遅れではなかった
 最後の関門を通過して、自分達が置かれている状況を再認識した僕達はいよいよ本気で急ぎ始めた。まずは早歩きだった。それくらいなら、僕も慣れていたし容易いものだった。早歩きに関しては、そこらのリア充よりも自信があったので、前の方に合わせるとなると、早歩きと言えないようなレベルの速度になる。
 それは、疲れきった体にとってありがたいものだった。休も休みやって、もし間に合うなら別に構わない。手抜きは最高だ。やるべき最低限だけこなして、手抜きをするのはクールだと思うし、そうしたいと本気で思う。
 でも、時計をみて、気がついた。こんなんでもきっと絶対に間に合わない。間に合わせるためにはもう少し急がなければならない。


「ちょっと走るぞ」


 班長の声で、前の人が走り出す。小走りレベルの疾走だが、急だったので少し驚いた。疲れきった体に鞭を打って、僕は小走りで追いつく。追いついたときには、前の人はまた歩き始めていて、少し歩くとまた前の人は走り始めた。
 きっとこっちを慮ってくれているのだろう。だが、走っては歩き、歩いては走りを繰り返すと体には疲れが貯まっていく。しかも、そこに午前中で止んだと思っていた雨が再び降ってきた。折りたたみ傘を出さないとまずいレベルの雨になってきて、傘を取り出し、黒い小さな花を開かせて走ると、先程より余計に走りにくくなっていることに気付いた。
 折りたたみ傘を持ちながらも、雨は全身に降りかかってくる。夏近いというのに、雨に濡れているせいですごく体は冷え切り、走っているのが辛くなる。


「あー、くっそ」


 なんてらしくもなく叫んだ。無論、その声は誰かに聞かせるためのものじゃないので、そこまで大きくない。ただ、叫んだという方が正しいくらいの思い切った声だったのだ。
 面倒臭い。面倒臭い。面倒臭い。面倒臭い。心ん中で何度も何度も文句を言いながら走る。もう体力が持たない。重い荷物が、ただただ、体力を削りまくる材料にしかならない。
 こんなに体力が限界になったのは久しぶりだ。死にそうなこの感覚、小学校の頃の運動会でも味わってない気がする。
 そんなことを考えていたら案外、すぐに辿り着いた。


 移動教室が終わり、僕は帰りのバスで頬杖をついていた。まあ本当はこのバスを降りて家に帰るまでが移動教室なのだろうが、正直そんなこと言っていられるほど余裕はなかった。
 疲弊しきってしまい、帰りのレクも映画も、僕にとっては睡眠を妨げるものにしかならなかった。映画を見始めて、寝てもいいという許可が降りてからは考え事をする気力も無く僕はまどろみ始めている。
 僅かな意識の中で、僕はこの移動教室のこの瞬間を、僕の物語に描写することに決めた。

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