八番

黒虱十航

無題

 サボろうか、というのが初めの感想だった。
 移動教室。それが嫌で嫌で仕方が無かった。他人と一緒に、どこかに泊まるというのがもう、僕には考えられなかったのである。
 気持ち悪かったといってもいい。いや、別に僕は潔癖症などでは決してなかったのだ。むしろ、僕は汚いところに居ても平気なタイプだ。
 何しろ、僕の家は汚いのだ。昔からずっと。


 小さい部屋で、ゴミがそこら中に散乱している。埃は当然のようにある。食材とゴミが同じところにあると言っても過言ではない。
 空気中に漂う埃は、鼻の調子を悪くする。いつからか、この埃に耐え切れなくなり、ティッシュを手放せなくなってしまった。ある意味では、呪いだ。汚い家で生まれ、育ったことの代償だ。
 家はおんぼろ、長年受動喫煙し続けたせいで肺も真っ黒。奇麗なものが身近にあるとすれば……いや思いつかない。僕の身の回りに奇麗なものなんて一つもない。


 いいや、これは希望的観測だが、僕は一人だけ奇麗な人を知っている。奇麗である、と願いたい相手がいる。
 それは、運動会を終えて見つけた者である。
 彼は素晴らしい。長年求め続けていた逸材だった。そして、僕が手を伸ばしても届かない人材であった。
 才能があると言ってもいい。それも、僕の余計なことをする才のような役に立たない才能ではない。ずっとずっと、役に立って、輝かしい才能だった。小学校の頃から一緒だったというのに、その才を見抜けなかった自分に腹が立った。


 彼の才能。それは即ち“主人公の才能”であった。


 眩しかった。直視するだけで涙が滲みそうだった。同級生にそんな感想を抱くのは彼が最初で最後であろう。仕事を的確にこなす。その姿に見惚れた。彼の仕事が、あまりにも僕の理想通りだったのだ。
 僕が動きたかったように、彼は動いていた。僕の欲しかったものを彼は全て持っていたといってもいい。弧独の強さも、集団に馴染むための技術も兼ね備えていた。お道化をお道化とも思わせず、違和感無く使いこなす姿は、一日中見ていても飽きなかった。
所作の一つ一つが美しく思えてならなかった。別に、品のある行為をしていたわけではない。むしろ、男らしい行為をしていたせいで荒々しく思えることも沢山やっていたのだ。それでも、美しく思えたのは、その男らしさを僕が持ち合わせていなかったせいかもしれない。隣の芝生が青く見えるのと同様、持ち合わせていないものが荒々しくて美しさから程遠くても、美しく見えるものなのだろう。


 彼の魅力を語り始めれば、おそらく僕は何時間でも語れるだろう。他の人間に興味など抱かないが、彼だけは特別だった。
 僕の世界に色をつけた、と言ってもいいかもしれない。身勝手なことに、彼は僕の学校けいむしょに行く意味になっていた。


 彼とは、移動教室で同じ班だった。だから、僕はサボらずに行くことにしたのだろう。彼が別の班だったら、決して僕は移動教室になど行っていない。仮病を使って休むなり、本当に熱を出すなり色々とサボるための手段はあったのだ。
 ただ、彼の人生を見てみたい。七十年ほどの人生のたかが数時間かもしれないが、僕にとっては宝石のようなものであったのだ。キラキラしている時間を少しでも多く過ごしたかった。つまらない中学校生活むしょぐらしに、一瞬で色がついたのだ。
 彼なら、お道化を見破ってくれる気がした。かの、大庭葉蔵はお道化を見破る者を懐柔しようとしたらしいが、僕はそうではなかった。
 むしろ早く見破ってほしかった。
 一度見破られれば、お道化をしなくても生きていける気がしたのだ。


「好き」
 と呟いてみる。絶対に聞こえないような小さな声だ。いくら主人公の才能がある彼でもこれくらいの声なら聞こえないはずだ。
 聞こえてくれるならそれもありかもしれない。歪んでいるこの恋心を早く消してほしかった。彼ならば、すぐに言ってくれるはずだ。
「そんなの変だ」
 と。ああ、そうだ、知っている。この感情が変であることなんて知っているのだ。自分でもおかしいと思う。自分が、こうなるとは思っていなかった。
 けれど、彼は男でも惚れるほどに格好良かったのだ。尊敬したのは見つけてから数日だけだった。それ以降は、尊敬すらなくなった。別次元に生きている人物なのだろう、と思った。だから、尊敬ではなく愛情が生まれた。
 告白しよう。
 ――僕は知らず知らずのうちに彼に“恋”をしていた。
 恋をするのはもうやめたはずなのに、不思議と彼への好意は許されるような気がした。もうやめた方がいい。そう分かっていても、目で追ってしまっていた。


 移動教室の準備。僕は入浴、掃除の係に入った。女子は基本的に別の係との兼任なのでチーフは、男子から決める、という。
 なるほど、と思い手を挙げた。誰かに任せて失敗したときにその人のせいにするくらいなら、自分でやって自分を責めた方がいいと思ったのだ。なにせ一年生の一学期。失敗がいくつも発生するのは確実だ。
 だから立候補した――が、僕は落選した。
 理由なんて簡単だ。僕が頼りなかったのだ。まあ、読めていた。だから、傷つくことはなかった。ただ、不安そうに担当の先生の話を聞くチーフの姿を見ていると、不安になってくる。
「あんなんで傷ついても知らねぇぞ」
 と呟く。これは本音だ。人格がかなり馴染んできたので、その人格の声と判別がつかなくなってきていたが、いやでもこれは確かに本音だ。言い切ることが出来た。
 別に僕は彼を守りたかったわけではない。彼は、僕にとって嫌悪の対象だったのだ。相棒の給食委員。いじめまがいのことをされても笑っている。能力がなくても努力し続ける。それが、腹立たしかった。だから、挑戦したのだから傷つけばいいと心の底から思った。
 それでも、胸の奥に沈殿した蟠りがあったのは、彼に自分が負けたことが悔しかったのかもしれない。思い通りにならなくてイライラしただけなのかもしれない。
 でも、一番の理由はあまりにも容易く、彼が傷つくことを予測出来たからだろう。


 はっきり言って、他人なんてどうでもいい。主人公の彼以外は、勝手に傷つけばいいし勝手に死ねばいい。自殺しようと好きにすればいい。けれども、給食委員の彼が傷ついてしまうと、戦力が減る。給食へのダメージは甚大だ。
 それに――彼が立候補してから言った「成長したい」という希望が、絶対に成し得ないということを証明したかった。
 学校行事で、成長を求める者たちは、もしかしたら学校教育の観点からすれば正しいのかもしれない。けれども、そんなことは知ったことではない。僕に与えられたのは、
失敗すれば外部に迷惑をかける、故に失敗できない重要な仕事なのだ。だから、そこに成長は求めない。成長は、日頃の行いだけで十分だ。
 学校行事というのは、日頃得た経験値を利用して、応用問題を解くのに似ている。難しいけれど、それまでの経験を使えば出来ないことはない。
 わざわざ行事で成長しなくてもいいのだ。だから僕は密かに、彼の補佐をすることを決意した。依存すればいい。それで失敗しないのならば。

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