八番

黒虱十航

無題

 運動は、兎にも角にも苦手だ。長年、運動していなかった故に体力が無い、というのが主な理由だろう。


 これまた小学校の頃の話なのだが、僕が居た小学校では休み時間に必ず遊ばなければならないというルールがあった。
 あれは、全くもって理不尽であるように思えた。確かに、運動は大切であるが、『休み時間』と明記されているのに、遊ぶ、などと言う仕事をしなければならないというのだ。それではまるで、夏休み中も働く社畜のようではあるまいか。
 僕は、昔から集団に入っていくというのが苦手であった。しかし、これは集団の中で生きることが苦しいのだ、ということとは違う。集団に入ってさえしまえば、その中で生きることには苦しみを感じない。
 まるで、水槽の中の魚のようである。水槽に入る前、捕まる時の魚は必死にもがくであろう。しかし、水槽に入れば心地よさそうに過ごす。


 集団に入るのが苦手である僕は、『休み時間』という地獄の時間に於いて集団に混じることが出来なかった。
 遊んでいる同級生の輪の中に入ろうとする足が動かなかったのである。
 別段、彼らの中に入りたかったわけではない。むしろ、『休み時間』は休むべきであるのだから、彼らの輪に入らずに座っていたかったくらいである。
 それでもルールとして明記されてしまっては、致し方がなかった。混じりたくなくとも、彼らの輪に混じる必要がある。そうしなければ、センセイから哀れみの目を向けられることは確実であるし、センセイと話さなければならなくなってしまうかもしれない。
 万が一のために気を遣っておかなければならない。それが、悲劇的な人間が守らなければならない、何より大切な掟のようなものであった。


 それでも、僕は混じることが出来なかった。お道化を使うことが躊躇われてしまったのである。
 それは、今思えばプライドが許せなかったのかもしれぬ。彼らのようになってしまってはいけない、と本能的に感じていたのかもしれない。そのとき、何を考えていたのか分からない故に、推測の域を出ることはできない。
 しかし、彼らのように「馬鹿をする」ことが悪であるように思えて仕方が無かったことだけは覚えていた。お道化を使うことを躊躇ってしまっても、自己嫌悪しなかったのは、きっと善良な道を選択したのだ、と自分で思っていたからであると考えられる。


 同級生が鬼ごっこを和やかにやっているとき、僕は校庭の端で座っていた。こうしていると、なんだか彼らよりも自分の方が劣っているように思えてきてしまう。子供は、「馬鹿をする」ことに長けていなければならない。だから、それが出来ない僕は、彼らに劣っているのだ。そんな風に思えてしまって嫌だった。
 頭では、僕の方が善良な道を選択している、と思えていた。それでも、一人で座って彼らを眺めていると劣等感が湧き出してしまう。
 キラキラと輝くのは、彼らの汗だ。夏はもちろん、冬でも彼らは爽やかな汗を流していた。
「寒い」
 などと言っていても、すぐに汗をかく。その間、僕は座っていなくてはならないから体が芯から冷える。それでも彼らに混じる事は躊躇われ。かといって、一人で走っているのは、それはそれで同情されてしまうのではないかと不安だったのだ。
 今ならばそうは思うまい。一人で行うことの素晴らしさを知った今となっては、むしろ喜んで一人で走る。けれど、小学生のときの僕にはそんな強さなかったのである。


 運動とは、一人でやるものではない。それが小学生の頃の僕の見解であった。今となっては、一人で運動を行うことに爽快感を覚えるが、そのときは一人で運動をするということが理解できなかったのだ。
 筋トレだけはやたらとやった。力が欲しかったのである。何度も何度も負けて、いじめられ続けた(彼らが言うにはあれはいじりらしい)こともあって、力が全てであると錯覚したのだろう。力が無いから、今の自分はいじめられるのだ、と思い込んだ。思い込まなければやっていられなかったのだろう。
 けれど、真実はそうではないのだと中学生になって思い知った。
 力はついていない。寧ろ運動をしないせいで、衰ええる一方だった。それなのにも関わらず、僕はいじめられなくなった。誰も僕に関わらなくなった、と言えるほど僕は成長できていなかったが、興味を持たない人ばかりになった、とは言える。
 つまり――これまでは、やり方を間違えていただけだったのだ。
 力なんてものは初めから関係なかった。誰も僕と闘ってなどいなかったのだ。それなのに、勝手に一人で闘っている気になって、力をつけようとした。なんと愚かな行為なのだろうか。今でもあの日々を悔いる。




 体験談を交えて説明したように、僕は運動が苦手だ。
 体を操ることが思うように出来ない。思ったよりもずっと早く走れない。思ったよりもずっと奇麗に前転できない。思ったよりもずっとリズミカルに動けない。
 何をしても、思ったよりももできなかった。理想とのギャップにいつからか、絶望するようになった。
 絶望するのは好まなかったため、僕はいつからか運動するのをやめた。


 すると必然的に体力は無くなっていった。
 少し動くだけで息を切らしてしまうようになった。もう、まともな運動ができなくなってしまった。
 そうすると、更に絶望は増す。こうして、運動会の練習をしている間にも、笑顔で走る人との差に絶望するのだ。
 運動会の練習そのものに嫌気すら差してくる。運動したくない、と思い始める。


 それでも、僕は運動会に他の人よりも参加しなければならなくなった。
 なんでも、給食委員は用具の準備を例年任せられているというのだ。その事実を知ったときに僕のショックを推し量れるものは少ないであろう。少なくとも、僕の相棒みたいなもう一人の給食委員の者には分かるまい。
 なぜなら、僕の相棒の給食委員の者は、スポーツマンなのだ。しかも、ずば抜けて能力が高いわけでもないのに、諦めずに毎日毎日汗をかいている。小学校の頃からそうだった。馬鹿にされても、ずっと走っていた。
 それは僕にとって最も眩しいものだった。
 僕の気持ちを、そんな輝いている人物に分かるはずがない。


 五月の委員会のときだった。またしてもHR、掃除が遅れてしまい、急いで集合場所に向かった。二年生の教室でやるのは、顧問の先生が二年生の担任だからなのだと二回目の委員会で初めて知った。
 謝罪の意を口にしながら教室に入る。やはりもう片方の一年生は、僕たちよりも先に来ていた。二人の女子。内、片方と目が合った気がするが気のせいだろう。別に気にしない。気にしていたら駄目なのだ、と僕の今の人格のベースとなる彼も言っていた。偶然なんて存在しないのである。
「運動会では用具係をやります。後日、集まりがあります」
 みたいなことを言っていた気がする。詳しい話を聞いていなかったのは、カウンセラーのときと同じ理由ではない。仕事が増えたことへのショックのせいだった。
「はぁぁ」
 と無意識にため息を吐いていたことに少し嬉しくなる。今の人格が、随分と体に馴染んできた。意識しなくても行動できるようになっているのだから素晴らしい。心なしか頬を緩ませながらも、仕事が増えてしまったことへの絶望を隠せなかった。
 とっていた議事録に、罰印をつけていた。その罰印が小さいあたり、僕はしょぼい人間だと思えてくる。

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