八番

黒虱十航

無題

 入学から一月が経った。
 ゴールデンウィークという存在のおかげで、教室の空気は幾分か和やかになっていた。それまで、席が近い者としか話していなかったような者が、ゴールデンウィークを経て、グループを形成したのである。


 ゴールデンウィークの間、何があったのか僕が知っているはずもない。僕は、ゴールデンウィークの間、パソコンと向き合っていたのである。家族とは会話をするので、流石に声の出し方を忘れるほどではなかったが、それでも、会話というのはやはり難しいものである。
 人に話しかける、というのがそもそも難しい。話しかけられればそれなりに対応はできるのだ。適当な相槌は、小学校の頃に得た特技の一つである。


 小学校、というので思い出した。
 確か、あれは今頃だったと思う。小学校の二者面談から帰ってきた母の話を聞いて僕は心底ぞっとした。もしかしたら、あれが今の僕を創りあげているのかも知れない。そうではないのかもしれない。どういう経緯で自分が作られたか、なんて考える方が馬鹿馬鹿しいと思うのだ。
 突き詰めていけば、僕の体は両親が恋をしたが故に生まれたわけである。細かい描写をするのは止しておくが、卑猥なことだってしているわけだ。
 卑猥な行為によって我が身が産みだされたかと思うと、どうにも落ち着かない。この身が忌々しいものであるようにさえ感じてしまう。事実として、僕は忌々しい存在なのであろう。おそらく、それは否定することができない、寸分違わぬ事実である。


 話が逸れた。小学校の頃の話だ。あの、憎き我が担任が僕を評して言った言葉は、一年経っても忘れない。おそらく、二年経っても、十年経っても忘れないであろう。憎きこと、悪しきことほど、人はよく覚えているものである。これだから、人間の記憶というのは信頼できない。
 人間は、自分に都合がいいように記憶を変えてしまうものだ、という話をしょっちゅう聞かされる。けれど、あれは多分違う。少なくとも僕の経験にはそぐわない。余計なことをする才しかない、凡人の僕の経験にそぐわないのだから、この痛切は間違っているということだろう。
 人間は自分の都合がいいように記憶を変えるのではない。むしろ人間は、自分の都合が悪い事を永遠に覚えているのだ。人間、戒めを身に刻まなくなったときが最後であろう。都合が悪いことを忘れ、都合がいいことを覚えているような戒めの気持ちがない愚者は、人間ではないのだと思う。あれは、もっと別の種類の生き物だ。喜劇的な生き物なのだ。
 むしろ、僕のような者こそが人ではない可能性もあるかもしれない。気付くと、喜劇的な生き物を小馬鹿にした言葉が口から漏れ出しているのだから、僕の方こそ愚者なのかもしれない。いや、確か愚者は自由な旅人だったはずだ。詳しくはないのだが、旅人だった気がする。なら、僕のような悲劇的な生き物を愚者と呼ぶのは、それこそ愚かだろう。
 喜劇的な生き物を愚者、悲劇的な生き物を人間だとすると、なかなかどうして、愚者の方が優れているように思える。愚者、などという軽蔑的な言葉を用いても、尚、喜劇的な生き物である彼らの方が優れているのだから恐れ入るというものだ。


 悲劇的な生き物、つまり人間というのは別の生物を殺してしまうという悪癖を持ち合わせているらしい。小学校の頃、あの憎き担任が言っていたのだから間違いない。
 センセイは、何でも知っていらっしゃるのだ。
 いや、これは別段馬鹿にしているわけではない。純粋に感心しているのだ。
 あの憎きセンセイが、教員免許を持っているという事実に感服させられてしまう。相当、勉強したんだろう。物を教える、という面に於いて優れていれば、センセイのようになれる、というわけである。
 今の僕の担任の先生にはどうしてもなれる気がしないのに、憎きセンセイには容易くなれる気がするのだから、もしかしたら僕も喜劇的な生き物なのかもしれない。
 しかし、憎きセンセイに「人を殺しそう」などと言われてるのでは喜劇的な生き物であるとは言えないだろう。残念だとは思わないけれども、自分が悲劇的な生き物であると再認識するというのは、面白い気分にさせるものである。


 人を殺しそうと言われた僕なのだけれど、幸いなことに僕はまだ手を血に染めたことはない。部屋に引きこもっていることもあって、怪我などで掌が血色になったことさえなかった。
 どうやらセンセイは一年よりもずっと先の未来を予言なさったらしい。いやはや、まったくご立派なことである。センセイという職業は、数年先の未来さえ見えてしまうというのだ。これでは、僕がセンセイになるのも難しいかもしれない。あの憎きセンセイのようになる気は、そもそも一切ないのだけど。


 一ヶ月も経つと、カウンセリングというものをやらされてしまうらしい。カウンセリングというものは、あまり好かないので、僕はその情報を聞いたとき、心底嫌気が差した。
 あれが、僕にはどうしても芝居の稽古のように思えてしまう。時間を決めて、その時間でカウンセラーを納得させることを目的とした、所謂「ミッション」のように思えてしまうわけなのだ。
 小学校の頃、僕の学校では問題が起きた。いや、それはいじめとかそういうものではまったく無く(もちろん、それも多発していたわけなのだが)、先生たちのミスだった。あれでは、僕と違うクラスの人がカウンセリングをやらされていたのだけれど、どうにもお遊戯のように見えてしまった。カウンセリングで問題アリだと判断されて、精神科に通わされたいなんて思う小学生はまず、いないはずなのだから当たり障りがないことを言うに決まっているだろうに。


 大人たちが皆、敵だとは思わないけれどカウンセラーは敵だと思う。嘘を強要する彼ら彼女らが味方だとは思えないのである。
 僕自身、平気で嘘を吐いてしまう悪癖がある。その証拠に、僕は現在進行形で周囲の人々を騙しているわけなのだ。一人の嘘嫌いの人格を借りることで幾分か、嘘を吐く機会は減ったかもしれないけれど、そもそも人格を借りている時点で本当の自分を見せていないのだから、それは嘘だろう。
 嘘を悪だと断じるのは簡単だ。けれども嘘は、僕の武器なので、それを悪だと断じるのは嫌だ。
 でも、嘘を強要するのが悪であることは、簡単に断じることが出来る。カウンセラーはそれに当てはまるのだ。
 ああ、忌々しい。嘘を強要される人間の気持ちを、彼らは全く分かっていないのです。神様よ、どうか彼らを罰してください。優しさという仮面を被った偽善者である彼らに戒めをお与えください。
 神様に頼んでみても、神様が余計なことをする才しかない悲劇的な生物の僕の願いを聞いてくれるはずもない。結局、喜劇的な生物である偽善者で、愚者の彼らの方が社会には求められているわけなのだ。


 それなら、悲劇的な生き物である人間はなんのために生まれてきたのだろう。僕の生まれた意味など、僕が探す必要もなくそこにあるのだけれど、それを口にすることは難しく思える。
 口にするのが難しいなら、それは無いに等しいのではないだろうか。この学校の、喜劇的で、偽善にまみれた愚者の目を見ながら、心の中だけで呟く。


「恋と革命のために生まれてきたのだ」


 と。
 つまり、恋の恐ろしさを知った僕は革命をするしかないのだ。

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