八番

黒虱十航

無題

 その人にはその人にしか出来ないことがある、というのを信じることが出来ない。才能がある者は確かにいるであろうが、万人に何かしらの才があるようには思えない。
 僕の場合は、余計なことをするという才があるので、他の才はまず持ち合わせていないあろう。別の才を持ち合わせているのならその時点で神は二物を与えずというのを否定できてしまう。


 不幸も天の恩恵であろう。
 幸福であるからこそ生じる痛みがあるのと同様、不幸であるからこそ生じる安らぎも存在するはずである。
 不幸者を妬む時点で、僕はどこか狂っている。無力を嫉ましく思う時点で、僕は無力な者よりも、一層下等な生物である。
 日々を過ごす中に感じる違和感は、自意識の肥大化に伴うものである。笑い声が全て自分に向けられている、とまでは思わないが、自分を嘲笑う声がどこからともなく聞こえてしまうのは否定できない。


 そもそも笑ってくれる者がいるならば、恵まれているというべきであろう。嘲笑われるということは、見てくれる人がいるということだ。
 火のないところに煙はたたない、という言葉はあれだ。情熱の火がないところに悪口はない、という意味なのだ。その方がものごとの真理を言い当てているのだから辞書の説明こそ、改編べきだ。
「委員会を決めます」
 という担任の言葉によって、本日の授業でやることが分かる。なるほど、委員会を決めるのか、と心中で呟く。
 委員会。それは仕事をさせることで、人との協力を教える、友達教の布教活動だ。そうでなければ、あのような面倒臭いことを進んでやるものがいるはずがない。委員会に入るのは、友達教徒だけであろう。


 小学生の折、委員会に必ず入る形式だったときにどういうわけか持ち前のお道化で、クラスの代表になったことがある。名称がなんだったか覚えていないが、生徒会のようなことをしていた。
 運動会でのスローガン発表。あれが、最も辛かった。わけも分からず大声を出したときの、あの反吐が出るような気持悪い声。ああ、あれは記憶から消そうとしても消せないものがある。
 それと、六送会で着ぐるみを着たとき。あれはよかった。自分の顔を隠せるというは実にすばらしい。あれをやれたことだけは、今思い出してもいい思い出である。
 小学生の折は、ルールだったから委員会に入ったが、中学生はそうではないらしい。クラスの半分程度が委員会に所属する形らしかった。


 これならば、友達教徒だけで十分に運営できるであろう。僕が手を貸す必要もあるまい。我関せずを貫くことをここに決意した。
 クラス委員。
 クラスの代表には、まず大抵クラスの上位階級の者がなる。中学生の内はそうだ。小学校の時もそうであったが、幼い内は面倒ごとにも積極的に首を突っ込もうとする者が多い。余計なことをする才がある僕からすれば、分からない話でもなかったが、かといって僕が積極的に面倒ごとに首を突っ込みたいと思っているかと問われれば、それは否である。
 面倒ごとは所詮、面倒でしかない。だから、やりたい人間にやらせておけばいいのだ。何、活力あふれる中学生なのだから手が挙がらない委員会も少ないだろう。
 事実、クラス委員は複数名挙手があった。それぞれ、所信表明をして、選ぶ形式になる。こういうのは、口が達者な人が勝ってしまうのであまり好かないが、その程度の些細なことに突っかかりたいわけでもない。大人しく拍手をして、所信表明を聞き流す。


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 しかし困った。
 まさか、手の挙がらない委員会があるとは思わなかった。
 給食委員。
 広報委員やら図書委員なら、それっぽい気がする。図書委員なんて、なんだか知的で好ましい。人がいなければ入ってもいいかもしれない委員会NO1かもしれない。広報委員だって、なんだか字体がそれっぽい。給食委員に比べれば、ずっと格好良くて仕事っぽい。最も、そういったものに惹かれてしまうのが中学生男子の愚かなところであるのだが。
 これは非常に困った。
 人に仕事を押し付ける、というのは僕の好く行為ではない。
 罪悪感に息が苦しくなる。押し付けた相手への罪悪感を胸に生きるのは、非常に面倒臭い。
 しかし、給食委員というのがまたよくない。給食は、僕が小学校の折より精を出してきた事業ではないか。あの頃の情熱が蘇ってきてしまいそうになる。
 挙手しようとする右手を左手で抑え付ける。「俺の右手がァ~」などと胸中でふざけている場合ではない。これはよくないのだ。面倒ごとに首を突っ込んでしまう。
 あのときの情熱なんて忘れてしまえ。今の僕はあの時の僕とは別人なのだ。別人の人格を借りてまで別人になろとするのに、過去の自分に囚われているというのも愚かな話であろう。
 そのように自分に言い聞かせるものの、心臓の高鳴りは止まらない。


 結局、持ち前の余計なことをする才によって僕は挙手してしまった。挙げた瞬間、後悔で胸が一杯になるけれど、もう止まれない。
 人がいなくても、所信表明はしなければならないらしく、僕は立ち上がり教室中を見渡す。四隅の人に目をやり、ふぅと息を吐いてから脳内ででっちあげた文章をただ垂れ流すだけの作業に入る。


 僕と同じタイミングで手を挙げた男子と共に二人で、給食委員会に入ることになった。その男子も、同じ小学校ではあったのだが、そこまで話したこともない。同じ立場に居た、と言っても過言ではないだろう。
 つまり、彼も弱い立場になることによって居場所を確立するタイプだったのだ。もっと俗的に言うといじめられっ子だったわけだ。
 その男子が僕と同じ考えの元、いじめられっ子を演じていたかは分からない。もしかしたら、天然のいじめられっ子だったのかもしれない。
 兎にも角にも、こうして、人間関係手当てのつかない仕事を僕は始めることと相成った。


 給食の準備が始まる。委員会の権限と言うのがどこまでのものなのか分からない故に細かく指図することは躊躇われた。
 権限がなければ動けないのも、一種の悪癖かもしれない。中学生になって、初めて知る。自主的に動く、ということが僕には出来ないらしい。
 よって、ほとんど手を出せずに初日の準備は終わってしまった。まったく滑稽な話である。
 時間がかかってしまうと、やはり持ち前の余計なことをする才によって手を出したくなってしまう。あまり手を出してはいけない。下手に手を出すのは、それは怠惰と同じようなものである。


 幸い、僕のクラスの担任は素晴らしい人であった。贔屓は決してしないであろう。僕が憎むタイプの大人ではない。
 見定めるのに掛かった時間は一週間である。
 子供の分際で、大人を見定めるなど愚かではあるのだが、それでも僕の小学校のあの憎き担任を思うと、致し方がないことであった。


 小学校の頃より、いささか人数が少なく、平和な日々であったが故に、息苦しい学校生活を送る必要はなかった。誰一人として信頼できる人はいなかったが、無垢な信頼は罪である。よって、たかが一週間で信頼できる人を見つけられるはずがないのだ。

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