ブルー・イン・カード

北西時雨

本文

 海の見える小高い丘の町。
 その町の割と高い所に、私の店兼自宅があった。
 暗く狭い路地を進み、ふっと通り過ぎてしまいそうな小さな雑貨屋。趣味で集めたものや自分で描いた絵ハガキを売っている。
 時々、近所の人や迷い込んできた観光客が少しずつ買っていく。
 案外、私の描いた絵ハガキは人気だったりして、中には定期的に来て、買っていく人までいる。
 特別流行っているわけでもない。この穏やかな町のゆっくりと流れる時間に身を委ねるように、日々を過ごす。
「あの人」がいなくなってから、絵が描けなくなってから、一体どのくらいの時間が経ったのか分からないけれど。きっとこのまま――独りで。


 その少女がこの店にやってきたのは、長い夏の初めだった。


 夏の到来を告げるような暑い日差しの照りつける昼下がりだった。
 私はいつものように、店の奥で絵の具を出して絵ハガキを描いていた。店に誰か来れば、ドアに付けてあるベルで分かるようになっていたので、私は一日の殆どを店の奥で絵ハガキを描いて過ごしていた。
 ちりん、とドアのベルが鳴った。私は店の奥から出る。
 真っ青なワンピースを着て白いサンダルを履いた、五歳くらいの少女が一人。棚に置いてある猫の置物に興味があるようだった。顔は見えないがこの近所にこのくらいの歳の女の子はいなかったはずだから、観光客だろうか。でもこんな小さい子が一人で来るわけないのだけど……。
「君、お父さんやお母さんは?」
 気になって聞いてみる。私の声に気づいたのか少女が振り返る。
 少女の目が――ない。目どころか、口も鼻も眉も、ない。
「ひっ……!」
 私にしては珍しい小さな悲鳴をあげる。少女の方は不思議そうに首をかしげた。
 もしかしたら光の加減とか、私の見間違いかもしれない。そう思って少女に近づいて背丈に合わせてかがむ。
 薄暗い店内に差し込む太陽が少女の顔を照らす。
 本来目があるべき箇所はわずかにくぼみ、鼻があるべき箇所は出っ張っていて、少女特有の膨らみのある頬はあるものの、唇もなく、あとは真っ平の顔だった。見間違いではなさそうだ。
「君……」
 そう言う私の語尾が震えている。少女はますます首をかしげた。
「顔が……」
 私はそう言ってそばの姿身を指差す。少女は近寄って鏡に映った自分の顔をよく見る。少女は「まぁ」と言いたげに手の平を両頬に当てる。
 少女がこちらを向く。
「なんで――?」
 私はふとそんな疑問をぶつける。少女が首をかしげる。……自分でも分からないのか?
 突然、少女が踵を返し、ドアを開けて、店の外に出る。
 私は、慌てて立ち上がり外を見る。少女の姿はどこにもない。


 それから何日か経った午前中だった。
 ちりんとベルが鳴った。私は奥からカウンターまで出てくる。
「――また来たのか」
 顔のない少女がドアの前に立っていた。かすかにうなずいたように見えた。
 少女は近くの椅子によじ登るように座って、足をぶらぶらさせている。
 大抵の小さい子のように店の中を走り回ったりする様子はなかった。私は、暴れず静かなら他の客もいないし、そのまま放っておくことにした。そもそも口がないからしゃべれないだろうが。
 私は再び、奥に引っ込んでポストカードを描くことにした。
 しばらく時間が経って、店の方を見ると、ずっと同じ場所に少女が座っている。
 少し気になって、その場にあった画用紙とクレヨンを持って少女に見せる。
「これ……使う?」
 少女は顔を上げて、私の手にあるものを見る。案外素直に受取り、目の前のテーブルに画用紙を置いて、クレヨンを握ってぐるぐると線を描きだした。
 私は、奥から少し移動して、店の中の少女が見える位置に座る。
 しばらくして、ひょいと覗くと、少女はずっと同じようにぐるぐると描いているようだった。
 私は少女の前に出て尋ねた。
「君はどこから来るんだ?」
 少女が首をかしげる。
「そういえば、目がないのに見えるのか?」
 少女が頷く。
「音は……」
 私はそう聞きながら、少女の顔の横に手を持っていく。ふっと、手に柔らかい物が当たった。少し横の髪をかきあげると、可愛らしい福耳が見えた。耳たぶに触ると、少女はくすぐったそうにはにかんだ。


 それからしばらく、その少女は不定期に店に訪れた。
 特に目的があるようにも見えない。全くしゃべらないから意思の疎通もままならなかった。私の邪魔をするわけでも、店の物を壊したり、汚したり、盗って行ったりするわけでもなかった。
 ただ、私が出したクレヨンで、何やら分からないものをぐるぐると描いて、いつの間にかいなくなるだけだった。


 曇りで日差しが少し和らいだ日だった。
 少女はやはりいつもの場所に座って、絵とも図とも言えないものを描いていた。
 私は、自分の作業の手を休め、少女の隣に座った。
「なにを描いてるの?」
 少女が顔を上げる。
 なにやら緑や紫やオレンジでぐるぐると線が描きこまれていた。
「これは?」
 私は少女の絵を指差し尋ねる。少女は首をかしげる。
「――これを描こうというものがあるわけではないのか」
 私はそう呟いた。――絵が描けなくなった私も、ひとのことは言えないわけだが。
 私はカウンターに置いてあったガラスの灰皿の埃を掃い、籠の中にあったビー玉を少し取り出して、灰皿の中に入れて、テーブルに置いた。
「これを描いてみようか」
 私はそう言いながら、ビー玉をつまんだ。新しい画用紙を出し、適当なクレヨンを取り出して、小さく丸を描く。
 少女は私の手元を見て、別のクレヨンで、大きく丸を描く。
「ああ。そうだよ」
 私の喉から妙に嬉しそうな声が出た。少女は頬をピンクに染めて、それから色々なクレヨンで、沢山丸を描いた。


 ――やっぱりか。
「………描けない」
 目の前には「あの人」を描いた絵。あと少しで完成するはずなのだが。
 どうしても――顔の部分が書けなかった。
 どんな顔であったか、どんな表情をしていたか。まるで思い出せなくなっていた。
 私は筆を置き、描きかけの絵を眺める。
 さいごに、「あの人」の絵を描こうと何度決めて、諦めてきたか。
 「あの日」以来、ずっと私は「絵」が――正確に言うと「人の絵」が――描けなくなってしまった。
 キャンパスに写し出されるのは、おぼろげな姿。影のような。
 物思いに耽っていると、ドアのベルが聞こえた。あの少女だった。
 もはや日常の一部になりつつある少女に、私は画用紙とクレヨンを渡す。少女は素直に受け取り、いつもの場所に座って私の方を見た。
 最近は、店にある色々な物を目の前に置いて、描かせていた。まず見本に自分が描き、少女に手渡す。そうすると少女は、下手ながらに伸び伸びと描いた。
 少女がずっと私の方を見ている。どうやら見本を待っているらしい。
 私は窓の外を見る。天気は悪くない。
「今日は外に行って描こうか」
 私がそう言うと、少女はぱっと顔をあげてぴょんと椅子から降りた。私を見上げながら、服の裾を引っ張ってきた。
 胸の方で少しふわりとした気持ちがはねた。
 私は、画用紙とクレヨンを小脇に抱え、少女と手を繋いで外に出た。


 夏の日差しを多少甘く見ていたかもしれない。久しぶりに光を浴びて、少し頭がクラクラする。帽子を持ってくればよかっただろうか。
 日陰を探しながら進む。近くの公園まで、あと少し。
 ふと、目の前に見知った影が見えた。近所の住人で、よく声をかけてくれる人だった。
「あら、お久しぶりね。お出かけ?」
「ええ、そこの公園まで絵を描きに」
「まぁ、それはいいことね。でも、お一人でなの?」
「え?」
 口から間抜けな音が出た。思わず少女の手を強く握る。少女がこちらを向く。その人は私に構わず話し続ける。
「私も一人でお散歩するのは嫌いじゃないけど。あなたいっつも独りでいるから。たまには誰かと出かけた方がいいんじゃないかしら?」
 私は何も言えずに、うつむいた。少女の握っている手の内側が、画用紙とクレヨンを抱える手の内側が、ひどく汗ばんでいる。
「あなた、殆どあの店に独りで閉じこもっているから、だから……心配なのよ。その――」
「すみません」
 私は小さくそう言って、元来た道を速足で戻っていく。
 引き留める声が聞こえたような気がしたが、振り返れなかった。


 暗い店の中に入り、勢いよくドアを閉める。しばらくドアを押さえつけた後、ドアにもたれかかり、うっすらと埃の積もった床に、力なく腰をついた。
 少女が横で私の顔を覗き込むようにしている。私の反応がないと、少女は少し離れて、そばに落ちたクレヨンを拾い、店の奥をうろうろしたあと、いつもの場所に座って何かを描き始めた。
 不意に口から言葉がこぼれおちた。
「――――いのか」
 少女がこちらを向く。私は立ち上がって、少女の方に歩きながら続ける。少女が椅子から降りて、こちらを見上げる。
「君は他の人には見えないのか」
 少女が首をかしげる。その瞬間、私の中で何かが切れて落ちてしまった。
「なんでだっ!」
 普段は絶対ない、私が声を荒らげる。
「なぜ他の人には君が見えない! なぜ君には顔がないんだ! 君は何者なんだ!」
 矢継ぎ早にまくし立てる。少女が微かに俯き、両手でワンピースの裾を握りしめている。
「私に……っ」
 感情を吐き捨てるように叫んでいた私の横を、唐突に少女が走って去っていく。
「待っ………」
 少女は私が引きとめる前にドアのベルを鳴らして消えた。
 ひらりと足元に何かが落ちる。
 クレヨンで、真っ青に塗りつぶされた、ポストカードだった。


 この町では珍しい寒気のする雨の降る日だった。
 相変わらず人気のない店内に、私はなにか小さいものが動く影を見つけた。
 少女が何かを握って顔に押し当てるような動作をしている。
「何をやって………」
 私が話しかけると少女が飛び上がった。
「そんな驚くほど何か悪いことでもして……? ……って!」
 少女の正面に回って顔を見て……私の方が飛び上がった。
 少女の顔に、クレヨンで落書きのような目や口が描かれている。
 子どもが描く落書きのようなものだから、それはもうひどい状態だった。――福笑いか――。
 そんなことよりもまずはクレヨンを落とさねばなるまい。
 私は少女を連れ、洗面台に行く。ガーゼを水と石鹸で濡らし、少女の顔を拭く。
 拭きながら、私は尋ねた。
「なんでこんな事……」
 私が聞くと少女は見るからにしょんぼりとなって、洗面台の踏み台に乗り、鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。そしてまた更にしょんぼりとなる。
 ……顔がないのを気にしているのか。
「――悪かった」
 きっとこの間のことを気にしているのだろうから。
 少女はうつむいたまま首を振る。
 無音の時間が通り過ぎていく。
「……顔、描いてあげようか」
 私がそう言うと少女はぱっと顔を上げ、私を見上げた。
 顔が無いなら、描けばいい。
 普段なら、そんな無茶苦茶な発想は出てこないだろうが、この時は違った。この少女を沈んだままにしておきたくなかった。
「画材……で描くわけにはいかないから、化粧道具……は………」
 そう呟きつつ、洗面台の引き出しを漁る。ようやく出てきたそれは、もう何年も前のもので、とても使えそうになかった。これも、「あの人」がいなくなってから、必要なくなったものだった。
「これじゃあちょっと無理そうだな……買ってくるかな」


 次の日のよく晴れた午前中に、少女は再びやってきた。
 昨日の夕方、私は新しい化粧道具を買いに行って、一通り揃えてきた。
 私は少女の顔を洗った後、髪を縛り椅子に座らせ、道具を広げた。
 ――その刹那。
 不意に脳裏に走る残像。残響。揺れる髪。光。足音。吐息。喧騒。花。掌。白。赤。青。あとは―――。
 目眩がして、頭を押さえながら、机に手をつく。
 何度か深呼吸をして、落ち着いたところでふと横を見ると、少女が首をかしげて待っていた。
「あぁ――大丈夫だよ」
 私はそう言って、筆を取った。


 少女特有の柔らかい頬に軽く手を当てて、ゆっくり描きだす。
 この少女に顔があったとしたら、どんな顔だろうか。
 そう思い描きながら手を動かす。
 細長い眉、筋の通った鼻、赤みがかった唇、ピンクの頬。
 描いている途中で、ふと「あの人」の顔が脳裏に浮かんだ。
 あぁ。確か、「あの人」はこんな顔だったか。なんで今まで思い出せなかったのか。
「――できたよ」
 髪を縛っていたヘアゴムをゆっくり外しながら言った。
 ――やっぱり少し変だろうか。
 平らな顔に描いたからか、なんとなく平坦な感じがした。それに幾分か、睫毛がずれて付いてしまっている気がする。
 それでも少女は満足そうに、――ゆっくりと口を動かして、ほほ笑んだ。私は眼を見開く。
 少女の瞼が少しずつ開いていく。私はハッと息をのんだ。
 海のような、空のような、真っ青な瞳だった。
 不意に少女が外にかけ出す。慌てて後を追いかけた。


 太陽の光に照らされ、町は白く輝いていた。その白い光の中を少女が駆けていく。私は光に目をくらましながら、少女の後を追う。
 少女はどんどん、丘の町の上へと上っていく。
 上はだめだ。上に行ってはいけない。それでも、追いかけなければいけない。そう、思った。


 丘の一番上。
 私の胸の高さくらいまである塀の上に少女が立っている。
 少女が両手を高くあげるとハトが一斉に飛び立った。
 羽が辺りに舞って、風が少女と私の間に吹き流れていく。
「――君、は………」
 前にも同じ質問をした気がする。
 少女はほほ笑んだまま何も言わない。
 もっと聞きたいことがあった。だが、私の口は言う事を聞いてくれず、ただ浅い息をこぼすだけだった。
 少女は両手を広げ、ステップを踏むように、後ろ向きに蹴り出して――
「やめ……!」
 塀の後ろに、落ちていく。
 私は声にならない叫びをあげながら、塀に駆け寄り、下を覗く。
 誰もいない。


 それから私は少女を探して町中を走り回った。
 それでも見つからなくて。
 へとへとになって帰ってきた後、描きかけの「あの人」の絵の前にしゃがみこんだ。荒くなった息を落ち着けて、絵を見上げる。
 顔の無い絵。
 ――この絵にも、顔がいるかな。
 私は絵の具を広げ、筆を持つ。
 あの人がどんな顔をしていたか。どんな顔がいいか。
 思い描きながら、筆を動かす。


 店の奥のアトリエ。
 笑顔で佇む「あの人」の絵。
 その隣に、少女がクレヨンで描いていった真っ青なポストカード。


 私はそれらをゆっくり眺め、ポストカードを挟むように絵の隣に座り、静かに目を閉じた。

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