悪役令嬢のままでいなさい!
☆268 先輩との話し合い
足早に進んだ先は、誰もいない場所。
体育館の影の用具室の扉を開けた先輩は、そこに入るなり振り返った。
その暗い表情を見てしまった私は、思わず息を止める。その陰りが自分が原因だということが分かってしまうから、余計に辛い。
「八重」
先輩は、口を開いて言った。
「……僕がこの学校を卒業するのを、止めてしまいましょうか」
私は放心したようにその言葉を聞く。
「……どうして?」
「あの日之宮の女が君に害を為すかもしれないからです。とてもこの学校に八重を一人きりで残して良いとは思えない」
「え……」
そんな程度のことで志を折ってしまうの?
私が追いつくのを大学で待っていてくれるのではなかったの?
先輩から告げられた内容がとても悲しくて、私はついこう訊ねてしまった。
「奈々子がこの学校に転校してきた狙いは、私なんかじゃありません」
そうだ。東雲先輩の考えていることはてんで的外れ。本当に危ないのは、彼自身だというのに何を言っているのだろう。
焦った私は、口を滑らせる。
「奈々子は、前世の記憶を思い出したって私に言ったんです! お気に入りだった東雲先輩を自分のものにする為にこの学校に……」
「前世の記憶?」
怪訝な表情になった東雲先輩に、思わず己の口を押えた。……だが、そんな振る舞いをしても言ってしまったことはもう取り返しがつかない。
ひやりとしたこちらに、彼は訝しそうに首を傾げた。
「そんなことをあの女は云っていたんですか?」
「……そ」
こうなったら、誤魔化しきるしかない。
「そ、そうなんですよー! 奈々子ったら、いきなりそんなことを云い出して! この世界の正体が乙女ゲームだとか、そんなことを……」
「ついに頭がおかしくなりました?」
軽蔑するような妖狐の眼差しに、私は肝が冷える思いだった。洗いざらいのことを馬鹿正直に話さなくて正解だ。今の東雲先輩の目つきといったら、それはもう裸で踊り出した酔っ払いを見るような冷ややかさを含んでいる。
もしも私が直接こんな視線を浴びるようなことになったら、メンタル的に痛手を被ってしまうだろう。
「そ、そ、そうですよねえ! 奈々子ったら変なことばかり話すんだから! 東雲先輩はこの世界が乙女ゲームだって信じられると思います?」
「……そんな狂言の類をまともに取り合うことなんてない」
ぼそっと不機嫌そうに呟かれた。
私は思わず目線を逸らす。この現実的で容赦のないアヤカシに自分の前世のことを話さなくて良かったと安堵しながら。
「それに、あの女が僕のことを気に入るなんてことが万が一にでもあるわけないでしょう。もしもそんなことがあるとすれば……」
そこで、東雲先輩は私の方に視線を向ける。暗く青い双眼を前に私が背筋を正すと、彼は口端を少しだけ上げた。
「……何やら、陰謀の香りがしますね?」
い、陰謀?
意味深な妖狐は、唖然としている私を見てため息をついた。
「あの、この学校に残るって……本気ですか?」
「無論本気ですが?」
「そんな、勿体ない」
残念な気持ちがこみ上げてきて、私は唇を噛んだ。もしも東雲先輩がこの高校に留年することを選んでしまったら、我が家の父は決して彼と一緒にいることを許しはしないだろう。
短期的には同じ学校に通えても、最終的にはバラバラになってしまう。
それは嫌だ。考えるだけで嫌だ。
「……お願いです。東雲先輩。この学校を卒業してください」
私が決死の思いで頭を垂れると、彼は予想外のものを見たような顔になった。
「……八重?」
「……私は、先輩と一緒にいたいです。でも、それは一時のことではなくて、この先の未来もずっと二人でいたいんです。
先輩が留年を選んでしまったら、きっと周りはあなたと共にいることを反対するようになってしまうでしょう。それでは、ダメなんです」
「でも、君を一人にするわけには……」
「お願いです。奈々子のことは、幼馴染の私が何とかします。先輩がいなくても、乗り越えてみせますから、どうか……」
あなたと一緒にいたい。
それだけのことなのに、どうしてこんなにも難しいことに思えてしまうのだろう。
東雲先輩の伸ばした手が、私の手首を掴む。
その強い力に私が視線を落とすと、彼は唸るような声で言った。
「……どうしても、ですか?」
「………………はい」
私は笑う。精一杯に頬を動かす。
何が正しいのか分からなくても、自分を選んだ道が正解だと信じて、笑顔を作る。
そうすれば、きっと上手くいくと思った。そう思いたかった。だって。
あなたが居てくれたから、ここまで走って来れた。あなたがいなかったら、こんな風に両足で立っていることなんてできなかった。
ずっと一緒にいたいのは本当。嘘なんかついてない。でも、言っていない気持ちもある。
あなたの門出を邪魔したくない。一人で頑張るのはちょっと怖くて不安もあるけれど、それでも強がりを口にしたい。
「……でも、過去の君は待っていても来なかったじゃないか」
小さな声でそんなことを呟かれ、私はキョトンとした。
顔を歪めた東雲先輩に引き寄せられる。そのまま、ぎゅっと抱きしめられて私の心拍数が跳ねた。
「な、んのことで……」
「――僕は以前、君と一つの約束をした」
囁くように、彼の口が動く。
「いつか一緒に駆け落ちをしようと約束をしたのに、君は僕のことを忘れてしまった」
「え…………」
私を離す気配がない妖狐の言葉は、分厚い雨雲を貫く雷のようだ。震える身体に身が竦みながら、相手の鼓動を聞く。
希未の話していた言葉を思い出した私は、ポツリと呟いた。
「私……そんなことを」
「勿論、駆け落ちをしなくても一緒にいられるようにするつもりではあった。その為に私立慶水高校に入った。けれど、本当にどうにもならなくなったら、君をこの街から浚う気だった。それくらいに、当時の八重は家の重圧に弱っていた」
「先輩は、私のことをどこまで知っているんですか?」
私の途方に暮れた呟きに、沈黙が走る。
「……少なくとも、君が小学校低学年の頃には既に出会っていた。それから高校に入学をする直前まで、君はあらゆることを僕に話してくれた」
ようやく私を抱きしめていた腕の力が抜ける。少し後ろに下がって視線を動かすと、暗い瞳をした東雲先輩の表情が見えた。
「ごめんなさい、全てを思い出せなくて」
「……いいんだ。別に」
彼と出会って成長した過去が消えて良かった思い出だとは、到底思えない。
どうして私の記憶は消えてしまったのだろう。東雲先輩の言葉が嘘ではないのだとすれば……。
「あの、先輩。記憶を消す魔法って存在しないんですよね?」
「ああ」
そこで、妖狐は少しだけ忌々しそうな顔つきになった。
だとすれば、記憶が何者かに改ざんされたという可能性は薄いかな……。受験の際のストレスが原因で起こった記憶障害と睨んだ方がいいかもしれない。
でも、無理やりこじつけた推理みたいな違和感がある……。
そのことを東雲先輩に話そうとして、そこで彼から口づけられたことに遅れて気が付いた。長めのキスの後に、こう告げられる。
「とりあえず、僕が好きなのは八重だけですから」
「…………はい」
へなへなと崩れ落ちそうになった私の腕を掴んで、彼は薄く笑った。
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