悪役令嬢のままでいなさい!
☆260 壊れていく器
手に入れるまで知らなかった。
友達といる時間の幸せも、それを失うことへの恐怖も。
いつの間にか、私の多くを変えていった人。
その優しさで全てを変えていったあなた。奇跡のような出会いがたとえ仕組まれていたことであったとしても、それを後悔なんてしない。
「――白波さん!」
保健室に飛び込んだ私は、珈琲を飲んでいる福寿や付き添いをしていた鳥羽と目が合う。なりふり構わずにここまで走ってきたのだが、白波さんは大丈夫なのだろうか?
「鳥羽……っ」
「落ち着け、月之宮」
眉間にシワを寄せた鳥羽が呟く。福寿が優しく言った。
「白波さんなら、そこのベッドで寝ているわ。軽い貧血を起こしたようなものだから、ひとまず安心してちょうだい」
「…………っ」
荒れた呼吸。
動揺している私へ、無表情で珈琲を飲んでいる鳥羽が口を開く。
「……だが、気楽でいることもできない。大分前から懸念されていたことだが、今もアイツの身体には相当の負荷がかかっている」
「……それって」
「神名に釣り合わない白波の器の崩壊が始まった」
私が目を見開くと、鳥羽は淡々と告げる。
「なるべく早く名を元の持ち主に返さないと、……このままではいつか手遅れになる」
時間はいつまでも待っていてはくれない。
白波さんの身体のタイムリミットがいつかやって来ることを、私はどうして気付かなかったのだろう。
「……命の危険があるってこと?」
「………………ああ。恐らくはあと三年だ」
長い沈黙の後に、肯定された。
目の前が真っ暗になるような心地がした。これまであった世界が全部バラバラに砕けて、涙の海に浸っているような胸騒ぎ。
「どうして……、どうしてそんなに落ち着いていられるのよ! アンタ、白波さんの恋人なんでしょう!?」
「うるせえ」
ぎろりと私の方を鳥羽が睨みつける。その凄まじい表情は鬼気迫るものがあった。
「俺だって白波のことは心配してる。アイツの身体に神名を植え付けた奴らをもしも見つけたら、ギタギタのズタズタにしてやりてえぐらいに腹立たしくも思ってる」
「だったら……」
「そいつらは遊び心にこれをしたのかもしれねえ。けどな、その余計なお節介のせいで今の白波は苦しんでるんだ。だから俺は絶対にその術師を許さない。どんな事情があろうともだ」
私は鳥羽の怒りのこもった言葉に息を呑んだ。
冷静でいるように見えて、実は一番怒っているのは彼だということに気付いたから。
「実のところ、俺は一番に疑っているのはお前の家だ。この辺りの術師の名家なんて月之宮家しかいない。お前が犯人ではなかったとしても、他の連中はどうなんだ?」
鋭い指摘だった。
そう問い詰められ、私は返答する。
「……理由がないわ。神名を盗んだ後にあえて白波さんを選んだ理由が分からない。自分がフラグメントになるチャンスを得たのに、どうして何も知らない彼女にそれを植え付けるというの?」
どうして霊能力のない彼女でなければならなかったのか。
乙女ゲームのヒロインであるから。以前なら、私はそんな発想になったかもしれない。
けれど、こうなった今ではそれすらも疑惑の目を向けるべきだ。
「……そうかよ」
鳥羽は、腕組みをして壁に寄りかかった。
「確かに、その点については俺も疑問だ。数多の人間の中で白波を選んだ理由がまるで分からねー。勉強もできねーし、基本的に平凡を絵にかいたような人間だぞ」
「それに、今の我が家では私と兄しか霊能者がいないの。海外留学で日本にいない現状で、兄がそんな面倒なことをしていくとは思えないわ」
「人材不足感がすげーな」
「むしろ、霊能者の人間がそこそこいるのは親戚の日之宮の方で……」
そこで私は沈黙をする。
義兄の婚約者である奈々子の存在を不意に思い出したからだ。
「そこで黙るってことは心当たりでもあるのか?」
鳥羽が渋面を浮かべた。
「……それでもやっぱり証拠が足りないわ」
奈々子なら、このような複雑な術式を組むこともできるかもしれない。私の正体が神だということも薄々勘付いていた可能性も高い。
けれど、仮にも陰陽師である彼女が守るべき人間を傷つけるような行いを面白半分にするだろうか?
「……確かに証拠も無しに陰陽師を殺すわけにもいかねえよな。人間を傷つけたら白波に嫌われちまうし」
奈々子ならできるかもしれない、というだけではダメなのだ。
それでは言いがかりと同じことになってしまう。
日之宮の術師たちとの争いになったら小規模な戦争になるのは間違いないし、そうなったら待っているのは仁義なき殺し合いだ。
怒っているくせに意外な冷静さを見せた鳥羽が、ため息をついて珈琲を飲み干した。
「どこに行くの?」
「白波のところ」
訊ねると、鳥羽はそう言った。
「……こんなところにいましたか、八重」
先ほど置いてきた東雲先輩が、保健室の外の廊下で体育座りをしている私を見つけて優しく声をかけてきた。
「先輩……」
暗い廊下で、蛍光灯が瞬きを繰り返している。
寒さに唇を震わせながら、私は力なく笑った。
「全然ダメなんです。さっきから白波さんに名前を返してもらおうと何度も頑張ってるのに、どうしても上手くいかないの……」
嫌い。嫌いだ。
こんな役立たずな自分が世界で一番嫌いだ。
大切な友達を助けることもできない、自己中心的な己が憎い。
「……八重」
長い指で頭を撫でられる。その優しい感触に、たまらなく情けなくなって泣いてしまった。
嗚咽を洩らしながら涙を零す。
「……私のせいで白波さんが死んでしまったらどうしよう……っ」
もしもそうなってしまったら、全てがお終いになってしまう。
こんな泣き言をいっても何も解決なんかしないのに。優しいこの人に甘えてもいい状況ではないのに。
先輩を、困らせてしまっている。
「…………っ」
私、白波さんから奪ってばかりだ。
幸せも、愛も、命までも。
こんな私が友達でいる資格なんてどこにもない。そう思うのに、それを告げたらきっと悲しそうな顔をさせてしまうと思うから、直接は言えない。
「ごめんなさい……、」
気が付いたら謝罪の言葉が口から溢れていた。
それは自分の保身か、それとも誰かに許していて欲しかったのかは分からない。嗚咽と共に何度も謝った。
「先輩」
気が付くと、すがるように訊ねていた。
「先輩は、神様だったころの私が好きなんですか?」
どうしてこんなことを聞いたのか、自分でも分からない。けれど、この意味不明な質問に、東雲先輩は静かに答えた。
「どちらも好きだよ。神様であったころの八重も、今の人間でいる八重も」
「正直に言ってください」
「君が人間のままでいたいと願っているのなら、それでもいいのではないかと最近は思っている。
正直に言えば、だけどね。
ただ、八重。君の代わりを務めている白波小春が永遠にそのまま頑張れるとは思えない。
そろそろあの娘は、限界だろうね」
息を呑んだ私に、東雲先輩は真っ直ぐに告げた。
「もう逃げるな、八重」
感情が堰を切って溢れだす。
大きい雨粒のような涙が、とめどなく筋になって流れた。
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