悪役令嬢のままでいなさい!

顔面ヒロシ

☆237 懐かしい天気の日







 寒々しい曇天の空。今にも雪が舞いそうな陰鬱な空気に、


「なんだか懐かしい天気の日ねえ」
私が自宅のリビングで過ごしていると、布巾で手を拭きながら母がこう言った。何の変哲もない呟きを無視しようとしたところで、近くで鬱陶しいほどの距離にいた松葉が目を瞬きした。


「……懐かしいって何が?」


 松葉は私と東雲先輩の約束を知らない。式妖なのだから説明をした方がいいのかもしれないけれど、無駄に大騒ぎされても面倒だ。
……それに、まだちゃんと結婚できると決まったわけではないし?
先にやらなくちゃいけないことも残っているわけで――、
…………結婚かあ。
現実味のない将来だというのに、にへらと笑みが自然と浮かんでしまう。そんな夢見がちな乙女になった私の様子に松葉は不思議そうな顔をしていた。


「昔ね、八重ちゃんったらこの家の庭で野生動物を一匹餌付けしていたことがあったのよ」
 おっとりとした母が苦笑して語る。その言葉に、松葉がぴくりと耳を動かした。


「野生動物って……野良犬とか?」
「私も最初は八重ちゃんがワンちゃんって呼んでたから犬のことだと思っていたのだけど、どうやらそうじゃなかったみたいなのよ」


「私、そんなこと覚えてないけど」
 私が不審な眼差しを向けるも、母は気にしない。「小さい頃のことだものねえ」と、物悲しそうにしただけだ。


「覚えていない方が良かったかもしれないわよぉ……、それはもう大騒ぎだったんだから」
「大騒ぎ?」
 なんでだろう。この先の話は聞かない方がいいような気がしてきた。私の中の何がそうさせるのか分からないけど、不吉な予感がするのだ。


「幽司君も、八重ちゃんと一緒に内緒で餌をやっていたみたいなのだけどね、あの時は2人とも本当に可哀想だと思ったわ」
「その……何だったの? 八重さまが可愛がってた生き物って」


「あのね、タヌキよ」
「タヌキぃ!?」
 その正体に、驚いた松葉と私は顔を見合わせる。


「そんな、モノホンの野生動物じゃないか! 猫や犬ならともかく都会のタヌキって懐くものなの?」
「私も驚いたけどね、触らせてくれるところまではいかなくても、結構な頻度で家の庭に現れていたの……今日のような冬の日までは」
 月之宮家の住人である母は、寂しそうな目でその時のことを語った。お茶の用意をしながら、切ない事件のことを紡ぐ。


「我が家の近くの道路でね、そのタヌキは車に轢かれてしまったのよ。外で遊んでいた八重ちゃんと幽司君が見つけた時には虫の息でね、あなたは泣きじゃくりながらそのタヌキを抱いて家に飛び込んできたわ」
「うわ……」
 松葉が痛そうな顔になる。それを見た私は、同じような表情になった義兄の姿をどこかで見たような気がした。
そうだ、確か……あの日も。
痛ましいものを見たような、ショックを受けた幼い兄に、私は……。


「そうだわ……そうよ。確か、私は」
 全力で走って叫んだのだ。
大好きだったこのワンちゃんを助けて!と恥も外聞もなく泣きじゃくって、そして。
どうして忘れていたのだろう。この悲しかった記憶を、何故忘却することができていたのだろう。


「病院……そう、動物の病院にみんなで駆け込んで、そのタヌキを預けたのよ。その後って……」
 思い出した私がすがる様な目で口にすると、母は首をゆっくり横に振った。


「……近所の動物病院で手当てしてもらったけれど、事故に遭ったタヌキは助からなかったのよ。どうして預けてきてしまったんだろうって、八重ちゃんはしばらくふさぎ込んでいたわ」
「そう……」
 そうなんだ。蘇った記憶が、その時の苦い後悔を味あわせる。
遠く祖先に神の血を引いていても、陰陽師だとしても全知全能というわけにはいかない。助けられなかった命も、この世にあって当然だ。
大きくなった私はそうわり切るしかないって分かっているけれど、幼かった頃の私はそんな言い訳の仕方なんか知らなかったことだろう。
 ずるい。大人ってずるいなあ、私。
けれど、この胸の痛みを感じないほどに鈍麻していないだけ安堵するべきなのだろうか。


「そっか。だから、八重さまはボクのことを拾ってくれたんだね。
忘れても、その後悔が残っていたから……拾わざるを得なかったんだ」
 少しだけ空疎に口端を上げて、松葉は言った。
がっかりしたような、落ち込んだような気配を感じる。
 そんな彼に、私は言葉をかける。


「……そうだとしても、私は松葉を拾ったことを悔やんでなんかいないわ」
 いつの日か、私はこの感情すらも感じない大人になっていくのか。
それが肉体的にも精神的にも成熟するということなのだとしたら、もう少しだけ……。
東雲先輩との先を望む心と矛盾すると分かっていながらも、あとちょっとだけ、今の自分のままでいられる猶予が欲しいと願ってしまう私なのだった。







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