悪役令嬢のままでいなさい!

顔面ヒロシ

☆208 文化祭 (1)





 待っていたはずなのに、その日は唐突にやって来た。
私の周囲の温度が上昇する。熱に酔う。
浮かされた気持ちで先を望んだ。賑やかで、騒々しい。そんな一日だった。




「はい、これが無線の小型受信機よ」
 文化祭当日の午前中。私が白波さんに舞台に一番大事な小道具を手渡すと、ドレスを着て化粧をされていた彼女は不安そうな顔で振り向いた。


「……ありがとうございます」
「顔が硬いわ、そんなに緊張しないで」
 私が笑いかけると、強張っていた白波さんの頬の筋肉が震えた。
ベージュを基調にしたフリルのある、けれど豪華すぎないそのドレス衣装は彼女の可憐な容姿を引き立てている。バレエシューズを履いた素足にまで花の鎖が巻かれていた。


「わ、私、みんなの足を引っ張らないか……」
 わななく声で震えている彼女に、舞台準備を点検していた遠野さんが無表情で現れた。


「……それは大丈夫。
緊張ごときで失敗するような……やわな鍛え方はしてない」
 じろりとそちらを睨んだエリスの母役の遠野さんの言葉に、青ざめていた白波さんは息を呑む。
出演者に配られる予定だったお菓子を勝手に1人で食べている男装姿の希未が、何かに気が付いたように目を大きくした。


「あれ……、鳥羽は? 白波ちゃんの側にいないの?」
「そういえば見かけないわね」
 白波さんの隣から離れるなんて、どんな大事な用があるというのか。
普段ではあり得ない彼の行動に不思議に思っていると、ステージの裾の辺りに立っているのを見つけた。


「鳥羽……」
 話しかけようとして、厳しい表情をしている天狗の態度に言葉が消える。こちらを見ようともせずに台本ばかりを見つめていた。


「あの、月之宮さん」
「白波さん?」


「わ、私、一生懸命、今できることをやろうと思うんです」
 どもりながらも、真っ直ぐな眼差しで握りこぶしを作った白波さんが、可愛らしい笑顔になった。


「だから、この劇、成功させよう!」


 それを聞いた私の頬も緩む。
「そうね、一緒に頑張りましょう!」


 私が欠けてもできなくて、白波さんが欠けても成立しない公演だ。2人で補い合いながら、二人三脚で頑張るのだ。
絶対に成功させたい。
待ちながらそんな思いが共通のものであることを再認識していると、しばらくして、体育館の照明が一気に落ちた。








 ――太田豊太郎という名の青年は、父親を早くに亡くしながらも常に学問では首席を修めてきた人間でした。十九歳で大学を卒業し、三年ばかり某省に勤めた後に、官庁の覚えめでたき彼は「洋行してある事務を取り調べろ」という命令を受け、名声を高める機会を得たことに震え立ちます。


五十を越えた母親と別れることすら大して悲しいとは思わずに、はるばる日本を離れてベルリンへとやって来たのでした。


 そんな出だしで始まったナレーションが読み終わると、町並みの風景にセットされた舞台に黒い衣装を着た鳥羽の姿が現れる。
燕尾服に山高帽、明治大正時代をイメージした紳士服を着こなした彼は、船からドイツの街へたった今降りたばかりの人間だ。


「なんて刺激の強い街なのだろう。あれもこれも驚きに満ちているじゃないか。けれど、つまらない外見に心を動かされてなるものか!」
 通り過ぎるエキストラは、パリ風の衣装を着た少女たちなどのドイツ人だ。


「まあ、あなたはどこからいらしたの?」
 そう訊ねられた鳥羽は、くるりとステッキを回す。


「日本だよ。ここへは仕事をしにやって来たのだ」
「あらそうなの。よくできたドイツ語ね」
 くすっと笑う少女たちから、無感動に鳥羽は目を離す。


それから、豊太郎が仕事にまい進する日々が始まった。あるものからは嫉妬され、あるものからは誘惑されながらも、彼は学業に没頭していく。
舞台はくるくる変わり、役柄に専念している鳥羽もきびきびと動いた。


やがて、物語は重要なシーンへと差し掛かる。古い教会の前に歩いてきた豊太郎は、ヒロインのエリスとそこで出会うのだ。


 その門扉へと寄りかかって、白波さんは泣く真似をした。それはいかにも哀れで、手助けしてやりたくなるように見える。
いつかに聞いたセリフを、鳥羽はぶっきらぼうに告げた。


「どうして泣いていらっしゃるのですか。この国に知り合いのいない外人の私なら、かえって力になれることもあるでしょう」


 急いで私は暗記してあるセリフをトランシーバーに指示する。耳に受信機をかけた赤く口紅の塗られた白波さんの口の動きとリンクした。
「「あなたは善い人なのですね、彼とは違って。また、私の母よりも」」


「一体どうしたのですか、話してごらんなさい。お嬢さん」
 この時、私はまるで白波さんの体に憑依して、彼女と一緒に自分までもが舞台に立っている気分になった。
シンクロしている私たちは、誰かによって操られたように喋る。


「「私を救ってくださいませ、異国のお方。私が恥のない人間になってしまうのを。
母は私が彼に従わないというので私を打ちました。父が死んでしまったというのに、明日には葬らなくてはならないのに、我が家には一銭の蓄えもないのです」」
 真剣な眼差しで、鳥羽は応えた。


「君の家に送って行くから、まず気持ちを鎮めなさい。泣き声を人に聞かれてはいけません。ここは人通りがあるから」
 膝をついていたエリスを、豊太郎が助け起こす。


ドキドキしながらそれを見ていた私の目に、熱いものが滲んできた。


 豊太郎がエリスの家に行くと、彼女の父の遺体と遠野さんが演じる陰気な母親がいる。埋葬する費用にまで困窮しているヒロインの為に持っていた懐中時計でお金を用立てた主人公は、やがて危うい交際にまで発展していくのだ。
免職された豊太郎は、希未の役である相沢謙吉の助力によって新聞社の特派員になる。
暖かな暖炉の前で、白い喉にバラ色の頬をした白波さんが目を閉じると、躊躇うように一拍おいて、鳥羽が彼女の唇に口づけた。


 2人のキスシーンに、観客席から驚きの声が聞こえる。
蝋燭の消える間際の鮮やかな輝きのような、そんなキスを、私は黙って見守った。


 これで良かったのだ、と穏やかな胸中で思った。
いつかの私の片想いは叶わなかったけれど、この場の私は心から感動していたのだ。








 相沢の策略で日本に帰国することになった豊太郎に、気が狂ってしまったエリスの白波さんの演技は、それはそれは壮絶で美しかった。
白波さんには、人を惹きつける何かがあった。舞台にいる彼女はエリスそのものであったし、普段の優しさとは違った魅力に動かされていた。


エリスをベルリンに残し、船に乗った豊太郎。その厚い幕が下がったところで、私は息せき切って白波さんを抱きしめた。


「最高よ、白波さん……っ」
「月之宮さん……っ 私、できた!」
 ちゃんとできたよう、と鼻声で白波さんが嬉し涙を流す。


校内新聞部の男子生徒が、顔を真っ赤にしながらキャストのみんなに質問をしていた。
「公演を大成功で終えた今の気持ちを、一言でどうぞ!」


 そんなの決まっている。
笑いあった私たちに、希未と遠野さんが微笑ましそうに見ていた。


「「生まれ変わった気分!」」
 こんな最高な気持ち、滅多にない。







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