悪役令嬢のままでいなさい!
☆185 殺伐とした妖狐
後ろで校長室の扉が閉じる。
そこから押し出されたように外の廊下へと移った私と柳原先生と夕霧君に、赤シャツ教頭がフン、と鼻を鳴らしてこう言った。
「今回は随分と運が良かったようですが、二回目はありませんからね。柳原君」
「しょ、承知しておりますっ!」
ピシッと背筋を伸ばした雪男に、冷やかな眼差しが注がれる。まだ疑いが晴れていないと言いたそうな目つきだった。
逆に温かな微笑みを向けたのは学校長だ。
「……そういえば、柳原先生。二年Bクラスのみんなは文化祭で演劇をやるということになっていたわね?」
「はい、さよーでございますが……」
「その演目、もう決まっているの?」
そう問いかけられ、柳原先生はボソボソと「まだ正式には……」と口を濁す。幾つかの候補が上がっていたようだったが、それを言う前に、赤シャツ教頭が意地の悪そうな笑顔になった。
「それでは、森鴎外の舞姫などいかがですかな?」
「あら! それはいいわね! そうしましょうよ、柳原先生」
――舞姫。
文豪、森鴎外の短編小説であり、19世紀待のドイツ帝国が舞台の悲恋の物語である。
それを提案され、柳原先生がもごもごと口ごもる。むやみに上司の言葉を却下することもできず、そのまま押し切られそうだ。
「し、しかしあれはバッドエンドで……」
「柳原先生、是非楽しみにしていますからね」
「そうですな。今回庇って貰えた校長への恩義を感じているのでしたら、どうすれば良いかもうお分かりでしょう?」
……いや、最初は思いっきり辞めさせようとしてたじゃないのよ。
私が目を眇めてため息をついたのにも関わらず、柳原先生は人の良い半笑いで頷かざるを得ないところまで追い込まれていた。漁で逃げ場を失ったトビウオのようなものだ。
さっきまで私たちの救世主を演じた夕霧君の方を見ると、クラスの違う彼はまるで興味無さそうに明後日を向いていて、早くこの話が終わることだけを望んでいるようであった。
「あの……ありがとう」
教頭と学校長がいなくなり、人気がなくなった廊下で、私がぎこちなくもお礼を言葉にすると、夕霧君は驚きの表情になった。
「……なんでオレにそんなことを言うんだ?」
「だって、夕霧君が証人になってくれなかったら、こんなにアッサリ解放されることなんてなかったわ。柳原先生だって解雇されていたかもしれないし……そんなことになったら最悪の展開じゃない」
そんなにキツイ性格に見えるのだろうか。私だって、お礼くらいちゃんと言う。
少々彼の反応にムッとしながらも私が答えると、夕霧君は頭の痛そうな反応を示した。
「礼に値するようなことは何もしていない。校長室への突入だってオレが自発的に考えたことではないし……」
「あら、違うの?」
しどろもどろに狼狽した陛下の呟きに、私は目を瞬かせた。
秋の小風が吹き、窓辺からは落葉を始めた樹木が見える。そちらに少々気をとられていた私は、ふっと誰かの気配を感じて目線を廊下の先に移した。
……そこには、至極不愉快そうな白い金髪碧眼の青年が立っていた。キッチリとブレザーとスラックスを着こみ、ネクタイをきつく締めた彼はまるで切れ味のいい日本刀のような物々しい雰囲気を見る者に感じさせる。背は高く、大聖堂の彫刻さながらに見目は整っており、軽く現代的に表現するなら、イケメンといった言葉がすごく似合う。
外国人にも、日本人にも見えるその男子の名前を、私は震える声で発した。
「……東雲先輩」
「随分久しぶりに僕の名前を呼びましたね、八重」
浅くため息をついた東雲先輩は、ぎろりとこちらを睨み据えた。見るからに殺伐とした剣呑な態度に、私は逃げ場がないことを悟る。
「……どうして、とは云いませんが、ずっと君が僕のことを避けていたのは許容しようと思っていました。一時くらいなら、他の男に惹かれていることも許そうと思った。……だけどねえ、分かっていますか? 君に逃げられ続けて僕の我慢ももう限界なんですよ」
カツカツと足音を立てて、東雲先輩が私のところに近づいた。詰め寄った。顎に手をかけて、斜めの角度にした。
その耳元に唇を寄せ、こちらのワイシャツのボタンを外した東雲先輩は思い切りよく私の首に噛みついたのだった。
「い……っ」
ぶわっと全身に鳥肌が立って、私は真っ赤になって縮こまる。東雲先輩の匂いがする。男の人の白くて筋張った首が見える。
もう全身から蒸気が出た私が限界オーバーで震えてしまうと、東雲先輩は歯型と少しの唾液を残して身を離す。ようやく正気に返った私が抵抗しようとすると、男の人の力で腕を引かれ抱きしめられた。
拒んでなんかいない、と言い返そうとして、気が付いた。
東雲先輩がどれほど私に依存して、好きで好きで好きで好きなのか、嫌という程伝わってきて泣き笑いしそうになった。
「……だって、先輩、他の女の子と一緒に歩いていたじゃないですか」
「いつの話ですか?」
今更悔しくなった私が、皮肉を込めて怒りをぶつけると、相手の妖狐はマジメに分かっていなかった。
「……それ、本気で云ってます?」
「僕はすこぶる本気ですが」
これじゃあ、ヤキモチを焼いていた私が馬鹿みたい。恥ずかしさに顔を赤くして黙り込んでいると、近くに夕霧君と柳原先生がいることに気付いて死にたいくらいの心境になった。
「……先生、このイチョウいつになったら銀杏が採れますか」
「そうだなあ、あっちなんか綺麗な羊雲だと思うぞ」
棒読みも甚だしい。
ぐっと腕に力を込めて逃げようとしても、東雲先輩の腕力では身動きがとれない。従って、彼に抱きしめられた姿勢で我慢することになる。
「夕霧、もうここから離れていいですよ」
「分かりました。生徒会長」
まるで自分の手足のように夕霧君に指示を出した東雲先輩に、柳原先生が納得の声を洩らした。
「ああ、なるほど。通りでタイミングよく夕霧が現れたと思ったら、裏で東雲さんが手を引いていたのか」
「だったら何か悪いか?」
見えないけれど、東雲先輩の眉間に深いシワが刻まれたのが手に取るように分かった。苛立ちの表情を浮かべた妖狐は、その青い双眸を仇でも見るように雪男へ固定する。
「い、いや……なななんでもありませ……」
「……そういえば、お前、八重に借りた金は返したのか」
温度の下がりそうな東雲先輩の冷え切った言葉に、柳原先生がぎくりと肩を上げた。その場から退散しようとしていた雪男は、震えながら自分の記憶を振り返る。
「え、ええっと……確か前回会った時に……あれ? 返さなかったっけか? オレ……」
「そもそも、八重と2人で会った時に隠形することを選ばなかった時点でお前の怠慢だが……。それに加えて、借りた金も返していない、と」
「あ、あの、東雲さんはオレと月之宮が2人で会ったことに関しては怒っていないので?」
「何を云っているんだ、お前は――」
そこで、東雲先輩は口端を上げて凄みのある笑顔を浮かべる。ようやく私の肩から手を離すと、その右手にシャーペンを取り出して思いっきり雪男に突き刺そうとしながら、怒鳴り声を上げた。
「――僕は思いっきり根に持っているに決まっているだろうが!!」
「ひいっ ですよねーーーー!」
そこから始まった言語に表現しきれない雪男への虐待から、私はそっと目を逸らした。異能は使っていないものの、むしろそちらの方が良かったんじゃないかと思ってしまうような、痛みの伴う暴力行為だった。
居場所のない夕霧君が帰る間際に口にした。
「……月之宮が失恋したといっていた相手は……」
いい笑顔で柳原先生への折檻を続ける東雲先輩を指差そうとしていたので、私は虚ろな目で首を振る。
「…………だろうな」
うん、そこから先は調べない方が身の為だと思います。
その後、東雲先輩が瀕死の柳原先生の財布から回収した1万3千250円が私への返済に充てられたことは……言うまでもない。
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