悪役令嬢のままでいなさい!
☆73 喪失 (2)
日之宮千恵子の死亡した原因は、倒壊家屋の下敷きになったとのことだった。
家族からはぐれた子どもが建物の崩落に巻き込まれそうになっていたところに出くわした千恵子は、それを単身かばおうとして共に火のついた瓦礫に押しつぶされた事故とのことだった。
一緒に行動していた日之宮の衆がみんなで瓦礫をどけるも、頭をぶつけた千恵子は火傷も負って亡くなっていたらしい。その故人が助けようとした子どもの遺体もすぐ近くで発見された。
結界術が上手く作動していれば、防げたはずの事故だった。
合流地点で彼女の遺体と対面した五季は、顔面蒼白になって、何度も「千恵子、千恵子」と呼んでいた。
そのうちに、ボロボロと涙を流して泣いていたのを青火は見た。
無理もない。
一夜のうちに兄が1人と婚約者の女性を亡くしたのだ。
此度の大災害で、月之宮家も日之宮家も何ができたというのだろう。ただ空襲にうろたえて、バケツで水をかけるしかできずに、むざむざと帝都を焼きつくされたのだ。
朝になって、眺めた町並みは見事にまっさらの炭になっていた。
死者10万人以上。
そこから先の記憶はない。
ただ、三津と千恵子嬢の葬式を略式に執り行って、そこに出席したのは覚えている。五季も虚ろな眼差しで婚約者の骨を拾って、骨壺に収めていた。
一守と五季は喧嘩はしなかった。
葬儀が終わったら、五季たちは焼けた東京の街でできることはないか探しに行って、青火は元の社に獣の姿で戻りに行った。
社につくと、避難民でそこはごったがえしになっていた。狂ったように、神社に拝んでいく人がいる。その願いを重く感じながら、青火は群衆の足下をすり抜けて社の下に駆け込んだ。
「あ、狐だ」と、小さな子どもが叫んだ。
人に戻ろうとしてみたものの、残留思念核に激痛が走る。
仕方がないので、獣の姿のままに土の上で物陰に眠りについた。
何日たっても、青火が人の姿に戻れることはなかった。残留思念核が回復するには、心が癒されることが重要と聞く。
であれば、このように屈辱と後悔とで塗り固められた己の心が元に戻らなかったのも当然のことと言えよう。
誰とも殆ど口をきかずに、ずっと泥のように眠っていた。
こうして、春は終わり、遂に戦争が開始されてから四年半ぶりの夏が訪れることとなる。
きっと永遠に忘れない。
そんな別れがあるとしたら、恐らく、これがそうだった。
「青火さま、いるか?」
会話をしなくなって数か月ぶりに社で聞いた五季の声だった。
1945年7月26日。
瞼を開けると、視界に光が差す。
五季の元へ行かねばならない。どこか、そんな不吉な予感めいたものを感じて、青火は少々のためらいの後に獣の姿のまま境内へと出て行った。
「あ、青火さま。そこに居たのか」
五季は一匹の獣を見つけて嬉しそうな顔をした。
そんな彼の恰好は、軍服に水筒と背嚢を持って、どこから見ても出征前の旅装といったところか。
「赤紙が来たのか」
「ああ。とびっきりのがやってきた」
もうここまで戦局が決まってしまえば、後は敗走そのものである。
日本は負ける。
びりびりと全身の毛を震わせた青火が、陸軍に牙をむきたくなった。
「特攻隊にでも駆り出されたか!」
「いいや、違うよ。俺の行く先はまず国内って決まってただろ」
毛を逆立てた青火を撫でながら、五季はしずかに桜の木を見つめていた。
まだ今年もろくに花を咲かせずじまいの、過去に千恵子嬢が植えた桜の木である。
「俺が行く先は……中国地方の一都市さ……」
「中国だって?」
無論、大陸の方ではなく、国内の中国地方のことだと青火はすぐに分かった。
頭が確かであれば、以前に一守が口にしていた地域のことである。
「一守が閃光弾がどうのと言っていた、あの中国地方か」
「閃光弾ってのは、兄者の嘘さ。あそこに本当にこれから落とされるのは、街1つを吹き飛ばす新型爆弾らしい」
「新型爆弾?」
「そう。その防衛に四津兄さんと向かえって伝令が来てるんだ」
そんなもの、どうやって防げって言うんだ。
青火が思わず絶句していると、五季は背嚢から笹で包んだ何かを取り出してきた。
「これから残った電車で向かうんだけど、その前に青火さまに会ってこうと思って……」
「……僕も行く」
「え?」
うわ言のように青火が言った言葉に、五季は首を傾げた。
「僕もそこへ向かう」
「結界術もできないアヤカシなのに?」
「行けば何かの役に立つかもしれないだろ」
青火の言葉に、五季が苦笑する。
そして、18歳になった少年が包んであった笹を紐解くと、中から綺麗な白米のおにぎりが2個、その姿をのぞかせる。
この戦時下の食糧難のときに、白米のおにぎりである。恐らくは、月之宮家に備蓄してあった最後の米をかき集めて作られたものであろう。
「お願いだ。青火さまには、ここに残ってやってもらいたいことがあるんだ」
「残ってだと?」
「ああ、俺からの最後のお願いだ」
五季が目を伏せる。
そして、はっきりとよく通った声で、その人生最後のお願いをおにぎりの1個を差し出しながら口にした。
「梢佑を助けてやって欲しいんだ」
そのせいで、ついていきたいとはもう青火の口からは言えなくなった。
「これで、俺も四津兄さんもいなくなれば、後は家に残るのは目の見えない一守兄さんだけになるだろ。疎開から戻ってきたら、きっと色々と梢佑は跡継ぎとして苦労することになると思うんだ」
青火が小さくよろめくと、五季は意思の強い瞳で続けて言った。
「だから、青火さまには、神様としてここに残って梢佑を支えていって欲しいんだ」
「お前たちは、いつもいつも……」
「だめか?」
だめもなにも、そうやって神様であることをダシにされたら引き受けないわけにいかないだろう!
保護者として一緒に付いていってやることもできないのか!
保護者として…………、
ほご…………、
唇の端が自嘲気味に上がる。
これはもっと大きくなってから認めるつもりだったが、もうこの少年は一人前の大人の顔をしていた。もう、月之宮五季は子どもではないのだ。
子どもではないのなら……。
よろよろと、のろくも目の前に置かれたおにぎりに尻尾が動く。
「……怖くはないのか」
そう訊ねると、五季が唇を真一文字にした。
「そりゃ怖いよ。まさか、四津兄さんと一緒にこんな死に方をするとは思わなかった」
「そうだろう」
「でも、俺の場合は……千恵子が空で先に待ってるからさ」
鼻をこすった五季が、泣きそうな声でそう言う。そう言って、仄かに笑う。
「青火さま、この桜を大事にしてやってくれないか」
青葉をわずかにつけた若き桜の木が風に揺れる。今は亡き千恵子が植えた桜であった。
青火が、重く頷いた。
「当然だ」
「よーし、これで思い残すこともないや」
憂い顔のままで笑うという器用なことをしてのけた五季が、青火にこう言った。
「俺は、青火さまの友達だからな!色々と心配ごとは尽きぬのだ!」
「……ああ、そうだな」
初めて、五季にこう振られて肯定をした。
最後まで拒まれると思っていたのだろう……五季の挙動が固まった。
「俺は青火さまの……友達だからな?」
「ああ、そうだな」
くしゃりと五季の表情が歪んだ。
目線より小さな狐を撫でる手が止まる。ぽたり、ぽたりと目から雫が溢れて、次第に泣き始めてしまった。
「遅いよ、青火さま」
「…………」
認めさせたかった人物にようやく振り返って貰えたのに。よりによって、今かよ。
千恵子、もう死んじゃったじゃないか。
五季のそんな思いに、青火もやるせなくなった。
もっと早く、この言葉をかけてやればよかった。そんな後悔ばかりが胸を打つ。
30分ほどして、四津が五季を迎えにやってきた。こちらも同じように旅装をしていて、普段と違って真面目な表情をしている。
真剣そのものといった佇まいの彼は、もう泣き止んだ五季の赤い目に瞳を伏せると、こちらに向かって敬礼をしてきた。
「青火さま、いってまいります!」
『逝ってまいります』、という意味で使われた言葉に、青火は青の瞳を大きくさせた。
月之宮家の人間は、死地に赴く際、必ずといっていいほどにこの言葉を言い残していなくなる。
しばらくして、顔を洗った五季も別れ際に「いってまいります」と言ってその場から立ち去った。
しおれても、一本芯の通った生き方をした向日葵のような少年の命は、そうして青火の目の前からかき消えた。
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