悪役令嬢のままでいなさい!
☆67 初恋 (4)
――そして、彼は『彼女』を知った。
鏡がだんだんと映していった世界は、やはりというべきか、術師の狙った座標とは大きく誤差がでた。
そこは、穏やかなところだった。
ときは朝だろうか。
地面は灰色にかためられていて、空は爽やかに青かった。震災にあう前の東京駅のような赤レンガ調の建物といまが見頃の桜並木、いい庭師に恵まれていそうな植木があった。
学舎のようだ。この気合の入った建築の仕方は、どこかの学校か。
あろうことか、その場に『青火』がいた。
ふざけた格好をしている。西洋嫌いなはずなのに、ズボンにシャツ、ネクタイまで締めているときた。同じなのはその面構えだけで、金髪と青い瞳がいつもと同じ色合いだったことに、現代の青火としては少しほっとした。
誰かを待っているようだった。文庫本を読んでいる。
「……青火さま?」
呆けた五季が、そう呟いたのが聞こえた。
『そこ』にいる青火の姿は、数年ほど若い。ここにいる本人よりも、数年若い見た目でいるのに、どこか郷愁を感じさせてくれる。
誰か待ち人でもいるのか、文庫本のページをめくりながら、その青火らしき生徒は校門のそばで佇んでいる。ぱらり。また一枚ページが移る。
その日常風景にじれったくなりそうになったところで、不意に彼の存在は視線を上げた。暗い瞳に炎が宿り、待ちわびたといわんばかりの目つきになる。
「…………」
未来の青火が待っていたのは、どうやら女生徒であったらしい。
身長が高く、豊かな胸が特徴的で、腰までもある長い黒髪をした少女がこれまた制服を着て登校してきたところだった。
冷たい印象の眼差しをした彼女は、青火の方を見てあからさまに嫌そうな表情になった。これはとんだご挨拶と文句を言いたくなる感じの、冷涼たる雰囲気を発している。
『やあ、おはよう。月之宮さん』
我ながら、胡散臭い挨拶をしている。
『おはよう、ございます……』
爽快さとは程遠い、少女の返答がこれだ。けれど、それに不快さを表に出さない青火は次にこう会話を続けてきた。
『君を待ってる間に、この本を読んでたんだ。有名な童話だけど、僕はこの作品が結構気に入っていてね』
『不思議の国のアリス、ですか』
『名前くらいは知ってるだろう?』
『ええ。有名ですから』
『活字には活字の良さがあるものだよ。もっとも、最後の結末は変わらないわけだから、原作を読まない人が多いのも無理はないんだけどね』
意味深な言葉である。
未来予知だの何だのをやっているときに聞きたくはない表現が含まれており、現実の狐は顔をしかめた。
最後の結末が変わらないとは……。
鏡の中の青火は本を優美に閉じると、寄りかかっていた門柱から身体をおこした。近場にいた通りかかった第三者がため息を零さんばかりに見とれている。
『僕をこんなに待たせるなんて、まったく貴女は悪い人だ』
『頼んでいません』
『はは、まあね。手厳しいなあ』
こいつは何の為にここにいるんだ。
鏡で覗き見しながら疑問を頭に浮かべた一同が、顔をひいっと引きつらせた。
何故なら、次の瞬間!
『有り体に云えば、僕は君を手に入れる為には手段を選ばないって――昨日、言い忘れてしまったからね』
そう言い放った未来の青火が女生徒の長い髪を指先ですくいとって、内に秘めた熱情を隠すように口づけたのだから!
嫌そうな態度をとっていた少女も、
『――――ひいっ!?』と青ざめて慄くと、勢いよくその不埒な男の手を振り払う。
そうして、慌てふためきながら拒絶の意を示し校舎に向かって駆け出していく。どこからどう見ても青火がフラれた形だ。
さあ、どんな反応をすればいいのだろうか。
予想外すぎる光景を目撃してしまった現実世界の月之宮家の四津は、「そのへんにしておけよ」と五季の肩を叩いて、占いの中断を促した。
「あっ、うん……。分かったよ。四津兄」
表示するのは難しけれど、止めるのは簡単なもの。集中力が途切れたところで、鏡に映っていた未来の映像は一瞬で消え失せた。
「様々な妄想をかき立てられる結果だったな?青火さまやい」
「黙れ」
女っ気がない今の時代の青火を目の前にして、三津がニヤリと笑う。それに対する青火の返答はこの一択に尽きる。
先ほどから、息をするのが苦しくて仕方がない。
視界から鏡の映像が消えても瞼の裏に焼き付いた少女の姿に、柄にもなく狐神が焦りを覚える中で――、
「――特に、あの女子の乳!!あんな大きさはお目にかかったことがない!」と三津が鼻の穴を大きく膨らませた。
「確かに!あれはでかかったな」と四津。
「青火さまもつれないじゃないの。ああいう巨乳な娘が好きなら、そうとハッキリ申せば良かったものを!」
茶々を入れられた青火は、「黙れ、貴様ら!」と唸り声を出しながら立ち上がり、周囲を睨み付ける。
「さて、ずっと黙っている五季の感想はどうなのかね?青火さまがナンパ男になっていたあの女子学生になにか思うところはないのかね?」
ニヤニヤしている三津にこづかれた月之宮家の五男某、月之宮五季は押し付けられた言葉に戸惑いながら口を開いた。
「え、あ。その……」
「なんだ五季。顔を赤くして」
「その、俺が気付いたことでもいいのか?」
「いいに決まってるだろ。さっさと言えよ」
腰が抜けそうになっていた五季は立ち上がりながら、すうっと息を吸いこんで、
「あの娘、一守兄さんに似てた」
少年の言葉を待っていた三津が、怪訝な面持ちになる。
「……一守兄さんに?」
「うん。そうだ。特にあのきつい目元とか、嫌な食べ物を見た一守兄さんにそっくりだ」
「一守兄さんに、そっくりねえ……」
大してそこに注目していなかった三津は、あごを撫でる。その双子の四津は巨乳以外にもちゃんと観察していたとみえて、どこか納得した顔つきになった。
「ああ、なーるほど。だから親近感を覚えたわけだ!青火さまが口説いていた女子はきっと月之宮家の未来の親戚にあたるということじゃないのか?
一守兄さんにそっくりということは、あれはきっと梢佑の子孫だ!」
「なるほどね。確かに一守兄の血を継いでいれば、身長が高くなっても仕方ないわ。青火さまも散々子守りだなんだって言っておきながら、しっかり手を出してんじゃねーか」
鋭くえぐった四津と三津の考察に、青火が怯む。
今も頭の中にしっかり残っている『彼女』の肖像を追い払おうとして、それが出来ない自分に気が付いたからだ。
「……青火さま?」
「ダメだ三津。お狐さまに、こちらの声が届いてないよ」
「あーあ。オレ、一目惚れをした青火さまを見ることになるとは思わなかった」
三人の呆れが混じった言葉に、
「……そんなものはしていない!」と呻くのは、否定はしても説得力のない表情をしている1人の狐神である。青い瞳はじりじりと焼け付くほどで、おでこを押さえた右手を伸ばしても空を切る思いがするだけだろう。
何故なら、彼が先ほど鏡ごしに見つめた少女はこの世にまだ産まれてきておらず、どれほど生きれば出会うことができるのかも、五季の占いの結果では定かではない。
そこで、受け入れなければならないのは、自分がまったく相手にされていなかったという事実だ。唐突にやってきた胸苦しい感情に名前をつけるとしたら、これは困惑というのだ。
きっとそうに違いない。
何故この僕が、チラ見をした未来の映像なんかに一目惚れをしなくちゃいけないんだ!
「僕は帰るぞ。その鏡は片付けておけ」
狐神、青火がやっとの心境で放った言葉に、三人は不満げな態度を示した。
「えー、青火さまも夕飯を食べていけよ」
「僕に食料はそこまで必要ない」
「少しだけでも、食った方がいいって。神様への捧げものは切らさない方がいいんだろ?」
そんな言葉をかけられては、ぐうの音も出ない。動揺しかけていた青火は深くため息をついた。
時は質素な夕飯。
「私の子孫に恋をしたんだって?」
お椀の粥をすすっていた青火は、久々に帰宅してきた一守からかけられた言葉にむせそうになった。
ゴホゴホと咳をしているのは、奥にいる信次だ。また容体が悪化してきているらしく、顔色が随分と悪い。家族の中でも芋をとくに沢山まわされている。
「まさか」
青火は平然を装い、腕組みをする。
けれども付き合いの長い一守は、その憮然とした顔つきに戸惑いが浮かんでいるのをしかと察知した。
「いやいや、一目惚れ自体に怒っているわけではないのだよ。青火。むしろ、今までそれが無かったことに驚きを感じざるを得ないね」
で、ちゃんと人型をしていたのかね?と一守が訊ねると、
「無論だ」と青火が返事をする。
「兄者、あの子は尻尾も無かったし、耳だって生えてなかったぞ!髪の色だって黒かったし、顔立ちも日本人だ!」
「じゃあ、その娘は人外に産まれたわけではないのか」
「それに、一守兄さんに目鼻立ちがそっくりで。なかなかに別嬪な女の子だった」
「それはそれは」
別嬪どころではない。
名前も知らないあの娘は、青火の知っている限りでも一級に綺麗な姿形をしていた。あれでは、取り巻きも多かろう。
箸を置いた一守は食い残した芋を信次に押し付けながら、
「では、青火は私のことをお義父さんとでも呼ぶかい?」とニンマリ笑った。
それに噴きだしたのは四津だ。口元を手の平で覆うものの、ほんの少しの飯粒が空気中に舞う。
「まあ、汚い。お食事中に何事ですか!」
月之宮家当主婦人、尚且つ五兄弟の産みの母がしかめっ面になった。
「悪かったね、そっちを笑わせるつもりじゃなかったんだけどな」
「今はお米も少なくなってきてるんですよ!一守さんも、ちゃんと食べなさい!」
「母さん。私はこの分で充分だ。それより信次が問題だよ。また痩せてきてるんだ」
青火が視線をやると、咳をしていた信次が苦笑した。
「げほっ……こればかりは仕方ありません。人を呪うということは、こういうことですから」
人を呪わば穴二つ。
誰かを呪えば呪うほど、術師は死へと近づいていく。
「信次さんはともかく、一守さんのお仕事はどうなのです」
一守は生母の言葉に、
「順調ですよ」と端的に返す。
「それならいいのですけれど、ほら、最近は良からぬ噂を耳にするでしょう?」
「新聞をご覧ください、母上。こんなにいいことばかりが書いてあるのに、何を怖がる必要があるのです!」
「……まあ、一守さん。そうではありますけどね。なんだか胸騒ぎがするんですよ。五季さんもしっかり千恵子さんを守るんですよ」
いきなり話題を振られた五季は、芋を頬張りながらこくこく頷いた。
それに安堵の溜め息をついた当主婦人は、お茶を急須に淹れていく。湯呑を1つ寄越された青火は、それに口づけた。
薄く入った緑茶の熱と香りが身体に伝わっていく。近ごろは茶葉も不足していて、いつもよりも倍は薄くなるようにお茶葉を使っているのだ。
「お忘れではありませんか、私と信次の仕事は、そういった不吉な未来を壊すことにあるんですよ。……せいぜい青火も夢を見て頑張ることだな。私の手柄によって、五季が見せた鏡の中の予知が訪れなくなったとしても、恨まないで頂きたい」
「そんなもの、望むところだ」
一守が放ったセリフに、嘆息をした青火は吐き捨てるように言った。
あくまでも未来の占い図である。
それが到来しないことだって充分にありえるし、先のことになればなるほど、的中率は当てにならない。
「僕だって月之宮家の脳筋とだけは、絶対に恋をしたくないからな。このような些細な未来など変わっても構わないから、戦争に勝つことを今は優先するべきだ」
「そうか、ありがとう。青火」
ご協力感謝する。と、一守が軍人口調で呟いて、にっこり笑った。
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