悪役令嬢のままでいなさい!
☆31 ダヴィンチから紐解く空間変異
 
ひょっこり、ガラス扉から顔を出した希未は、彼を揶揄した。
「夕霧と鳥羽、目と目で通じ合ってたよね」
「止めろ。アイツにそっちの気があるように聞こえて吐きたくなる」
希未といい、夕霧君といい。どっちも酷すぎる。魔王陛下の顔に何があるって……?
私は、憮然とした面持ちで希未を睨んでいる彼に視線をやった。
コンディショナーを使っていないだろう、ぱさぱさの黒髪。会った時より少し前髪が伸びているから、そろそろ散髪に行くんだろうか。
シルバーフレームの眼鏡の下は不愉快そうに目が細められ、唇は荒れたままほったらかし。取り立てて美形ではないものの、見た目に頓着すれば印象も明るくなるんだろう。
いつも通りに別段変わったとこもない、魔王陛下の姿だ。
……ん、眼鏡?
シルバーフレームの眼鏡と、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
……なんだろう、この喉元で引っかかってる感覚は。微々たる虫の知らせに私が考え込んでると、夕霧君が呟いた。
「折角、遠野さんが調べてくれたのに。借りた人間の名前を聞く前に鳥羽はここを出て行ったんだ」
「見つかったの?」
私が訊ねると。夕霧君は頷き、答えた。
「柳原先生だった」
「……え?」
意外な人物に、驚愕すると、彼はがっかりしたような声で告げたのだ。
「今回知ったんだが、教職員は生徒よりも貸出数に融通がきくらしくてさ。
柳原は国語の担当教員だから、どうもその関係でまとめて借りていったらしい。……魔法陣の犯人捜しができるのも、ここまでだろうな」
……あ、
脳内に蘇ったのは、3日前の深夜に会った柳原先生のセリフだ。あの時、確かに先生は私にこう告げたではないか。
『――多分、この魔方陣、普通の悪魔召喚じゃないんだよなあ……』
そう、記憶から呼び起されたのは、どこか香ばしい煙草のスモークと、それを美味しそうに吸っていた雪男、柳原先生の零した言葉だった。
いい加減なところのある彼だけれど、日々、アヤカシながらに高校教師という仕事をちゃんとこなして働いているのは周知の事実。
先生の担当する授業を受けたことのある私は、その内容がマトモに進学校のカリキュラムをカバーしていることを十分に実感していたわけで。
国語教師の柳原政雪が、魔方陣に仕組まれた甲骨文字のことをとっくに感づいていたことにはどこか納得してしまった。あの人なら、全然不思議じゃない。
……だったら、どうして資料を総ざらい借りていってしまったんだろう?先生なら、そんなことをしなくても必要な本くらい分かりそうなのに。
これでは、学校側が焦って図書館から撤去した魔導書同様に、生徒の目からわざわざ遠ざけたかのような――。
意気消沈した夕霧君は、仮眠をとることを宣言して第二資料室へ向かって歩き出した。彼の心境を反映している猫背に、白波さんですら励ましの言葉が見つからない。
私は希未とそんな陛下に付き従いながら、食堂へと入っていき。螺旋階段をぐるりと上りながら、ダヴィンチにまつわる出来事を記憶から探っていく。
あれだけ焦った鳥羽君なんて見たことがなかったものだから、言い残された人物名が気になって仕方ない。
万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ――。モナリザや最後の晩餐、受胎告知、黄金比の人体図、工学アイディア、師ヴェロッキオ、メディチ家、フィレンツェ、人体解剖――もう時系列もごちゃごちゃになって考えていると。
第二資料室のドアノブを、夕霧君が左手で開けた。
「……ひだり、きき?」
私が、思わず呟くと、彼は胡乱な瞳をこちらに向けた。
「そこまで、珍しくもないだろ」
――レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿。
鳥羽君が、導き出したろう推理に辿りつき、私はこれまでの自分の思い違いを悟った。どうして、彼があんなに血相を変えて図書館を飛び出したのか分かってしまった。
……これが真相だとしたら、もう何もかも手遅れだ!
あの天狗を追いかけたい。あいつは、きっと瀬川のところに走ったのだ。明日になれば、もっと事態が悪化していくと気づいてしまったんだ。
落ち着け。
近くに一般人が残されている状態で、あいつのために理性を放り出してどうすんのよ!陰陽師のつとめを忘れて、目の前の人間よりもアヤカシ1体を優先させるなんて許されるわけがない。
このはやる心は、非常事態であればあるこそ抑えなくては……。
私は、深呼吸をしてから白波さんに訊ねた。きっと、今の笑顔はすごく不格好だろう。ギリギリの平常心で、立ち回らなくては。
「……ねえ、白波さんと鳥羽君のアドレス、今から教えて欲しいと云ったら迷惑かな?」
なんて皮肉なことだろう。4月の初め、進級してからずっと、白波さんが私とアドレス交換をしたそうにしていたのを、あえてスルーしていた弊害が今生じているなんて。
現在、この異常事態に自分の首を絞めているのは、計3回ほど、スマホを忘れたと健気な白波さんに言い張った嘘っぱちのせいである。
……もしかしなくても、そのせいか。彼女が私(過去のトラウマによって心を閉ざした、深い孤独を抱えていても素直になれない、いたいけで可哀想なクラスメイトの女の子……と思いこまれてるんだろう、きっとそーなんだろう)に慈愛に満ちた眼差しで妖精の微笑みを浮かべるようになったのは。
聖母の微笑みというには、風格が足りない女の子の白波さんは、案の定というべきか遅れに遅れたこの申し出にとっても嬉しそうな顔になった。
キラキラとした彼女に対し、私の相方である希未はそっぽを向いた。すまん、ごめん、ごめんってば。
 
「もちろん、いいよ」
にこっと満面の笑顔になった白波さんは、第二資料室でピンクの折りたたみ携帯を出した。
見間違いかと思ったが、根強い愛用者のおかげでショップの隅に追いやられながらも残っている旧世代通信機器の、あれだ。
つるつるした、パステルのボディーをしていて、中のボタンは塗装の銀箔が少し剥げている。ネタではなくこの携帯はかなり使い込まれているのだ。
今時の女子高生、しかもヒロインのポケットから出てくるとは思わなかったので、色々と緊迫感が吹っ飛びそうになった。
シリアスに鳥羽君の現在地を知りたいと思った矢先に、である。
困ったことに、小金持ちな兄さんが、私の高校入学祝いに贈ってくれた海外メーカーのスマートフォンには赤外線機能が搭載されていなかった。
「……白波さん、スマホじゃないの?」
私が、手入力の労に煤けてしまいながら聞いてみると。
「すごく丈夫なんだよ!」
と可愛く彼女はガッツポーズをした。ああ、これがルネサンスってやつ?
白波さんのメルアドは、短くキュートな代物だったのだが、鳥羽君のものはやたら長かった。迷惑メール対策なのだろうけれど、人力で打ち込むには嫌がらせのような長さだ。慣れない作業に手間取りながらどうにか登録し終えると、私のアドレスも白波さんに教えた。彼女は、カチカチカチ、と玄人の速さであっという間に携帯に入れてしまった。
「今度、メールしようね!」と白波さんに言われてようやく、彼女との付き合いが私生活にまで拡張されたことに気が付いた。泥沼に更に沈んでいく。
……いや、いや。そんな憂鬱な今後に思いをはせる前に、確かめるものがあるでしょう、自分。
みんな、特に興奮しそうな夕霧君にこれからの行動を見られるのはまずいと。
それとなく鞄から化粧ポーチを取り出して、部室を出た。人気のない場所を探して、螺旋階段の下に隠れる。
ひっそりとした影に潜みながら、化粧ポーチのジップを開けて小さな手鏡を取り出した。
スマートフォンのタッチパネルに指を滑らせて、1枚の画像データを表示させる。夕霧君のちゃんとした撮影に比べれば出来は良くないけれど、このピクセルでも簡易的な証明はできるはずだ。
そっと、発光する液晶と手鏡の角度を調整しながら魔法陣の写真を反射させていく。これぐらいか、と目途をつけて小さな鏡面をのぞき込む。
ちょっと分かりにくいけれど、そこに映った図案を見てしまった私は、嫌な予感が当たってしまったことを知ってしまう――きつく唇をかんだ。
――活発化した雑妖。
レッドライン。
円と五芒星。
碇のようなペイント。
一見には分かりにくい甲骨文字らしき紋様。
【DONOTYOUSEEME】。
水で満たされた大きなタライ。
タッパーに載せられた生肉。
今ではもう、起動し終えた魔法。
行方の分からない悪魔。
突拍子もない自論はもう確信していた。
レオナルド・ダ・ヴィンチのキーワードで鳥羽君が辿りついた思考に、きっと今私は立っている。
……知っている人は知っていることだけれど。左利きの人間が稀に書くことがあるという鏡文字を彼の偉人、レオナルド・ダ・ヴィンチは思索ノートやメモに多用していた。それは、暗号だという説や思想的背景があったのではという推測まで。現代人にミステリアスな好奇心を掻き立てさせられる。
そのエピソードから、この魔方陣は反転していると鳥羽君は気が付いたんだろう。あの違和感は、左右が逆さになっていたからで……甲骨文字だということを察するのに時間がかかってしまったのは、このせいだったんだ。
思えば、夕霧陛下の解説にだってヒントはあったじゃないか!
『後は、この星型が人間が大の字になったところに似ていることから、ヒューマンのシンボルにされることもあるし……、
この位置が正位置なのか逆向きなのかで意味が真逆に変化するんだ。正位置では、神の象徴に。逆さになると、悪魔の象徴になる。
向きによって表す意味が変わってくるというのは、タロットカードとやや類似する考えだな』
そう。
魔法陣と五芒星が魔法を使った痕跡だと。
タッパーの上に載った羊肉が悪魔への供物だと、赤色と十字路の魔術的象徴に、全て惑わされていたんだ!
……この魔方陣は、悪魔召喚の為に描かれたんじゃあ、ない。
謎の魔法を使った痕跡だとずっと思いこんでしまっていたけれど――もしも、あの朝に全校生徒にあの陣を見てもらうことが目的だったのなら、憶測にはなるけれど全ての説明がついてしまうんだ。
みんなが魔法陣を見つけて大騒ぎになった、発見された瞬間の朝に仕掛けが起動してしまったのなら、私はこの大胆不敵で恐れ多い儀式が実行されてしまった現場に、気づかぬうちに立ち会っていたことになるのだろう。
オカルト研究会も、それどころか慶水高校丸ごとがこの儀式にすでに巻き込まれているなんて。
――悪魔なんて最初からいなかった。
何にも召喚されやしなかった。むしろ、あれは産み出すためのトラップだった。
内円の縁にあった碇のペイントは、全体のフォルムでとらえるべきだった。碇ではなく、あれは内円を鈴にみたて、その割れ目を迂遠に表現していたのだ。
【DONOTYOUSEEME】は、もっと単純明快。donotを取っ払ってしまえばいい。あのmeは、魔法陣の擬人化ではないのだから。
儀式を続けるためのペンキではなく、あの朝に確実に人目にさらすために、雨で落ちてしまわないように選ばれただけの画材だ。チョークや水彩絵の具では、耐水性に不安だったというわけか。
肝心な鏡は、どこにあったんだ――と否定しようにも、落ち着いて考えてみれば鏡の代用品は堂々と存在感を放って君臨していた。……タライだ。あそこに溜められた水は、『水鏡』を模していた。
十字路ではなく、場所的に重要なのは、あの箇所が校門から桜並木を抜けて、校舎へ登校するためには必ず通らなくてはならない分岐点だったから。つまり、あの魔法陣と正門は一本道のラインで繋がれている。
羊肉は、悪魔召喚だと周囲をあざむく意図の他に、捧げものとしての意味も含んでいたはず。
甲骨文字は、書いてある内容自体を暗号化することもあるけれど、より象徴的にすることで潜在意識へのインパクトを狙ったんだろう。外国語より、慣れ親しんだ漢字を見せつけた方が日本人への影響は大きくなる。そして、あれはきっと。
校門からの一本道。赤い円陣に納められた鈴と文字。設置された水鏡。人形の五芒星。捧げられた生肉。
英文に暗示されたメッセージに、肺が絞められるような思いがした。
――お前は神を視認する
……この『学校』は、あの朝から『神社』に変えられてしまったのだから。
ひょっこり、ガラス扉から顔を出した希未は、彼を揶揄した。
「夕霧と鳥羽、目と目で通じ合ってたよね」
「止めろ。アイツにそっちの気があるように聞こえて吐きたくなる」
希未といい、夕霧君といい。どっちも酷すぎる。魔王陛下の顔に何があるって……?
私は、憮然とした面持ちで希未を睨んでいる彼に視線をやった。
コンディショナーを使っていないだろう、ぱさぱさの黒髪。会った時より少し前髪が伸びているから、そろそろ散髪に行くんだろうか。
シルバーフレームの眼鏡の下は不愉快そうに目が細められ、唇は荒れたままほったらかし。取り立てて美形ではないものの、見た目に頓着すれば印象も明るくなるんだろう。
いつも通りに別段変わったとこもない、魔王陛下の姿だ。
……ん、眼鏡?
シルバーフレームの眼鏡と、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
……なんだろう、この喉元で引っかかってる感覚は。微々たる虫の知らせに私が考え込んでると、夕霧君が呟いた。
「折角、遠野さんが調べてくれたのに。借りた人間の名前を聞く前に鳥羽はここを出て行ったんだ」
「見つかったの?」
私が訊ねると。夕霧君は頷き、答えた。
「柳原先生だった」
「……え?」
意外な人物に、驚愕すると、彼はがっかりしたような声で告げたのだ。
「今回知ったんだが、教職員は生徒よりも貸出数に融通がきくらしくてさ。
柳原は国語の担当教員だから、どうもその関係でまとめて借りていったらしい。……魔法陣の犯人捜しができるのも、ここまでだろうな」
……あ、
脳内に蘇ったのは、3日前の深夜に会った柳原先生のセリフだ。あの時、確かに先生は私にこう告げたではないか。
『――多分、この魔方陣、普通の悪魔召喚じゃないんだよなあ……』
そう、記憶から呼び起されたのは、どこか香ばしい煙草のスモークと、それを美味しそうに吸っていた雪男、柳原先生の零した言葉だった。
いい加減なところのある彼だけれど、日々、アヤカシながらに高校教師という仕事をちゃんとこなして働いているのは周知の事実。
先生の担当する授業を受けたことのある私は、その内容がマトモに進学校のカリキュラムをカバーしていることを十分に実感していたわけで。
国語教師の柳原政雪が、魔方陣に仕組まれた甲骨文字のことをとっくに感づいていたことにはどこか納得してしまった。あの人なら、全然不思議じゃない。
……だったら、どうして資料を総ざらい借りていってしまったんだろう?先生なら、そんなことをしなくても必要な本くらい分かりそうなのに。
これでは、学校側が焦って図書館から撤去した魔導書同様に、生徒の目からわざわざ遠ざけたかのような――。
意気消沈した夕霧君は、仮眠をとることを宣言して第二資料室へ向かって歩き出した。彼の心境を反映している猫背に、白波さんですら励ましの言葉が見つからない。
私は希未とそんな陛下に付き従いながら、食堂へと入っていき。螺旋階段をぐるりと上りながら、ダヴィンチにまつわる出来事を記憶から探っていく。
あれだけ焦った鳥羽君なんて見たことがなかったものだから、言い残された人物名が気になって仕方ない。
万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ――。モナリザや最後の晩餐、受胎告知、黄金比の人体図、工学アイディア、師ヴェロッキオ、メディチ家、フィレンツェ、人体解剖――もう時系列もごちゃごちゃになって考えていると。
第二資料室のドアノブを、夕霧君が左手で開けた。
「……ひだり、きき?」
私が、思わず呟くと、彼は胡乱な瞳をこちらに向けた。
「そこまで、珍しくもないだろ」
――レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿。
鳥羽君が、導き出したろう推理に辿りつき、私はこれまでの自分の思い違いを悟った。どうして、彼があんなに血相を変えて図書館を飛び出したのか分かってしまった。
……これが真相だとしたら、もう何もかも手遅れだ!
あの天狗を追いかけたい。あいつは、きっと瀬川のところに走ったのだ。明日になれば、もっと事態が悪化していくと気づいてしまったんだ。
落ち着け。
近くに一般人が残されている状態で、あいつのために理性を放り出してどうすんのよ!陰陽師のつとめを忘れて、目の前の人間よりもアヤカシ1体を優先させるなんて許されるわけがない。
このはやる心は、非常事態であればあるこそ抑えなくては……。
私は、深呼吸をしてから白波さんに訊ねた。きっと、今の笑顔はすごく不格好だろう。ギリギリの平常心で、立ち回らなくては。
「……ねえ、白波さんと鳥羽君のアドレス、今から教えて欲しいと云ったら迷惑かな?」
なんて皮肉なことだろう。4月の初め、進級してからずっと、白波さんが私とアドレス交換をしたそうにしていたのを、あえてスルーしていた弊害が今生じているなんて。
現在、この異常事態に自分の首を絞めているのは、計3回ほど、スマホを忘れたと健気な白波さんに言い張った嘘っぱちのせいである。
……もしかしなくても、そのせいか。彼女が私(過去のトラウマによって心を閉ざした、深い孤独を抱えていても素直になれない、いたいけで可哀想なクラスメイトの女の子……と思いこまれてるんだろう、きっとそーなんだろう)に慈愛に満ちた眼差しで妖精の微笑みを浮かべるようになったのは。
聖母の微笑みというには、風格が足りない女の子の白波さんは、案の定というべきか遅れに遅れたこの申し出にとっても嬉しそうな顔になった。
キラキラとした彼女に対し、私の相方である希未はそっぽを向いた。すまん、ごめん、ごめんってば。
 
「もちろん、いいよ」
にこっと満面の笑顔になった白波さんは、第二資料室でピンクの折りたたみ携帯を出した。
見間違いかと思ったが、根強い愛用者のおかげでショップの隅に追いやられながらも残っている旧世代通信機器の、あれだ。
つるつるした、パステルのボディーをしていて、中のボタンは塗装の銀箔が少し剥げている。ネタではなくこの携帯はかなり使い込まれているのだ。
今時の女子高生、しかもヒロインのポケットから出てくるとは思わなかったので、色々と緊迫感が吹っ飛びそうになった。
シリアスに鳥羽君の現在地を知りたいと思った矢先に、である。
困ったことに、小金持ちな兄さんが、私の高校入学祝いに贈ってくれた海外メーカーのスマートフォンには赤外線機能が搭載されていなかった。
「……白波さん、スマホじゃないの?」
私が、手入力の労に煤けてしまいながら聞いてみると。
「すごく丈夫なんだよ!」
と可愛く彼女はガッツポーズをした。ああ、これがルネサンスってやつ?
白波さんのメルアドは、短くキュートな代物だったのだが、鳥羽君のものはやたら長かった。迷惑メール対策なのだろうけれど、人力で打ち込むには嫌がらせのような長さだ。慣れない作業に手間取りながらどうにか登録し終えると、私のアドレスも白波さんに教えた。彼女は、カチカチカチ、と玄人の速さであっという間に携帯に入れてしまった。
「今度、メールしようね!」と白波さんに言われてようやく、彼女との付き合いが私生活にまで拡張されたことに気が付いた。泥沼に更に沈んでいく。
……いや、いや。そんな憂鬱な今後に思いをはせる前に、確かめるものがあるでしょう、自分。
みんな、特に興奮しそうな夕霧君にこれからの行動を見られるのはまずいと。
それとなく鞄から化粧ポーチを取り出して、部室を出た。人気のない場所を探して、螺旋階段の下に隠れる。
ひっそりとした影に潜みながら、化粧ポーチのジップを開けて小さな手鏡を取り出した。
スマートフォンのタッチパネルに指を滑らせて、1枚の画像データを表示させる。夕霧君のちゃんとした撮影に比べれば出来は良くないけれど、このピクセルでも簡易的な証明はできるはずだ。
そっと、発光する液晶と手鏡の角度を調整しながら魔法陣の写真を反射させていく。これぐらいか、と目途をつけて小さな鏡面をのぞき込む。
ちょっと分かりにくいけれど、そこに映った図案を見てしまった私は、嫌な予感が当たってしまったことを知ってしまう――きつく唇をかんだ。
――活発化した雑妖。
レッドライン。
円と五芒星。
碇のようなペイント。
一見には分かりにくい甲骨文字らしき紋様。
【DONOTYOUSEEME】。
水で満たされた大きなタライ。
タッパーに載せられた生肉。
今ではもう、起動し終えた魔法。
行方の分からない悪魔。
突拍子もない自論はもう確信していた。
レオナルド・ダ・ヴィンチのキーワードで鳥羽君が辿りついた思考に、きっと今私は立っている。
……知っている人は知っていることだけれど。左利きの人間が稀に書くことがあるという鏡文字を彼の偉人、レオナルド・ダ・ヴィンチは思索ノートやメモに多用していた。それは、暗号だという説や思想的背景があったのではという推測まで。現代人にミステリアスな好奇心を掻き立てさせられる。
そのエピソードから、この魔方陣は反転していると鳥羽君は気が付いたんだろう。あの違和感は、左右が逆さになっていたからで……甲骨文字だということを察するのに時間がかかってしまったのは、このせいだったんだ。
思えば、夕霧陛下の解説にだってヒントはあったじゃないか!
『後は、この星型が人間が大の字になったところに似ていることから、ヒューマンのシンボルにされることもあるし……、
この位置が正位置なのか逆向きなのかで意味が真逆に変化するんだ。正位置では、神の象徴に。逆さになると、悪魔の象徴になる。
向きによって表す意味が変わってくるというのは、タロットカードとやや類似する考えだな』
そう。
魔法陣と五芒星が魔法を使った痕跡だと。
タッパーの上に載った羊肉が悪魔への供物だと、赤色と十字路の魔術的象徴に、全て惑わされていたんだ!
……この魔方陣は、悪魔召喚の為に描かれたんじゃあ、ない。
謎の魔法を使った痕跡だとずっと思いこんでしまっていたけれど――もしも、あの朝に全校生徒にあの陣を見てもらうことが目的だったのなら、憶測にはなるけれど全ての説明がついてしまうんだ。
みんなが魔法陣を見つけて大騒ぎになった、発見された瞬間の朝に仕掛けが起動してしまったのなら、私はこの大胆不敵で恐れ多い儀式が実行されてしまった現場に、気づかぬうちに立ち会っていたことになるのだろう。
オカルト研究会も、それどころか慶水高校丸ごとがこの儀式にすでに巻き込まれているなんて。
――悪魔なんて最初からいなかった。
何にも召喚されやしなかった。むしろ、あれは産み出すためのトラップだった。
内円の縁にあった碇のペイントは、全体のフォルムでとらえるべきだった。碇ではなく、あれは内円を鈴にみたて、その割れ目を迂遠に表現していたのだ。
【DONOTYOUSEEME】は、もっと単純明快。donotを取っ払ってしまえばいい。あのmeは、魔法陣の擬人化ではないのだから。
儀式を続けるためのペンキではなく、あの朝に確実に人目にさらすために、雨で落ちてしまわないように選ばれただけの画材だ。チョークや水彩絵の具では、耐水性に不安だったというわけか。
肝心な鏡は、どこにあったんだ――と否定しようにも、落ち着いて考えてみれば鏡の代用品は堂々と存在感を放って君臨していた。……タライだ。あそこに溜められた水は、『水鏡』を模していた。
十字路ではなく、場所的に重要なのは、あの箇所が校門から桜並木を抜けて、校舎へ登校するためには必ず通らなくてはならない分岐点だったから。つまり、あの魔法陣と正門は一本道のラインで繋がれている。
羊肉は、悪魔召喚だと周囲をあざむく意図の他に、捧げものとしての意味も含んでいたはず。
甲骨文字は、書いてある内容自体を暗号化することもあるけれど、より象徴的にすることで潜在意識へのインパクトを狙ったんだろう。外国語より、慣れ親しんだ漢字を見せつけた方が日本人への影響は大きくなる。そして、あれはきっと。
校門からの一本道。赤い円陣に納められた鈴と文字。設置された水鏡。人形の五芒星。捧げられた生肉。
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