声の神に顔はいらない。

ファーストなサイコロ

99 深淵から這い出たような奴

 私がガクガク震えてると、社長さんが橘アリスに声をかける。

「アリス、君も匙川君の声を聞いて見るといい。きっといい勉強になるぞ。匙川君は今話題の一人で全部の役を演じてるあのアニメの声優だ」
「うわー、そうなんですか? あれってすっごい話題になってる奴じゃないですか! 本当に尊敬します!!」

 甲高い声を上げてキャピキャピしてる橘アリス。そんなキャピキャピしてるのに、私の胸を潰してる手の力は緩めないんだからこいつやばい。はっきり言って、浅野芽衣よりもやばい。

(あいつのほうがまだ可愛げがあったなんて……)

 そんなことを思うときが来るなんて思わなかった。浅野芽衣はなんだかんだ口は悪いが、手を出してくることない。それに嫌みをいうのは口だけだ。目は周囲を常に気にして可愛くあろうとしてる。それはきっと彼女なりの努力だったんだろう。

 けど……この橘アリスは違う。こいつは明確に私へと敵意を向けてる。しかもしたたかで、それを周囲には気付かせない。周囲に向ける目と……私へと向ける目が全く違う。いや、この目をさっき社長さんにも向けてたけどさ……だからこそ、その恐ろしさは浅野芽衣の非じゃない。

 こいつは損得で媚びを売る相手を変えてる訳じゃないって事だ。多分自分の中のルールがあって、それに抵触した奴全部が彼女にとっては敵。そこに地位なんて物は関係ない。浅野芽衣はあれで売れるために必死にやってる。浅ましいとか陰口たたかれたりもしてるだろう。でもそれだけ必死にやってる事には好感が持てる。追い抜いた奴らを全部見下して、上の奴らに媚び媚びしてるのは正直どうかと思うが……それが彼女の処世術なんだろう。

 でもこの橘アリスは敵意が浅野芽衣の非じゃない。殺されるんじゃないかと思うほどだ。リアルに身の危険を感じるというか……既に攻撃されてる。一体どれだけ人の胸を潰すのか……何? もぎり取る気なの? 普段から胸にコンプレックスでもあるのか……確かに橘アリスは胸はそうでもないが……男性は気遣いないだろうけど女の私にはわかる。

 橘アリスの服は普通に盛りあがってる。胸をちゃんと主張してる。けど、それはきっとパッドだ。勿論私だって大きくはない。普通である。けど多分橘アリスよりはあるだろう。だからそれをきっと橘アリスもわかってるんじゃないだろうか? なんという私怨……しかも社長さんは私の声を橘アリスに聞かせるという。怖い……

「いえ……あのえっと……なんだか調子が……」

 どうやって断ろうかと考えながら喋るんだけど、胸の痛さが……既に一回は録ってるんだし、もういいかなって期待を込める。すると橘アリスもそれに乗ってくれた。本当に私を今すぐにここから排除したいようだ。

「社長ー、彼女もう帰りたいそうですよ~」

 くっ、なんでそんな失礼な感じで言うのか……悪意しか感じない。そんなもう用済みですよね? みたいな感じでお別れはしたくない。なにせ大手事務所の方々だ。目をつけられるのはやばい。既に目をつけられてる気はするが、今の所は良い方にだと思うんだ。
 それなのに去り方が悪くて悪い方になっちゃうと、私だけじゃなく、私の事務所自体が不味い事態になりかねない。それは避けないといけない。一応中小だからってそれなりに声優はいるんだ。私のせいで彼女たちの夢まで潰す訳にはいかない。
 だいたい一回も喋ったこともない子達ばかりだけど……それでも一応仲間だ。キラキラした後輩達を私は死んだ魚の目で見てるかもしれないが、それでも一応同じ会社の仲間だとは思ってはいる。だから目標は無難にこちらの話を通してもらって失礼の無い内に去る――というのが一番だったんだけど……結構良い印象が強かったと思ったのに……それを反転させようとこの橘アリスはしてくる。

「あと、ちょっとだけで良いんだ! アリスも君は絶対に彼女の声を芝居を聞いとくべきだ!」
「ええーアニメなら見てますよ?」

 見てくれてるんだ。そこは意外だった。

「いや、生だ! 匙川君の声を生で聞くべきだ」

 なにかとても社長さんが熱く語ってる。てか、私達は田無さんが脚本家さんを捕まえるのを待ってる訳で、その脚本家さんに会うまでは帰れないんだけど……まあいっか。

「社長、そこまで……もう、ここまで言わせて帰るなんて言いませんよね? お願いします匙川さん!」
「ちょ!?」

 何やら私が帰るって聞かない子供みたいな事を言った感じにしないでくれる!? 本当にこの橘アリスは恐ろしい。なんかモヤモヤするが……私は再びマイクと……そしてモニターの向こうのキャラと向き合った。

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