『目を瞑れば、きっと。』

CASEKI

『目を瞑れば、きっと。』


 先の見えない、この永すぎる道を目前に私の足はもう一歩たりとも動くことを拒絶している。
振り向けばさっきまで在ったはずの見慣れた街並みは遠くかすみ、他人の振りをしているようだった。
 私は結局その場にしゃがみこんで頭を抱えるしか出来ずにいた。


 ふいにチクリとした痛みを感じ、そっと左手を開いて自分の掌を見つめた。
どこで引っかけたのか、小指の第二関節のところに小さな切り傷。今しがたできたものだろうか。
血小板が固めてしまった黒ずんだ血の塊が今にも落ちそうになりながらもかろうじて傷口に残っている。


 いつの間にか傷つき、気がつけば治りかけている。私は一歩も動けないでいるのに。
身体というものは、そうやって私の意思なんてお構いなしにどんどん進んでいくのだ。


 誰もいないその道の上、少しひんやりするアスファルトに直接腰を下ろすと立ち並ぶ木々の間に
少し上部の掛けた真っ白い月が見えた。じっと、独り途方に暮れる私を見ているように感じた。


「いつからそこにいたの?いつから見ていた?」


 なんとなく、声を出したくなった。自分の声を忘れてしまいそうになったからだ。
忘れてしまうと、それはいつか「忘れてしまったこと」すらも忘れて、永遠に失われてしまう気がする。




 きっと、それはどんな無よりも無だと思う。




「ねぇ、今ここには誰もいない。私が目を瞑って、自分というものを忘れてしまって、そのままずーっとそうしていたら」


 馬鹿バカしい。月に向かって話しかけていることも、質問の内容も、そして、今ここでこうしていることも。


「私は、いなかったことになるのかな」


 投げ出された両足の間に、ポツリとひとつ染み。アスファルトの色がそこだけ少し濃くなった。


雨?


 ちっとも哀しくないのに意外にも、私の左の頬には気がつかないうちに一筋、涙が流れていた。
左目は2年前に遭った交通事故で視力をほとんど失っているから、今の私には右の視力しかない。
 だから雨の日や夜になって光量が減ると、すっかり世界は滲んでしまう。


 見えていない左目から流れた涙は、一体私の何処から溢れてきたのだろう。
機能しないまま、誰にも気づかれることもなく存在を忘れられることを恐れているのだろうか。
 哀しんでいるのだろうか。


「ねぇ、私は知っているよ」
 自分の左目にだろうか、それとも月にだろうか。
私は小指にできた傷の付近を、もう一度強くつまんで新たに血を押し出した。


 黒ずんだ瘡蓋の下から、鮮やかな朱色の血。ぷっくりと、そこには小さなドットが浮かんだ。


「お前がそこにいること。私がここにいること」


 わからないなら、何度でも試せばいい。思い出せないなら何時間でも考えこめばいい。


「きっと、そう言ってほしいんだよね」


 クスッと笑うと、私は上半身も道に投げ出して仰向けになった。


 目を瞑っても世界は消えない。目を瞑っても私は消えない。そうでしょう?


「少し眠ろう」


 真っ白な月が、雲にさえぎられた。一瞬、本当の真っ暗闇が世界を支配する。


「まだまだ、この先の道は永いって誰かが言っていた」




 誰だったろう。きっと、この世界の『入口』で出逢った誰かだろう。




死んだら、何処にも行ったりしないのだと思っていた。
死んだら、私という意思も消えてしまうと思っていた。


死んだら、ただ全て闇に溶けて無くなってしまうだけ、
『個』を確立する意思なんてものは、結局のところは
肉体になみなみと満たされた液体のようなものだ、と。


『私』という人間はもうとっくの昔に此岸から消えている、死んでいる。


自らの手で、その命の糸を切った。


「死んでも痛いんだね、死んでも血って出るんだね」


 そっと、左目の瞼に左手を翳した。触れるか触れないかの距離、気配だけがそこにある。


「死んでも、この目は見えないんだね」


 私はどこへ向かっているのだろう。この道はどこへ続いているのだろう。
目を瞑っても、もう肉体のないはずの私は『私』をきっと覚えているだろう。


「少し眠ろう」


 ザリザリと後頭部に当たるアスファルトの感触に包まれたまま、私は更に深い所へ堕ちていく。
そんなイメェジに抱かれ、まだ少し痛む左手の小指と、まだ涙の後が乾ききっていない左目と、
ただ黙って真っ白に輝く月とが、今の世界のすべてだと信じた。


「おやすみ。そして、さようなら。また逢う日まで」


 そんなコトバを私の声は残して、『私』は静かに眠りにつく。


きっと、これから先 何度も。何度も。



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