『あと100回泣く覚悟ができない』
『あと100回泣く覚悟ができない』
   もうすっかりぬるくなったバスタブでひとり、アウトドア用に購入した小型の防水スピーカーからランダムに流れてくる曲を聴くともなしに聴いていた。
ワンルームマンションの狭いバスルームの、小さなバスタブ。そこであたしは組んだ両脚だけをぬっとバスタブから突き出し、向かい合った壁を蹴るような体勢のまま安定しているのだった。
その、取り立てて太くも細くもない凡庸な脚と、その表面を伝う幾つもの水滴が少しずつ重量に従ってバスタブの中へと流れ落ちて行く様をボンヤリと見ている。
目を瞑ると、鼻をつく安っぽいヒノキの香り。
入浴剤でほんのり色のついた、辛うじて人肌より少し温かいくらいのお湯が一糸まとわぬあたしの身体を包んでいる。
心許ないような、どこか安心するような。
両脚を投げ出したまま、上半身だけ顔が出るギリギリまで沈み込むと色付きの水面がグンと視界に近づいて来る。
あたしは、もう一度目を瞑った。
「涙には本当は色なんて無いのよね、でもあたし、初めて涙を意識した時に青くないのが不思議だなぁなんて思ったのよね」
  幼い時から絵を描く時、いつも青や水色のクレヨンで描かれた涙。それが自分の目からは無色透明の液体として流れ落ちる様を不思議に感じたなんて話を貴方とした時の事を思い出していた。
「でも君の涙は綺麗だから僕は好きだな」
なんて、貴方は笑った。
優しく緩やかに笑顔のカタチに歪むのに、
どこか冷たいあの瞳にあたしを映して。
  たぶん一生この人の隣で自分は生きていくんだろう、なんて当たり前のように信じていた頃の幼いあたし。
もう今は触れることの出来ない、節の目立つ細い指先や、車を運転する時の横顔、顎と首から鎖骨にかけてのライン。そんなものを思い出す。まだ、記憶は鮮明だ。
忘れてはいない。
それを確認するように反芻する。
薄い唇のカタチとか、少しザラザラした手のひらの感触とか、そんなものを。
一つ一つ、思い出す。
その度あたしのココロに小さな無数の傷がついてゆくのを知っていたけど、止めたりしなかった。できなかった。
  ほんの数時間前、バスタブに湯を張りながらあたしの涙腺はすっかり壊れたみたいに取り留めなく涙が流れていたけれど、今は不思議と何も湧いてこなかった。
数年をかけて乱雑にプレーヤーに追加され続けた、雑多なジャンルの曲たちには協調性などなく、プレイリストですらその時の思いつくままに作られたものだから、先程までノリノリのハードロックが流れていたのに今はアコーディオンとハスキーなボーカルのゆったりとしたテンポの曲が流れていた。
どんな音にも、どんな香りにも記憶が結びついてるから何がスイッチになるかわかったもんじゃない、なんて思う。
「あと、」
声を出してみる。
狭いバスルームにエコーする。スピーカーから流れる音と合わさる、音が交差する。自分の声じゃないみたいな、その声で言葉を続けた。
「あと、何度あたしは、泣くんだろう」
苦笑する、なんて情けない声。
「時とともに色褪せていくって分かってる貴方の全てを、必死に忘れないように反芻して、思い出して泣くんだろう」
バスタブの湯は少しずつ、熱を失っている。
蹴り上げられた脚からはあらかた水滴は流れ落ちて、落ち切っていて、乾燥すらしそうだった。
スピーカーからは甲高いボーカルの女の子が紡ぐ、恋の歌。明るい調子のメロディーなのに、よく聴くと失恋の悲しい詩だった。
なぁんだ、失恋だなんて世の中に溢れかえってる。よくある事よ、と。上半身をゆっくり水面から起こしながら泣き疲れた頭であたしは、まだ油断すると思い出そうとする”あたし”へ言い聞かす。
「まぁでも、もう出来ることなら泣きたくないわ」
貴方の後ろ姿を思い出そうとして、やめた。
あたしは、バスタブの栓を思いっきり引き抜いた。勢いよく色のついた水は渦を巻いて排水溝に吸い込まれていく。
付き合って間もなかった頃、あたしはまだまだ片思いで、いつも不安で不安で。貴方が、本当に好きで、好きで。
貴方の瞳があたしを映していないとしても、構わないと本気で思っていたし、本人にもそう伝えていた。カタチだけの『コイビト』でいれるだけで幸せだ、と。
もうこの先 一生こんな恋すること無いだろう、と。
「ねぇ、100回でも僕に恋できる?」
意地悪っぽい色を帯びた貴方の声があたしに尋ねた。最初のあの日、そして、最後のあの日も。
とてもとてもとても、好きだったひと。ずっと、隣にいたかったひと。
でもね。
「あたしには、」
バスタブは空っぽになっていた。
「まだ100回泣く覚悟は出来ないわ」
スピーカーからは、どこか切ない異国の言葉の歌が流れた。
「だからね、もうサヨナラなの。」
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'16.04.23  
カトキット  vo.あっけ さんの
ツイートからイメージして書きました。
ワンルームマンションの狭いバスルームの、小さなバスタブ。そこであたしは組んだ両脚だけをぬっとバスタブから突き出し、向かい合った壁を蹴るような体勢のまま安定しているのだった。
その、取り立てて太くも細くもない凡庸な脚と、その表面を伝う幾つもの水滴が少しずつ重量に従ってバスタブの中へと流れ落ちて行く様をボンヤリと見ている。
目を瞑ると、鼻をつく安っぽいヒノキの香り。
入浴剤でほんのり色のついた、辛うじて人肌より少し温かいくらいのお湯が一糸まとわぬあたしの身体を包んでいる。
心許ないような、どこか安心するような。
両脚を投げ出したまま、上半身だけ顔が出るギリギリまで沈み込むと色付きの水面がグンと視界に近づいて来る。
あたしは、もう一度目を瞑った。
「涙には本当は色なんて無いのよね、でもあたし、初めて涙を意識した時に青くないのが不思議だなぁなんて思ったのよね」
  幼い時から絵を描く時、いつも青や水色のクレヨンで描かれた涙。それが自分の目からは無色透明の液体として流れ落ちる様を不思議に感じたなんて話を貴方とした時の事を思い出していた。
「でも君の涙は綺麗だから僕は好きだな」
なんて、貴方は笑った。
優しく緩やかに笑顔のカタチに歪むのに、
どこか冷たいあの瞳にあたしを映して。
  たぶん一生この人の隣で自分は生きていくんだろう、なんて当たり前のように信じていた頃の幼いあたし。
もう今は触れることの出来ない、節の目立つ細い指先や、車を運転する時の横顔、顎と首から鎖骨にかけてのライン。そんなものを思い出す。まだ、記憶は鮮明だ。
忘れてはいない。
それを確認するように反芻する。
薄い唇のカタチとか、少しザラザラした手のひらの感触とか、そんなものを。
一つ一つ、思い出す。
その度あたしのココロに小さな無数の傷がついてゆくのを知っていたけど、止めたりしなかった。できなかった。
  ほんの数時間前、バスタブに湯を張りながらあたしの涙腺はすっかり壊れたみたいに取り留めなく涙が流れていたけれど、今は不思議と何も湧いてこなかった。
数年をかけて乱雑にプレーヤーに追加され続けた、雑多なジャンルの曲たちには協調性などなく、プレイリストですらその時の思いつくままに作られたものだから、先程までノリノリのハードロックが流れていたのに今はアコーディオンとハスキーなボーカルのゆったりとしたテンポの曲が流れていた。
どんな音にも、どんな香りにも記憶が結びついてるから何がスイッチになるかわかったもんじゃない、なんて思う。
「あと、」
声を出してみる。
狭いバスルームにエコーする。スピーカーから流れる音と合わさる、音が交差する。自分の声じゃないみたいな、その声で言葉を続けた。
「あと、何度あたしは、泣くんだろう」
苦笑する、なんて情けない声。
「時とともに色褪せていくって分かってる貴方の全てを、必死に忘れないように反芻して、思い出して泣くんだろう」
バスタブの湯は少しずつ、熱を失っている。
蹴り上げられた脚からはあらかた水滴は流れ落ちて、落ち切っていて、乾燥すらしそうだった。
スピーカーからは甲高いボーカルの女の子が紡ぐ、恋の歌。明るい調子のメロディーなのに、よく聴くと失恋の悲しい詩だった。
なぁんだ、失恋だなんて世の中に溢れかえってる。よくある事よ、と。上半身をゆっくり水面から起こしながら泣き疲れた頭であたしは、まだ油断すると思い出そうとする”あたし”へ言い聞かす。
「まぁでも、もう出来ることなら泣きたくないわ」
貴方の後ろ姿を思い出そうとして、やめた。
あたしは、バスタブの栓を思いっきり引き抜いた。勢いよく色のついた水は渦を巻いて排水溝に吸い込まれていく。
付き合って間もなかった頃、あたしはまだまだ片思いで、いつも不安で不安で。貴方が、本当に好きで、好きで。
貴方の瞳があたしを映していないとしても、構わないと本気で思っていたし、本人にもそう伝えていた。カタチだけの『コイビト』でいれるだけで幸せだ、と。
もうこの先 一生こんな恋すること無いだろう、と。
「ねぇ、100回でも僕に恋できる?」
意地悪っぽい色を帯びた貴方の声があたしに尋ねた。最初のあの日、そして、最後のあの日も。
とてもとてもとても、好きだったひと。ずっと、隣にいたかったひと。
でもね。
「あたしには、」
バスタブは空っぽになっていた。
「まだ100回泣く覚悟は出来ないわ」
スピーカーからは、どこか切ない異国の言葉の歌が流れた。
「だからね、もうサヨナラなの。」
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'16.04.23  
カトキット  vo.あっけ さんの
ツイートからイメージして書きました。
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