ダークフォビア  ~世界終焉奇譚

氷雨ユータ

 圧倒的暴力

 俺とアイツが出会ったのは、雲一つない快晴の日の事だった。

「お父さん!」

 俺の事をそんな風に呼んで慕ってくれたあの少女を、生涯忘れる事は無いだろう。俺にとって愛するべきはあの少女であり、他の者などどうでも良かった。人はこれを恋と呼ぶが、俺は偏に愛と叫ぶ。あの少女が居たお蔭で、俺は力を抑え込む事が出来た。真っ当な存在として過ごす事が出来た。当時の俺を知る者は今となってはミコト一人。古くからの幼馴染である彼女だけが、その時の俺がどれだけ幸せそうだったかを知っている。

 変わったのはいつの話だったか。そうだ、あの時だ。俺が腑抜けているとされ連れ戻されたあの日。そして少女と永遠に別れる事になったあの日。少女の涙を最後に、二度と女の子に涙を流させないと決意したあの日。あの約束がまともに果たされた事など無い。俺は殺人鬼として、女の子に限らず、あらゆるものを泣かせている。


―――果たして、本当にそうか?


 俺はたった一人、命を賭して救う事を決めたのではなかったか?

「パパ…………!」

 声が聞こえた。俺の事をそんな風に呼んで甘えてくる少女を、どうして忘れなければならないのか。俺にとって愛してやるべきはあの少女であり、他の者は関係なかった。人はこれを愛と呼ぶが、違いない。俺はその女の子の事を愛している。あの女の子のお蔭で、俺は男としての本能を腐らせたまま、『親』になり切る事が出来る。果たしてそれが幸せそうに見えたかはともかく、決して不幸な状態ではなかった。

 それすら変わったのは、いつの事だ?

 忘れる筈もない。奴隷王が彼女を人質に取ったのだ。あの女の子を守る為には従わざるを得ず、気が付けば何もかもどうでもよくなっていた。目の前の物を壊し、目の前の者を殺し、目の前のモノを無くしてしまえばいいという破壊衝動だけが俺を支えていた。

「パパ…………! 助けて…………!」

 それは幻聴と呼んでも差し支えない様な、あり得ない声だった。殺意のみを純粋な刃として一人の少女は世界最大の奴隷商人に立ち向かい、当の自分は戦いたくもない幼馴染と本気の殺し合いを繰り広げている。頭がどうにかなりそうだった。この状況を、脳内で説明する事が出来なかった。

「―――ッ!」

 一歩遅く立ち上がった俺を待ち受けていたのは、女性とは思えぬ鉄の拳。もといミコトの全力の拳だった。幼馴染だからこそ言えるが、もとよりミコトは武器の扱いよりも徒手に優れている。間合い的な意味でも蛇腹剣を使うには不向きだから殴ったのだろうが、威力が滅茶苦茶だ。頬骨が一瞬にして木っ端微塵に。俺が予め『  』を買い戻しておかなければ、このまま再起不能になっていた事は想像に難くない。

 距離が開くや、すかさず彼女の持った蛇腹剣が蠢き、俺の手足に絡みつかんと生き物の様にうねる。この手の武器は軌道が読みづらいが、使用者の手元の動きからそれに連なる動きを想定すれば回避は容易い。ミコトの振り回す速度の関係もあり、全てが間一髪の危うい回避だったが、どうにか数か所の擦過で済ませた俺は足元に転がっていた女の片足を掴み、ミコトめがけて力の限り殴りつけた。

 肉と骨の混じる粉砕音。女は欠けた歯を堕としながら、壁の端までぶっ飛んだ。その隙に俺が肉迫し、前蹴りのフェイントをかけてから腰を深く落として正拳突きを叩き込むも、彼女の身体に届くよりも早く蛇腹剣が俺の腕を縛り上げていた。分割して取り付けられた刃が肌に食い込み、流血を引き起こした。

―――本気の殺し合い。その開幕にしては中々地味であろう。

 しかし、本番はここからだ。刃が食い込む事も厭わず、下方向に剛力を掛ける。一秒と経たず蛇腹剣の由来であるしなやかな刀身は引き千切れたが、瞬き一つ挟む頃には修復されていた。彼女も『  』を行使している様だ。

 これでは埒が明かないのはお互い承知済みの筈だ。俺は背後に回り込むと同時に跳躍。彼女の首を両足で挟み込み、直ちにへし折ろうとするが、実際には首に足を掛けた瞬間に彼女の身体が倒れ込み、準備の出来ていなかった俺は後頭部を地面に叩き付けた。その隙に彼女は拘束から脱し、起き上がると同時に空中に放り投げてあった刀身を下に落とし、攻撃。俺の半身を縦に両断せんと打ち付けられた刃は、鍛えようのない表面上の皮膚に染み渡り、想像を絶する痛みが俺の痛覚を麻痺させる。背中の床を思い切り叩き付けると、その衝撃で俺の身体が持ち上がった。鞭が素早く返され、俺の身体に絡みつくが、その程度の事で怯む訳にもいかない。構わず俺が袖に仕込んであった飛び出しナイフを起動させると、硬質な金属音がそれを遮った。

 見ると、それは俺の所有している刀だった。途中から放棄したので、どうしてこんな所にあったのか分からないが、恐らくは―――転移させたのではないだろうか。彼女がそんな『  』を使えるとは寡聞にして存じ上げないのだが、今の今まで隠していたのだとするならば凄い努力だ。お蔭でこちらは見事に虚を突かれ、敗北する可能性が大いに高くなってしまった。俺に絡みついた蛇腹剣の剣先が、丁度俺の双眸を覆う形で最後に打ち付ける。痛みは感じなかったが、視界を不意に潰された事で俺の身体はあるか無しかの硬直に支配されていた。

 刹那。

 お返しの様に俺の鳩尾に掌底が叩き込まれる。それも只の掌底ではない。俺と同じで、飛び出しナイフの仕込まれた掌底だ。

 正確に心臓を打ち留められたものの、今はリアにさえ見せた事のない本気の殺し合いの最中。心臓を一度止められた程度で焦る事はない。胸に力を込めて刃を弾き出すと、命中する直前に自らその刃を掴み、逆手持ちのまま、力任せに切り裂いた。大振りの間にミコトは安全圏まで移動しており、攻撃は空ぶる。

「ハアッ!」

 手元に剣を召喚し、すかさず切り上げる。次から次に武器が切り替わって、間合いの測りも無力化しているというのに、ミコトの身体は絶妙な距離を正確に測り、切っ先一寸の所で当たらない。最初の命中していない滅多切りなど意味を為さぬ素振りと変わりはない。刃を直接握りしめて怪我をしているとはいえ、剣を用いての十連撃を、彼女は全く意に介していなかった。ならばと、今度は踏み込んで、一気に切り抜ける。

 それすらも躱され、俺の背中ががら空きになった瞬間、軸足を作って転回し、同時に背後を薙ぎ払った。とっさに回避行動を取ったミコトの袖が切り裂かれる。流血にもいかぬ浅い切り傷が刻まれていた。

「少しは目が覚めたかしら?」

 幼馴染からの問いに、俺は確固たる自信を持って頷いた。









 勝負は決着した様なものだった。敗因は偏に『刻創咒天』の時間切れであり、リアも危惧していた通り、それは今までのダメージを再現する。『闇衲』に負けず劣らずの剛力を搭載した奴隷王の攻撃を何度も受けてリアが無事で済む道理はない。彼女は最終攻防に敗北したのだ。制限時間内にマグナスを倒せなかったその時点で、敗北は決定していた様なものである。

「ちッ…………手間取らせてくれたなあ、クソガキが!」

 マグナスの身体は至る所が欠損しているが、それで不自由している様子はない。一方で痛みから動けなくなっていたリアは、なされるがまま、首を掴まれた。

「俺のカラクリに気付いた事は褒めてやるがなあ。破壊力が足りねえ。いいか? 破壊力っつうのは…………」

 マグナスがその膨大な筋肉を膨らませて、解放。爆発的な膂力がリアの頬を殴りつけ、その顔を粉砕した。ギリギリ生きている状態ではあるものの、少女の美しい顔の原型は、もう何処にもない。息遣いさえ、か細かった。

「こうするんだよ!」

 頬を砕かれた少女は、遂にまともな言葉も出さなくなっていた。そんな弱弱しい姿を見てマグナスは満足げに頷き―――更にもう一発。程なく少女の口から体内の物質が逆流し、足元に吐き付けられる。リアはその場に蹲ろうとしたが、マグナスは強引に彼女の左手を取り、足でその顔を吐瀉物に押し付けた。

「ほら謝れよ! 私は男の局部を満足させる事しか出来ない穴です、上でも下でも好きな方を使って下さい、お願いしますって! 謝れよ! 人に暴力を振るったらあ…………! 謝らなきゃいけないって教わんなかったのかあッ?」

 踏む。

 踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。

 繰り返していた。今までの鬱憤を、手間取らせてくれた苛立ちを発散する様に、何度も何度も何度も、敢えて加減した状態でマグナスはリアの頭を踏みつけていた。最早彼女が謝罪をするかどうかはどうでもいい。この少女を甚振る事にこそ、快楽を見出している。だからどんな発言をしたとしても、マグナスはこの少女を赦すつもりはなかった。壊して犯して壊して犯して。本当に使い物にならなくなるまで遊び続けるつもりだった。

「は…………は…………」

「ああん? この期に及んでフォビアの事を呼んでんのか? 無駄だよ無駄! アイツを手に入れる為に俺は完璧な洗脳をした。もう俺のモンだ。負け犬は……お前だったようだな?」

 髪を乱暴に掴み、顔を持ち上げる。少女は泣いていた。音もなく涙を流し、床下の吐瀉物に湿りを与えている。こちらが何を言おうと、彼女はうわごとのように『は…………は』と言っていた。この戦いが終わり次第、早急に商品として売り捌かないと、ゴミクズになってしまいそうだ。

 その時、マグナスの肩に手が置かれる。自分の戦いに没頭していて気付かなかったが、背後の戦闘音は止んでいた。振り返ると―――


「…………」


 相変わらずの無言。『闇衲』が立っており、その背後ではコウとあのよく分からない女が十字を描く様に転がっている。女は左胸を貫かれており、万が一にも生きている可能性は無かった。あれだけ少女が助けを求めていたくらいだ、もしかすると解けてしまったのかとも思ったが、そんな事は無いらしい。

「終わったんだな?」

 男が頷いた。まさか『熾天使』を失う事になるとは思わなかったが、これも彼を手に入れる為の代償と思えば安いものだ。死体となりゴミクズ同然になったコウを一度見据えると、それきりマグナスは興味を失くし、その場に伏している少女の顔を持ち上げた。

「こっちも終わったぜ? 何やらてめえの娘を自称する奴もいたが……御覧の有様だ。こんな醜い奴がお前の娘? あり得ないだろ? ま、それでも頑張ったんだ。フォビア、命令してやる。このガキを犯せ。てめえの欲望を解放してみせろ!」

 果たしてそれが本当に優しさだったのかどうかは、議論の余地がある。奴隷王と呼ばれた存在からの、文字通り冥土の土産だったのかもしれないし、或いは常識的な考え通り単なる嫌がらせか。実際、リアにしてみれば彼女の依存具合と来たら肉体関係を結んでまで『闇衲』を手放したくない思いがあったので、知る由もない事だが、一概にそれが嫌がらせとは言えなかった。

 ただし、それは飽くまで当人から見た話。また別の視点からは、違った真実が見えてくる。

「…………リアが、泣いてる」

「……は?」

「誰だよ…………こいつを泣かせたのは」

 フォビアの視線が、ゆっくりとマグナスに動いた。









「お前か!」









 瞬息にも満たない速度で振るわれた拳を、誰が避けられるというのか。機械的な速度で回避を可能とするマグナスですら、それを完璧に避ける事は不可能だった、頬が擦過し剥落する。生身の部分であったが、その攻撃の威力は実感していた。

―――洗脳が、解けてやがるッ!

 ならばまた掛け直すだけ。言うは易し行うは難しとはその通りだ。回避したと思いきや、既に重い一撃が顎を叩き上げていた。粉砕と共に、マグナスの巨体が持ち上がる。

「お前か!」

 鳩尾に一撃。壁の端に叩き付けられると、皮によって衝撃が緩和されているにも拘らず罅が入り、続く三連撃で完全に崩壊。二人は共に下の階層へ落下。それまでにマグナスの顔は、『闇衲』の掌にがっしりと掴まれていた。

 彼女は着地と共に叩き付けられた。受け身の考慮されていないそれは『闇衲』にとっても負担の大きい行為ではあったが、彼が怯む様子はない。床に罅が入り、壁にも罅が入り、周囲に粉塵がまき散らされる。このままでは頭が押し潰されると思い『闇衲』の股間をどうにか蹴り上げようとするが、それよりも優先されているのは脳への痛みだった。お蔭で、上手く他の部位が制御出来ない。

「俺の娘を…………泣かせたのは!」

 顔と共に身体が持ち上がる。すかさず腕を握り潰さんと関節を握り込むが、おかまいなしに今度は『闇衲』を境に反対側の床に。骨の壊れる音が耳元で木霊する。

「お前か!」

 それだけに収まらず、『闇衲』は地面に押し付けたままのマグナスを引き摺り回し始めた。途中からは側頭部が削れて血の道が形成される様になった。生身の部位には攻撃の通用しない筈の奴隷王も、今度ばかりは苦悶を声に、塵塗れの絶叫を上げた。

「があああああああああああああああ!」

 ようやく止まったと思ったのも束の間、持ち上がった顔面は意趣返しの如く拳によって叩き潰された。何度も、何度も、何度も。不意に腕を掴むと、『闇衲』は躊躇なくその腕を出鱈目な方向にへし折り、引き千切った。断面から歯車が零れるのも気にした様子はなく、彼はあろうことかその断面に手を突っ込み、内部の部品を引っこ抜き始めた。

「俺の可愛い娘を…………あんなひどい姿にしたのは!」

 こんな姿は見た事がないと奴隷王は言うだろう。当然だ。彼に感情的な面があるとは誰にも予想がつかなかった。長い付き合いをもつミコト以外は、誰も。リアでさえも、まさかここまで『闇衲』が激情するとは思わないだろう。彼には彼なりに心境の変化がある。それを汲み取れなければ―――俗にいえば、真相を知っていなければ、彼がどうしてここまで感情的になっているのか、分からない。分かる筈がない。

「何度! 何度何度! 俺から何度娘を奪えばお前達は…………お前達は満足するんだ! 餓えるまで奪う気か! 俺から、全てを! 腐り果てても、まだ奪うのか!」

 内側に手を突っ込んだまま、『闇衲』は壁へ向けて突進。衝突の直前に手を突き出すと、壁の強度を優に上回る破壊力が一秒の抵抗も許さず粉砕。丁度その壁は、外に接している壁だった。『闇衲』が再び身を投げて、床を利用しての攻撃を試みんとするが、それを赦すマグナスではない。何としてでも動きを止めなければならないと本能が悟ったか、彼の心臓に向けて貫手を放ち、あれ程欲しがっていた彼の生命を止めてしまったのだ。

 これでようやく猛攻が終わる。果たしてその甘い考えは、ある筈の感覚が無い事からマグナスも理解した。それは十分に素早い理解だったが、激情に身を動かしている『闇衲』の身体能力の前では、止まっているに等しい遅さだった。

 二度目の地面に叩き付けられ、遂にマグナスの頭部が破裂する。それでも『闇衲』は首の断面を掴み、何度も何度もその胴体を城に打ち付け始めた。

「大切なものを! 愛しいものを! どうして、どうして俺から奪うんだ! 俺が満たされては駄目なのか! 俺が幸せになるのは駄目なのか! 貴様らはどうして勝手な都合で俺の幸せを……返せ! 返せええええええええええええ!」

 矛先がマグナスに向けられていないのは、この叫びを聞いている全員が知っている事だ。ただ、それでも彼女は怒らせてしまった。あらゆるものを奪い去られて、腐ってしまった彼が唯一愛している『娘』―――リアに、手を出してしまった。

 それをした時点で、マグナスにはこの不運を嘆く権利は与えられていない。理解する権利も与えられていない。

 何度も出鱈目に叩き付けられた事で城壁が崩壊。内部が剥き出しになり、偶然にも生き残っていた兵士は、目の前の光景を見て言葉を失っていた。彼の眼中に入っていないのが幸いである。入っていれば、この兵士もまた耐えかねる様な激痛を味わわされていたに違いない。

「俺が何をした! 俺が何でこんな目に遭うんだ! 俺は…………ただ、娘を返して欲しいだけなのに! アイツの笑顔を見ていたいだけなのに!」

 急に打ち付けるのをやめたと思いきや、今度は胴体に爪を立てて、力任せに肉を剥ぎ取り出した。ここまで来ると技術も糞も無い。力を超えた先にある力―――暴力だった。彼の一挙手一投足の何処にも、殺人鬼の片鱗が垣間見えるものはない。只、彼は己の中に秘められし感情を、無差別に解き放っているだけである。腐っていた事で停滞していた憎悪が、悲哀が、再び再開されてしまったのだ。

「リアだけは……リアだけは、守りたいと思って…………あああああああああああ! 死ね、死ね! 一分一秒でも早く死に腐れ!」

 まるで綴じられた紙を剥がす様に。

 まるで山積みになった物の中からとある一つを見つけ出すかの様に。

 『闇衲』の手は乱暴にマグナスの胴体を掻き漁り、その度に投げ捨てる。生身と人形の身体を利用しての耐久力も、全てを壊す暴力の前では成す術もない。彼の触れている胴体らしきものがかつては奴隷王と呼ばれていた女性のものであると誰が信じるだろう。

「何もかも…………壊れろ。気に入らない。壊せ。死ね。崩れろ。滅びろ。滅してやる!」












「どう思う?」

「あー…………そうですね。俺では無理だと思いますよ、正味な話」

「―――」

「ミコトさん。少しやりすぎたんじゃないんですか? わざと『闇衲』さんに―――リアが甚振られる瞬間を見せるなんて」

 金色の瞳が、ほんの僅かに怒りを孕んだ。   



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