ダークフォビア  ~世界終焉奇譚

氷雨ユータ

熾天使の力

 少年一人分の顔を埋められる程、リアの発育は著しくなかった。それが出来るとすれば恐らくシルビアくらいであり、彼女の発育であればギリギリそれが出来ると思われる。リアでは無理だ。しかし、それは飽くまで胸の谷間を使って顔を挟むという巨乳にのみ許された行為の話であり、胸そのものに突っ込まれたら話は別である。

 ふにゅん。

 形の良い感触がギリークの頬に滲む。その気持ち良さが溜まらなく好ましく、がら空きの胸に手が伸びそうになったが、彼の本能がそれを拒絶。少女の言う通りに離れた。それは好きな女の子に対しては真摯に対応したいという性別を超越した清潔な判断ではなく、殺されたくないという生存本能だった。女の子らしく恥ずかしがっているとはいえ、彼女は青筋を浮かべている。双眸から放たれる殺意は、かつて殺し合った時の比では無かった。あの時、胸に手を伸ばして揉みしだいていたら、確実に死んでいた。死んでいなくとも二人の顰蹙を買っていただろう事は想像に難くなく、誰が何と言おうとその判断は正しいものだった。

「ご、ごごごごご、ごめん! ごめんなさい! わざとじゃないんだ! わざとじゃ…………!」

「……ふーん。じゃあ、どうして急に走ったのか聞かせてもらえる?」

「え?」

「途中からおかしいと思ってたの。ねえ、わざとじゃなくて何か理由があったんなら聞かせてくれる? 嘘吐いたら…………殺すから」

 嘘を吐いたら殺すと言われて嘘を吐く人間が何処に居よう。しかしそれをしなければならない時もある。今が正にその時だ。自分がどうしてあんな事を考えたのか、今となっては分からない。けれど正直に『リアを犯したかった』なんて言ったら、それこそ殺される。犯したいと言って喜ぶ女子なんて痴女か娼婦かどちらかだ。自分が惚れた彼女はもっと純粋で、無垢なので、喜ぶなんて事は万が一あり得ない。

「え、えっと…………その」

「何。わざとじゃないんでしょ。ほら早く。後五秒。四、三、二、一」

「待って……リア。ギリークは悪くないよ?」


「「え?」」


 いよいよ退く所も無くなり、全力土下座で何とか許してもらおうと思っていた少年を助けたのは、意外にもついさっき到着したばかりの、第三者と思われていたイジナだった。まさかの方向から割って入られて、リアも多少面食らう。

「どうしてそう思うの?」

「そうだよ。どう見たって俺は故意……じゃないけどな、実際!」

 人知れずギリークは自らの死を回避した。せっかく差し伸べてくれた手を、わざわざ振り払う事は無い。イジナは息を整えてから、また話し出した。

「今、街がおかしな事になってる」

「街が? どういう事?」

「……私にも、分からない。けど、おかしいの。皆、自分の意思が無くなったみたいに動き出して……私達を探してるみたい。男の人は、女の人を見つけ次第、襲い掛かってる」

「は? 意味が分からないんだけど」

 リアは眉を顰めたが、イジナも同じ気持ちと言わんばかりに肩をすくめて、事態は渾沌の様相を呈した。街中に催眠術が掛けられたと解釈するのが一番自然だが、それだと自分達が掛からなかった理由が付かない。催眠術への対処法をしていた訳でもないので、自分が掛からないのは道理が通らない。

―――もしかして。

 リアは自身の薬指に嵌められた唐草模様の指輪に視線を落とす。まさかとは思うが、この指輪が催眠術を防いだとでも言うのか。イジナも全く同一の型を持っているから、自分達が掛からなかった理由にはなるが。

 元々は『闇衲』の所有物だった関係上、あり得ないとは言い切れないのが辛い所だ。彼は不思議な力を持つカードを持っているし、指輪の一つが不思議な力を秘めていても違和感はない。というか、この指輪自体が不思議な力を持っていると仮定しなければ、それ以外にどうやっても説明がつけられない。

 そう考えると、イジナが彼を庇った理由も納得がいく。彼は指輪をつけていなかったから催眠術にかかり、リアに襲い掛かった。そうと考えれば、ギリークは己の意思で一連の行動をやったが、そこに彼の意思はなく、わざとではなかったと考えられる。

「……ギリー」

「な、何だ?」

 リアはぺこりと頭を下げた。

「―――ごめんなさい」

 間違っていた訳ではない。催眠術にかかったとはいえ、ギリークは自分の意思で彼女を襲おうとしたのだから。けれども、リアはそれを己の間違いとした。彼女が何よりも嫌うのは自由意思による邪な感情。どんな手段であれ不本意な状態で生まれた邪な感情に、一々文句をつける気は無い。彼だって、されたくてされた訳ではないのだ。

「お、おう」

 それに対し、ギリークもそう返す事しか出来なかった。彼にしてみれば、どんな状態であれ自分の意思でそれを行った事になるのだから、申し訳なさを感じるのは当然の事だった。彼女に謝られた手前、自分も謝ると話がややこしくなるが、ギリークは彼女に全力で土下座をしたい気分だった。それでも謝らなかったのは、彼女の心の中から、

『謝らなくていい。許さなきゃいけなくなるから』 

 という言葉が聞こえたからに他ならない。これから先、この街で起きる事態がどう収束しても、自分は、暫くリアには頭が上がらないのだろう。

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