ダークフォビア  ~世界終焉奇譚

氷雨ユータ

いつしか腐ったヘイワナセカイ

 校舎の中に足を踏み入れた瞬間、その気配が一層濃密になった。一歩歩くごとにきつくなっていくその臭いを、リアは最初から確信していた。リアが何よりも嫌い、平和な世界に生まれた筈の精神を歪ませた原因の一旦。その白い液体は、未来永劫リアの中に嫌な記憶として刻み込まれるだろう。

 即ち、精液。校門の時点で感じていた臭いは遂に決定的となった。少量であれば殺意を増幅するに留まるが、ここまで強烈だと足が竦んでしまう。そのせいでかつて、自分はシュタイン・クロイツとやらに捕まってしまったのだが、今回は事情が違う。自分を守ってくれる人間は居らず、足が竦んで後ろに倒れても、それを抱き留めてくれる人物はここには居ない。ここで倒れる事は死を意味する。その想いがリアの背中に殺意の壁を作り、彼女の足が竦むのを支えた。

―――パパにこんな処見られちゃったら、きっと笑われちゃう。

 彼に保護され続ける人生も、それはそれで悪くない。けどリアの思う理想とは、彼と対等になる事だ。彼と対等に人を殺し、彼と対等に歩く事だ。対等の状態で甘えたい。対等の状態で愛したい。それが自分の理想。彼に情けないと思われる様な行動は控えたかった。

「随分と臭いのきつい場所だな。来たくないのなら別にいいんだぞ? 足手まといが来ても無意味だ」

 リアの目の前には、『闇衲』が立っていた。勿論幻だから、イジナには見えていない。けれど幻とはいえ『闇衲』は『闇衲』。彼と日々を過ごしたリアには、正確な彼の幻像を作る事が出来た。今から見える幻像は、本物がここに居ても全く同じ反応をすると思ってくれても良いだろう。隣の少女に違和感を持たれても嫌なので会話はしないが、幻像である『闇衲』はそんな事を気にしない。

「……リア?」

「だ、大丈夫よ。行きましょうか」

 一歩踏み出すごとに精液の臭いがきつくなるなどどんな学校だ。その度にリアの足は竦むが、背後に『闇衲』が居ると思い込む事でどうにか平静を保てている。それもこれも、アルラデウスが彼の外套を持っていてくれたお蔭である。彼の強烈な臭いで嗅覚を支配すれば、精液の臭いが打ち消される。その臭いのお陰で、正確な幻像を作り出す事に成功している。この外套が命綱だ。

「近いのはDクラスだが、何だが騒がしいな。ここはいつもこんな感じなのか?」

 違う。あまりCとDには接点がないが、ここまで騒がしかったかと言われると疑問である。確実に言えるとすれば、どんなに騒がしかったとしても、腰を打ち付ける様な音と女子生徒の喘ぎ声と思わしき嬌声は聞こえていなかった。教室内がどんな事になっているかは想像に難くないが、一応確認はすべきだと思う。百聞は一見に如かず、とは意味がまた違うが。もしかしたら勘違いかもしれない。イジナと顔を見合わせてから、リアは教室の窓から内部を覗き込んだ。

 果たして最悪は、顕現していた。

 スカートが何の為にあるか。その詳しい理由をリアは知らないが、少なくとも性行為上の性癖を刺激する為の物体でない事は分かった。スカートを捲りあげた所を、男子生徒が盛んな獣みたいに腰を打ち付けて、その手を女子生徒の上半身へ。奇跡的な角度から、物自体を見ている訳ではないが、何をしているかは全ての生徒が等しく制服を開けさせている時点で理解した。

「気持ち悪い…………」

「ああ全くだ。しかし、子供教会はもっと酷かったんだろ?」

 程度の問題ではない。複数の男女が入り乱れてまぐわっている事が気持ち悪いと言っているのだ。愛も無く、恋も無く。ただ快楽のみを貪る為にまぐわるなんて、それは人間のする事とは思えない。これではまるで雄と雌、只の獣だ。同じ人間とは思えなかった。これ以上眺めてても気分が悪いだけだ、リアは直ちに目を逸らし、次の教室へと向かう。これだけ激しくまぐわっているのなら、多少足音を立てても誰かが気付くという事は無かった。

「イジナ。どうしてこんな事になったの?」

「フィー先生の後に来た人が、女性は子供を産む為の機械だから、男性の言う事は何でも聞くべきって。それに反発した人は…………」

 イジナが少し足を速めて、Cクラスの窓を指さした。先程とはうって変わって中からは物音一つしない……いや、違う。まただ。また聞き覚えのある音がする。けれどもそれは嫌悪する音ではなく、どちらかと言うと好ましい音だった。教室の扉を開けると、内部に広がっていたのは地獄の楽園。鮮血織りなす死体の饗宴だった。

 教室を照らすシャンデリアの上に吊るされた男子生徒は、その両腕を剣で貫通して一纏めにされた状態で吊るされている。時限式に音を立てたいのか、両肩の部分が千切れやすい様に脇の部分から肩の外周にかけて深い切り込みが入っている。それも吊るされてから中々の時間が経ったせいで、内部の肉が剥き出しになった状態だ。足を掴んで引っ張ってみると、筋肉の千切れる音と共に亡骸が落ちてきた。顔を覗き込んでみると、何かに恐慌した様な顔付きのまま事切れている事が分かった。死因は…………喉を切り開かれた事が原因だろうか。

 隣の女子生徒は、胸と膣の部分が随分丁寧に切り裂かれている。死体を穢している白い液体は言うまでもない。死因は首を絞められた事による窒息死か。顔面が腫れていて鬱血が見られる。大方強姦されながら首を絞められて死んだとかその辺りだろう。

 その他にも、机の脚によってあらゆる関節を逆方向に捻じ曲げられた生徒が居たり、インクで描かれている呪術じみた魔法陣の上で、上半身を三回に折り畳まれていたりと、『闇衲』が見たら感心してしまいそうな死体である。先程の好ましい音の正体は、天井に突き刺さった机の角に吊るされた女子生徒の死体だった。あまり容姿が優れているとは言い難い。だから普通に殺されたのだろうか。

 この空間ばかりは好ましく、いつまで居ても構わなかったが、今はイジナに協力しているので、彼女が動けばそれに合わせなくてはならない。振り返って彼女の表情を窺うと、少しだけ気分を悪そうにしていた。

「あ、ごめん。そろそろいこっか」

「……いい」

 Dクラスの方は、まだ盛っているらしかった。廊下に出た二人は、続いてリアの所属クラスであるBクラスへと向かう。

「そう言えば、ギリーは何処に居るの?」

「王城」

「え?」

「王城」

 二度瞬きをしてから、リアは首を傾げる。

「王城って、王様が居る所? そこにギリーが居るんなら、どうしてここに来たの?」

「……フィー先生が最後に教えてくれたの。ギリーが監禁されてる場所、新しく来た校長先生が持ってるらしいから。今、こうやって探してる」

 そういう事だったか。しかしCクラスをあれだけ美しく殺せるのだから、生半可な実力でない事は確かである。一体どんな人物が彼の代わりに来たのだろうと想像すると、何だか背中の辺りに嫌な汗を掻いてきた。

 Bクラスの扉を開けると、今度は空っぽだった。生徒達が揃ってまぐわっている事も無いし、クラス分の死体を一度に見る訳でもない。安堵する反面、クラスメイトの死に顔が見られなくて少し残念な気持ちになった。生来は気持ち悪くても、死に顔が美しい人間というものはきっと居る筈なのに。しかし空っぽと言っても実に不自然で、生徒のノートはおろか、誰のものかも分からない毛髪すら見つからない。ここまで何も無い事に徹底されると、誰かが掃除をしたと言っているようなものである。ここが空っぽなのは、他のクラスから見ても意図的に行われているとしか考えられない。特に気になる痕跡は見つけられなかったので、そろそろAクラスに移動するとしよう。

 イジナに目配せをしつつ、リアが廊下へ飛び出そうとした瞬間。「行くな」と彼の幻影が手を掴んだ。

 それと同時に聞こえたのは、何者かがDクラスの扉を開けた音。二人は揃って扉に耳を当てた。

「そうそう。やはり女っつーのは雌の快感を知らなきゃ意味がねえ。男共、きっちりやれよ! てめえらの子種を受け取る為に、女は居んだからよ!」

 あちらで盛っている声は、二つ教室を離れても十分喧しかったが、それ以上に何者かの声が大きかった。よく通る声と言うか、どんな喧騒の中でも、その者の声は明確に聞き取れる自信があった。声の高さ的には女の声である。硝子の様に透き通った声はかなりの特徴だから、別の場所で聞く機会があれば直ぐに思い出せるだろう。

 二人は顔を見合わせる。

「今のが、フィー先生の代わり?」

「うん。でも仮面を被ってたから、顔は。ちょっと」

「いいや、あの声は十分手掛かりよ。一週間経ったって思い出せる自信があるわ」

「でも、どうする。真正面から突っ込んでも、あっちの実力は未知数。挑むのは、無謀」

 一方的な蹂躙は大好きだが、蹂躙されるのは大嫌いだ。訳の分からないものに突っ込むなんて愚の骨頂。人々が正体不明の者を相手に一度その存在を認識したくなるのは、訳の分からない事を恐れているからである。『闇衲』が恐れられていた理由は正体不明故。それもその筈、正体が分からない者には対策のしようがない。どんな困難にも団結して立ち向かう事は人類の特性かもしれないが、立ち向かうにしても真正面から無策で突っ込むのは馬鹿のする事だ。人には知恵がある。正体さえ分かれば、その知恵を活かして対策を練る事が出来る。それこそ人類の底力。正体不明を正体不明のままにして立ち向かおうなんてのは、底力を使わない事に……一種の手加減に他ならない。

 実力が同等の二人が戦って、片方が手加減をした場合、勝つのはどちらか。イジナの言う事はもっともだった。

「上級生のクラスを見に行っても、恐らく同じ状況でしょうね。発育が進んでる分、もっと酷い事になってるかも」

「不意を突けば…………何とかなるかもしれないけど。学校、熟知してる。ここで不意を突くのは難しい」

「クラスに隔離されてる生徒を呼ばれたらどうしようもないし、前提として確実に不意打ちを出来る事が重要となりそうね……χクラスの存在は知っているの?」

「多分、知らない」

「そう。じゃあ今自由に動けるのは私達だけって事ね。でも校内を歩き回ると、気まぐれに外に出た生徒なんかに見つかる可能性が……そうだ、先生は―――ああ。駄目そうね」

 ライデンベルが動けるのならば確実に何らかの行動を起こしているだろうが、それを目撃していないという事は、何らかの事情で教師陣も動けていないという事だ。大人に頼る案は駄目そうである。

「……仕方ない。この案で行きましょうか。これだったら多分、鍵を奪うくらいだったら出来ると思う」

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