ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

否定された英雄

 それはアルドという人間と対峙する際、絶対に言ってはいけない言葉の一つかもしれなかった。彼は英雄という概念に生かされ、これまでの刻を生きてきた。彼にとって英雄とは自分自身を保つ際に必要な杖の事であり、どれ程の死……疲労を重ねても生きてこられたのは、その杖があまりにも強靭だったから。ともすれば、彼自身が杖となっていたから。当初は本体を支えていた杖が、いつの間にか本体となっていたから、今日までアルドは空っぽの肉体を維持してこれたのである。執行者との戦いで生き残る事が出来たのは、その性質が更に悪化してしまったからと言っても過言ではない。
 悪化、とは言ったが、何も悪い話ばかりではない。杖が本体になっているのならば当初は本体だった筈の肉体をどれだけ痛めつけても倒れる事は無いのだ。執行者との戦いにおいて何よりも勝利に貢献したのは彼のお陰である事は覆しようがないが、その力を担った……言うなれば後を託された自分が勝利出来たのは、前述の通り、この性質が悪化したからである。
 今となっては霞がかった風にしか思い出せないあの日の記憶。アルドが英雄を志し、英雄になる為に努力を始めた日。あの時は…………このような感じでは無かった。妹を守る為、そして周りを見返す為に目指していた……筈だ。しかしいつからか救う事はアルドにとって日常化し、義務化し、やがてアルド自身となった。心の中で憧れとなっていたものはやがて同化して、彼の身体を守る鎧になっていた。生まれた頃から魔力が引き出せず、落ちこぼれと呼ばれ、碌に学校にも通えず過ごしていた彼を唯一包み込んでくれたそれは、彼にとってある種母親とも言える存在になっており、それを失くしたアルドはアルドでは無かった。
 ナイツを救ったアルドにしても。
 妹を守ったアルドにしても。
 弟子達を救ったアルドにしても。
 魔人の王となったアルドにしても。
 そこに『アルド・クウィンツ』は居ない。居るのは英雄『アルド』だけだ。学も無く、才も無く、容姿端麗でも無ければ明朗快活とも言えない男は何処にもいない。いつもいつもいつもいつもいつもいつも、そこに立っているのは英雄だけだった。
 確かに、その英雄こそが自分である事には違いない。今『狐』の目の前に居て、そしてドロシアの傍らに居る男に違いない。
 違いないが……先程も言った通り、アルドにとって英雄とは自分自身を支える杖だ。それを取り外すかのような発言が目の前でされればどうなるか。
「…………………………」
 アルドが口を開く事は無かった。重く絡みつく様で、それでいて全身を切り裂くような鋭い視線を、クルナに向けている。彼女の方も言いたい事を言って満足したのか、身じろぎ一つしない。
「…………先、生?」
 ドロシア以外、分かっていた。発言者のクルナは当然として、当事者であるアルドすらも分かっていた。執行者がこの世界に来た時点で、英雄の肩書を持っていても、アルドは真の英雄ではない。有り体に言えば、正義の味方では無かった。 
 あの状況だからこそ執行者が悪に見えたかもしれないが、元来、執行者とは絶対正義の象徴。言うなればどんな事があってもぶれない正義の味方だ。そんな執行者が自分を敵と見定め襲い掛かってきた時点で、アルド・クウィンツが正義の味方ではなく、悪そのものである事は証明されている。それは彼の記憶を通じてあの戦争の真実を知っている以上、当人でも否定しようがない事実だ。あの戦いを経てから、アルドも心の中でそれを自覚していた。けれども認めたくは無かった。
 それを認めるという事は、英雄という名の鎧を捨てるという事。今までそれだけに支えられてきたアルドが……魔王となって英雄を捨てたつもりだったのに、それでもアルドの身体に染みついていた価値観は…………捨てられる筈もなかった。
 長い沈黙が続く。ドロシアもアルドの心情を察して、それ以上口を開く事は無かった。そんな沈黙が破られるまでに三十分。泥の様に重くのしかかっていた空気がようやく破られた。
「…………そうだな」
 その人物とは、他でもないアルド自身。過去の罪を懺悔する様に、話を続ける。
「私は矛盾し続けていた。英雄でありながら英雄ではなく、死にながらに生き永らえて、人でありながら魔人の味方をして……人であらずんば、英雄に非ず。確かに、私は英雄とは言えないのだろうな。魔王でもないのだろうな」
「……随分、素直やの」
「素直にならざるを得ないだけだ。色々あったんだよ、ここを離れてからな。私を作るきっかけとなったあの戦争の原因が私と知り、私は自分でも気づかない内に色々と見失っていた。何の味方をすればいい、自分が守るべきものは何だ? 幸い、今はそれをナイツが担ってくれている。私の生きる意味になってくれている。けれど、この矛盾は終わらないし、私がやめる事もない。もう戻れないんだよ、私は。英雄であろうがそうでなかろうが、魔王であろうがそうでなかろうが、人であろうがそうでなかろうが。ナイツには私しかいない。魔人の悲願とやらは私が果たさなければならない。何をどう言い繕うと、私はやらなければならないんだよ。この生き方が間違っていたとしても、この生き方をしなければ、私は誰も救えなかった!」
「何を言っても無駄…と?」
「こんな生き方をしなければ、私はこのジバルの民に愛される男にはならなかった。私が死ぬ事で国全体が悲しむというのならば、私はその悲しまれる様な姿を保ち続けなければならない。発言に悪意はないと思ってもらいたいが……この国は、私が私となる前を知らないだろう。いや、知る必要はない。私が私となる前など無価値も同然。お前達に見られたくはない。だからこそ、私はこの生き方にどんな苦難が待ち受けていようとやめる訳には行かないのだ。魔王だとか英雄だとか、そういう心持以前に―――この生き方をする様になってから私には大切な者が出来過ぎた。今更退ける訳が無いだろう」
 アルドはドロシアの頭に手を置いてから、ゆっくりと『狐』の眼前に近づく。後もう一歩まで近づくと、その場に座り込んで、喉元を晒した。
「お前が旦那と呼ぶ男は、そういう男だ。気に入らないのなら殺せばいい。私は決して抵抗をしない」
 クルナは尻尾を左右に振りながら、確固たる意志を示す男にどうしたものかと首を傾げた。ここで彼の首を刎ねた所でメリットは無い。彼が本当に死ぬ訳でもないし、こちらは彼への心配から声を荒げている。首を差し出されても、こちらは何もしようがない。
 気に入らない者は殺すという考えは、彼との戦い以前まで会った考えだ。今では考え直しているし、気に入らないというのは大概の場合、こちらの理解が及んでいないという事が多い。
 再び、沈黙。顎を上げて喉元を晒したアルドは、双眸を閉じてこちらの判断に従う意を見せていた。
「…………碌でもない男はぎょーさん見て来たけどな、こないな阿呆、初めて見たわ。旦那はん、もうええよ。好きにするとええ。説得する気も失せたわ」
 アルドは双眸を開き、彼女に小さく頭を下げる。
「済まない」
「わてを負かしといてその言葉はあかんよ。わてはもう何も言わん。『忍』をどう扱うかも旦那はんに任せる。分かったらさっさと―――何や。言いたい事がありそうやな」
 『覚』には本当に助けられている。会話の効率化は時間の短縮化。こちらの意思が伝わっている事を確信したアルドは、単刀直入に『狐』へ告げた。
「ミヤモトムサシノスケ、という人物を探してくれ」

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