ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

化かし化かされ狐の国へ

 橋に近づいていくにつれて、アルド達の視界を覆ったのは僅かに酒気を帯びた様な不安定な景色だった。事情を知らせていないからドロシアにも同じ光景が見えているだろう。彼女は不思議そうに周囲を見回し、視界を確認する為に手を翳したりしていた。

 この不安定な景色をどう説明したらよいか、その身で味わってくれれば一番良いだろう。アルドは前方を歩いていた人間の肩を掴んで振り返らせようとすると、肩を掴んだ瞬間にそれはドロドロに溶けて崩れ去り、跡形もなく消え去った。

「こういう事だ。そう不思議そうにしなくても、今から見える光景は暫く幻だぞ」

「へえ、そうなんだあ…………何か不思議」

 一度もお酒を飲んだ事のない彼女には分からないのかもしれない。この不確かで、それでいてやたら明瞭な意識があってこそ成り立つ視界は。それは正に深酒とまではいかないまでも、酒に呑まれつつある人間の視界だった。

 お酒を飲み始めた頃のアルドも、最初はこんな視界を保ったまま家に帰ったりしたものだ。あの時は己の限界量というものを弁えていなかったので、大層妹に怒られた気がする。ジバルの酒と五大陸の酒とでは色々違うのだが、酒を飲んだ様な崩れた視界は懐かしい記憶を思い起こさせてくれた。あまりアルドは気にしていないが、人はこのような幻を見せられ、弄ばれた時に、『狐に化かされた』と言う。その『狐』が頭として国を治めている以上、国の外周……橋の近くでその化かされた状態が続くのは至極当然の事だった。

 仮面舞踏会というものをご存じだろうか。お互いの顔を隠しながら踊る舞踏会の事だが、あれはお互いの顔が隠されている事を前提として開催されている。同様に、『狐』の国手前は化かされた状態が前提として成り立っているので、少なくとも『狐』の国へ向かう上では、見えている景色は殆ど全て偽物である。例外なのは港……ナイツの方向から行く場合くらいだろうか。あそこからだとありのままの姿が映し出されているが、『狐』の国へ近づけば近づく程、基本的に虚実は深まっていく。化かし合いとは良く言ったものだ。人間があそこに行こうとしないのは、単に魔人の国だからという理由だけではなく、こういった動きづらさの理由も含まれている。こんな嘘塗れの場所に、一体誰がすき好んで足を踏み入れたがるというのか。

「何か見分け方とかあるの?」

「見分け方か? 無くはないが、私に関して言えば感覚的な問題だから、教えようもないな。道自体は一本道かもしれないが、幻が幾つもの道を作り上げている。こんな所で一度逸れたら最後、まず簡単には合流出来ないから、私の手を離すなよ」

「うん。分かってる」

 国へ近づくにつれて、徐々に人通りも多くなっていく。殆どが人間の姿をしているが、中身は幻か、それとも『蛟』の国に用のある魔人か。久しくジバルを訪れていないせいもあってか、魔人はすれ違ってもアルドに気付く事はなく、至って平和に通行出来ている。当たり前だが、『狐』の国に普段から住んでいて騙される馬鹿は存在しない。アルドが全くの別物に見えても、魔人ならば即座に判別出来るのだ。だから喩えを出すと…………ここでフェリーテと出会った場合、彼女は自分を的確に見つけ出す事が出来る訳だ。仮にも彼女はジバルの出身。そして『狐』と同等の力を持つ大化生。どちらかと言えば化かす側の存在が、化かしに踊らされる筈がないという話だ。

 文字通り嘘を嘘と見抜ける様な人でなければ、ここを通行する事は厳しいだろう。ドロシアは問題ない。当たり前だが。

「先生、どうしてここまでの通路って、こんな不便なの? こんな幻術が掛かったままだったら、すっごく邪魔だなって思うんだけど」

「国を護る為だな。『狐』は『狐』なりにどうやって国を護ろうか日々考えてる訳だ。そうして思い至ったのがこの方法ってだけ。これなら何度も足を運んでいない者は踊らされてしまうし、『狐』の国に住んでいる、または頻繁にここを通行する魔人達は何の問題も無く通行出来るだろう? 国の頭が守る為に何らかの手段を取るのは頭として当然の事だ。私がした事なんて、精々このジバル全体を救った程度。その程度の私が国防に口を出す権利はない。アイツがそう選択したなら、私はそれを受け入れるまでだ。大丈夫、安心しろ。アイツの国に着けば嘘はなくなる。どうかそれまで我慢してくれ」

「…………先生と一緒に居られるんだったら、一時間でも十年でも、私は待てるよ?」

「飛躍の仕方が凄まじいな。しかしお前が言うと、冗談では済まないから困る」

 アルドはそれきり黙りこくり、無言で道を突き進む。不便だ何だと言っているが、結局その気になればドロシアは秩序から抜け出す事が出来るので、実はこちらの通行には何ら問題がない。むしろ問題があるのは、船で別れたカテドラル・ナイツの方だ。

 フェリーテとディナントが出身者だから心配は要らないと思うが、二人を除きジバルに来た事がある者は居ない。狐から遣わされた使者も居るだろうから、国で何事もなく合流出来るとは思っているが、仮に二人以外のナイツが逸れてしまった場合。例えば、何らかの騒ぎに巻き込まれて、事態を収束させなくてはならなくなった時。

 これがフェリーテやディナントという事であれば自分の足でも城に向かえるから構わないだろう。しかしこれがチロチン……は、切札的に大丈夫かもしれない。これがメグナやファーカ、ヴァジュラ、ルセルドラグだった場合、単独で歩くなんて無謀だ。一応補足しておくが、犯罪者に狩られる心配ではなく、この妖術のせいで道に迷う心配をしている。どんなに強力な催眠術でも掛けられた直後に掛け返すのがナイツだ。むしろ道に迷う以外の心配は一切していない。

 ヴァジュラであれば、隣にユーヴァンが居れば何とかなるかもしれない。彼は男性ナイツの中で一番聡明だから、それくらいはどうにか解決するだろう。問題はメグナとルセルドラグ。あの二人が協力して道を探すなんて『魂魄縛』でも使われていない限りあり得ないので、あの二人が道に迷った際は、誰かが二人を探しに行く必要が生まれる。

 これがかなりどうでもいい、馬鹿らしい心配だという事は分かっているつもりだ。港に妖術は掛かっていない。どんな方向音痴が迷えば、いつの間にか国の外に出るという珍妙な事態が起きるのかはアルドも想定出来ない。しかしもしもという事がある。あり得ないなんて事が一番あり得ない。心配性のつもりはないのだが、こういうどうでもいい所でどうでもいい心配をするのはアルドの悪い所である。

―――心配は時に不信と同義、か。

 自分の腕が届く限りの存在を護る為に、アルドは強くなった。しかしそれは、アルドから信じる心を幾らか取り上げていた。自分が守る、自分が守ると言っているが、時としてそれは守護の対象に迷惑になりかねない。この辺りは大変匙加減が難しく、思考を突き詰めても結局どうする事も出来ない。少なくとも、ここまで形成されてきた今の自分には、護る事しか出来ない。剣を振る事しか出来ない。

 その為に全てを捧げてきたから。間違っていたとしても、時に迷惑になる事を分かっていても、それしか出来ない。

 そういう風に生きてきたから。迷惑にならない生き方を今更しろなんて無理がありすぎる話だ。そんな話をするのだったら、そもそもアルドは最初から死ぬべきだったという結論が出てくる訳で。

 しかしその結論は、本人以前に他の人達が拒絶した。何かを救う事しか出来ない自分に救われて、迷惑ではなく感謝を感じた者達によって。

 ここで今更生き方を変えてしまっては、それこそ、その者達に失礼だ。特に自分の目の前から居なくなってしまった彼に、どんな面下げてそれを言えばいいのか。心配は時に不信と同義という事は弁えているが、だからって心配せずにはいられない。どうでもよくったって、僅かでも可能性があるのなら考慮するべきだ。信じる信じないを気にしすぎるあまり、手遅れになってしまったら元も子もないのだから。

―――まあ、手遅れがどうのこうの言い出すと、ナイツよりも彼女を心配しろという話になるのだが。

 そればかりは祈るしかない。心配した所でどうなると言ってしまうとナイツにも同じ事が言えてしまうが、彼女の場合は本当にどうしようもないので仕方がない。ナイツは、最悪連絡を取ればいいだけの話だ。

 ここに来て様々な事態に見舞われすっかり忘れているが、ジバルへの外出はナイツへの慰安目的が大半を占めている。連絡も取らなければのんびり歩いているのはそういう事。仲間を加入するなどの負担は全てアルドが行うものとして、彼等にはこの旅行を存分に楽しんでもらいたいのだ。そもそも、本当になり振り構っていられない様な事態に陥ったらフェリーテが思考越しに連絡を入れてくるに決まっている。尤も、これに関しても『連絡がこないなら平和だろう』と考える事も出来ないのだが、前述の通り堂々巡りになるので気にしない。問題はダルノアだ。彼女には連絡を取る手段も無ければ安否を確認する手段も無い。本当にどうしようもない。

 宮本武蔵之介が何をしたいのかは分からないが、殺し合いならばいつでも歓迎だ。こんな所で願っても叶う筈はないが、どうか彼女には指一本触れないで欲しい。大切な親友を失うのは、もうごめんだ。

 それでももし、奴が彼女に手を出したのならばその時は―――
























 完膚なきまでに殺す。

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