ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

逆さに宿泊

「……ああ。済まない。色々、用意してくれていたんだろう? 本当に申し訳なかった。ああ、ちゃんと料金は支払うというか、ああ…………」
 早朝から頭を下げなくてはならないなんて、どうなっているのだろうか。その答えは至極単純。アルドもすっかり忘れていたが、旅館に予約していたのにも拘らず、更に夜までには戻ると言ったにも拘らず、どれか一つたりとも約束を守らなかった事だ。食事なども用意してくれていただけに、非常に申し訳なかった。他の客が食べてくれたらしいが、こればかりはアルドのミスというか、ダルノアと遊郭の事に思考を支配されていた自分のミスというか。要は、自分のミスなのだが、謝罪だけで終えるつもりは全くない。
「分かっている。今日は一日泊まらせていただくさ。勿論、外出したりはしない。追加料金も含めて、どうかそれで謝罪とさせてほしい」
















 ダルノアを連れて、アルドは現在とある旅館に居る。とあるなどともったいぶるみたいに隠した意味は特にない。あるとすれば単純に、謝罪目的の宿泊にも拘らず名前を忘れてしまったという恥を隠したいだけである。
 アルドは温泉に入っていた。早朝から温泉というのは中々想像しづらいが、これはこれでまた一興ありだ。本当はナイツ達と一緒に入りたかった気持ちも無くはないので、『蛟』の国か『狐』の国で、また温泉に入る事になるのだろう。
 言うまでもないが、混浴では無い。そんな状態で安らげるのならば、先日のドロシアにはもっと積極的なスキンシップを仕掛けられた筈だ。裸の語り合いは結構だが、それが出来るとしたら同性のみである。ディナントが入るとお湯が盛り上がりそうだが、幾ら何でも溢れ出す様な事はあるまい。無いと信じたい。
 別れて時間の経ったナイツを幻視しつつ、アルドは雲の僅かに多い空を眺めながら、取れる筈のない疲労をどうにか取るべく、出来るだけ考える事をやめていた。それは、昨日の反動を受けているようでもあったし、純粋に温泉というものを楽しんでいるようでもあったし、
「ドロシアさん、髪凄く綺麗ですね」
「そう? えへへ、ノアちゃんも綺麗だよ~特に肌が」
 壁越しに聞こえる女子風呂の会話を努めて聞かないようにしている。こればかりは確実だ。アルドは女子風呂の会話何ぞ聞く気は無い。聞く気は無いというか、聞きたくない。彼女達の声を聴いてしまうと、彼女達が裸でどんなやり取りをしているのかを想像してしまって、不純な思いを抱いてしまいかねないからだ。
「やっぱり温泉ってのは最高だなあ! アンタもそう思わねえか?」
 ……誰?
 顔付きから考えてジバルの住人だろうか。こちらから面識はないが、一方的に名前が知られている場合があるので、ここは調子を合わせておく。それにしても、朝っぱらから自分と同じ様に温泉に浸かっているなんて、随分暇な人間が居たものである。アルドは首を正面に戻して、何やら心地が悪かったので首を回す。小気味よい音が響いた。
「ああ、そうだな」
「女風呂に居るの、アンタの連れだろ? 良い女連れてるよなー! アンタには不釣り合いなくらいだッ」
「仰る通りで。彼女達は、私の隣に居るにはあまりにも美しすぎる。言われるまでもない事だ」
 それを言い出すと、アルドに釣り合う女性という存在はこの世に誰一人として居なくなってしまう。釣り合いだけでしか交流する人間を選べないというのなら、早々にアルドは天涯孤独になっているだろう。そうして生きる意義を見出せずに、自殺するのだろう。今更自身の醜さを自虐する事に躊躇いは無い。してもされても、超越した価値観が壁となって傷つかない。
「でも、アンタはそんな女共に好かれてる。朝風呂に入ってんのだって……俺は知ってんだぜ? どうせ朝まで繋がってたんだろ?」
「はあッ!? あ、あ、アンタ。何を見てそれを言った…………」
 壮年の男性が指を向けた場所を見て、アルドは忽ち口を噤んだ。言われてみれば確かに、これを見れば誰だってそう思うのも無理からぬ事だった。具体的には……その。局部の勃起が。
 だが待ってほしい。これについてアルドは適当な説明をする用意が出来ている。
「……これは疲労しているせいだ。別に興奮していたり、朝までまぐわっていた訳ではない」
 それこそ、この現象は今に始まった話ではない。今までナイツ達がこれに気が付かなかったのは、疲労そのものをアルドが気合いで誤魔化していたからである。だが今は、温泉に浸かって、醜いモノを見せたくない人物はいない。少しくらい気を緩めたって、許されるのではないだろうか。温泉とは、確かそういう場所だったと記憶していたのだが。
 壮年の男性には、それが苦し紛れの説明に聞こえたらしい。訝る様な目線で何度も頷いた後、勝手に納得して、手首を振った。
「俺が悪かった。確かにお前の言う通りだな」
「……何だか、釈然としないな。やけに物分かりが良くなった」
「そりゃよくもなるだろうよ。俺の覚えてる限りじゃ、アンタの連れは小柄だった。そんな馬みてえなの突っ込まれたらどうなるか分かったもんじゃねえ」
 アルドは思わず温泉に顔を突っ込んだ。派手な飛沫が散らされて、男性にも少し掛かる。知った事じゃない。先程から判断する箇所が局部から一向に離れないこの男が悪いのである。暫く水に顔を浸けていれば落ち着くかと思ったのに、温泉はお湯だった。顔は熱くなるばかり、頭も熱くなるばかり、手の施しようがない。どうしようもなくなって顔を上げると、温度差からか、急速に体温が奪われていく。
 僅かに吹く風すらも、今は有難い。
「……さっきから、やめてくれないか。局部だけで何事も判断してくれるのは」
「ははあん? そんな生娘みたいな反応しやがって。さてはアンタ、経験がねえな」
 図星だった。あるとも言える訳でも無いので、肯定という名の沈黙を静かに返す。男が野蛮に笑った。
「ガハハハハハッ。やっぱりか、俺の言ってる事は当たってたんだな! まあそりゃそうだな。そんな馬みたいな奴誰だって受け入れくぁねえもんよ。普通の女なら五分と持たねえだろうな!」
「…………そう、なのか?」
「まず失神するだろうなあ。体が弱かったら下呂も吐いちまうかもしれん。そんなに雄々しいもん持ってんのに使えねえとは、宝の持ち腐れって奴だなッ」
 ならば昨夜の金比羅船々の勝負で、アルドは勝利しておいて正しかったという事になる。仮にあそこで負けていた場合、自分はワドフを痛めつける結果となっていた。ドロシアにしても、やはりあそこで止めておいたのは英断だったと言える。ここまで来ると、いっそナイツの誰とも関係を持たない方が、彼女達にとっても幸せなんじゃないかという気すらしてくるが、フェリーテに関してはいい加減に契約を外してやらないと仕方ないのでそれは無理。他のナイツは…………ファーカとか、一体どうすればいいのだろう。アルドは性交渉そのものが恐ろしく感じてきた。
 愛しの女性と愛を深め合うというのは素晴らしい行為だという自覚はあるが、それとは全く別に、見ず知らずの男性から局部の事を指摘されてしまって、怯んでしまったのだ。男性の発言は一々鼻に付くが、言われてみると何だか段々と正しい事を言われている様な気がしてくる。
 暫く男性と会話を交わしている内に、アルドは段々と口数を少なくしていった。喋るだけ、無意味に思えてきた。女子風呂の会話なんて、ちっとも耳に入って来ない。それ処じゃない。
「―――まあ、でも。男には必ず納まるべき女が居るって話だ。お前を受け止めてくれる奴だってきっと居るだろうさ」
「…………良い事を言っているつもりなんだろうが、話の流れ的に、それは淫らな方の話では」
「良く分かったな!」
「散々人の局部に触れてきて、気づかない私だと思うか?」
 局部を褒められて嬉しいとは言わないが、遠回しに非難されるのもそれはそれで困るというか。別に何か努力をした訳では無いのだ。これは自然的に大きくなっただけで、気が付けばこうなっていただけで。なのに、それを否定されるというのは、今までの人生を否定されている気分で、あまり良い気分とは言えない。
 局部は男性の生命力の象徴とも言われるが、今回ばかりは小さくあって欲しかった。そもそもこれのせいで、アルドは羞恥心に精神を支配される事になってしまったのだから。
「きっとお前を受け止めてくれる奴は、お前みたいに筋骨隆々の逞しい女性なんだろうな!」
「……心当たりはないでもないが」
 自分くらいだったかと言われると微妙である。他の女性と比べれば、間違いなく存在している心当たりはあるのだが。
「かー釣れねえなあ。男だったらもっとこう、女性を食ってやるぜ! って勢いが大事なんだぜ? 分かるかアンタ。女性はそういう、強引な男に惹かれるんだよ?」
「ならば、私はそうならなくてもいい。好きになってもらわずとも守る事が出来るのなら、それで結構だ」
「……女性を力強く守れる者こそ、女性の愛顧を得るに値するとも言うぜ?」
「先程から、お前は私を励ましたいのか落ち込ませたいのかどっちなんだ」
 励ますつもりならば徹底的に励ましてほしいとは言わないまでも、こちらが明らかに傷つくような言葉の選択は控えて欲しい。落ち込ませたいというのなら今までは正しかったが、最期の補足のみ蛇足であると言える。
 みょうちきりんな男性は、アルドが風呂を出るまでずっと雑談に付き合ってくれた。アルドが湯舟を出る時にも気さくな口調で送り出してくれたが、只一つ言いたい事がある。
 『馬男』などという不名誉な渾名で二度と呼ばないでいただきたい。勝手な理由で人を斬る事はないが、あまりその名前を吹聴されると、拳の一つや二つ、飛ばしてしまうかもしれないから。   
 

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