ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

いざ往かん

『何処に居るんだ…………ダルノア』
 声が聞こえる。絶望の果てに渇き切った声が聞こえる。足音は、深淵へ。その精神は腐海の底へ。高貴だった筈の魂は、どんどんと薄汚れていった。
『お前を探す為に私は…………頼む。居るなら居ると、言ってくれ』
 声を掛けてみたが、それには届かない。というかそもそも、この男は誰なのだろう。自分を探しているみたいだが、ダルノアには記憶がなかった。気が付けば捕まって、気が付けばアルドと数年間を過ごして。それだけだ。父親と母親が居た記憶はあるものの、それがどういう顔をしていたかまでは思い出せない。この男がどういった存在なのかも、覚えていない。
「ダルノア…………」
 今度はより明確に、その名が呼ばれる。何故だか今度は声が届く気がした。いや、声処か、手すらも届く気がした。両手を伸ばして、それを抱きしめる。自分はここに居る。だから安心して欲しいと伝える為に。
「おい、ちょっと…………」
「大丈夫です。私はここに居ますから」
「違う。起きろ」
「安心してください。私はここで、幸せに過ごしています」
「起きろ! おい、ダルノア! 起きてくれ!」
 その声が夢の中に現れた人物と、何やら違うらしい事を察したダルノアは、言われるがままに意識を覚醒。夢の中の動きと連動して、両手で抱き締めていた。
 アルドを。
「へッ―――」
 ただ抱き締めているだけだったら、まだ動揺はしなかった。アルドだって、ここまで切羽詰まったような口調で自分を起こす事はしなかっただろう。問題なのはその姿勢。ダルノアは彼の顔を、自身の胸に埋めさせるように、抱きしめていたのだ。その事に気付いた瞬間、体内の血液が全て上昇したような気がした。ともすれば、目の前の彼と同じくらい、顔が真っ赤になっているかもしれない。
「きゃあああああああああ!」
「うわあああああああ!」
 何とも言えない、情けない悲鳴が二つ。特に彼は凄まじい勢いで飛び退いたせいで、丁度後頭部と同じ位置にあった剥製に頭をぶつけて、一人で俯いていた。彼が頬を染めていたのは、ダルノアの胸に顔を埋められて興奮していた訳ではない。そもそも、埋められる程胸の膨らみは無い。彼が羞恥していたのは、胸に顔が触れているという事実そのもの。奴隷として生きていた、無価値の二年を過ごした自分には、不思議と良く分かっていた。あの時の彼以外、自分は知らないというのに。
「す、す、済みません! 大丈夫ですか? 本当に……ええっと、その。悪夢を見ていて」
 苦し言い訳なのは言うまでもないが、動揺が尾を引いているのか、アルドはその程度の矛盾にも気づかず、納得してくれた。
「ああ……成程。夢で何かあったと言うのなら仕方ないな。起こしに来ただけなのに―――本当に、びっくりしたよ」
「怒ってますか?」
「いいや、別に、私が夢に口を出す権利を持っている筈が無い。どんな夢を見ていたかは知らないが、気の毒だったな。まだ怖いか?」
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
 これ以上、アルドに迷惑は掛けられない。ただでさえ嘘を吐いたのに、ここになってまた彼に面倒を掛けるのは、幾ら何でも申し訳なさ過ぎる。ダルノアは直ぐに表情を取り繕って、如何にも自分がまともであるかのように見せた。いつの間にか上気の引いていたアルドは、暫く真っ向から視線を合わせる様に立ち尽くしていたが、やがて少女の頭を引き寄せて、言った。
「お前は私のかけがえのない友人だ。無価値の私と共に居てくれた、無二の友人。怖いモノがあったら直ぐに言えよ。私が、お前を守る」
「……有難うございます」
 この感情をどう言い表せばいいか、年に似合わず、ダルノアは理解しているつもりだ。だが、まだ分からない。優しくされたから得ただけの、一過性の物かもしれない。アルドと向き合った際に生まれる思いが、向こう数年変わらなかったのなら、それはきっと恋だ。容姿だけでは量れない、彼の男性的な魅力に、自分が恋をしたという事。途中で変わったのなら、これは彼に対する感謝だ。助けられたその時から抱き続けていた感情が、重なる様に発現しただけだ。
 どっちなのかは判断しかねるので、この感情について考えるのをやめておく事にする。一つ言えるのは、自分にとって彼は嫌いな存在ではないという事だ。今はそれだけ分かっていればいい。
 一人頷いたアルドは、扉のノブに手を掛けつつ、こちらを振り向いた。
「お前の準備が出来次第、ジバルに行く予定だ。先に外で待っているから、心の準備が出来たら私の所に来てくれ」
「はい。分かりました」
 アルドが居なくなってから、ダルノアは改めて、夢の中で遭遇した男について思案する。
 あの男は、誰なのだろう?
 一方的に面識を持っているという状況があり得るとは思えないのだが、今の所一方通行である。そもそもあの男が五大陸の何処を歩いているのかも分からない。アルドに聞けば、何か分かるだろうか。詳しく聞いた事は無いが、彼であればある程度の人物を知っているに違いないという信用があった。
 支度しろとは言われたが、特筆すべき支度など寝間着から普段着への着替えくらいなモノで、それも数分で終了した。部屋を出て玉座へと向かうと、こちらの気配に気づいたアルドが、先んじて顔を向けていた。
「準備が出来たのか?」
「時間を浪費する程の支度は出来ないので。そんな事よりアルドさん、一つ尋ねても宜しいですか?」
「何やら、訳ありな顔だな。しかし、ここで時間を消費するのは得策じゃない。船の上で良ければ、続きはそこで伺おう。構わないか?」
 こちらの首肯と同時に、アルドが立ち上がり、張り詰めた声を城内に響かせた。
「出航の時は来た。カテドラル・ナイツよ、我が目前に集え!」
 全員がそこに集うまで、十秒も掛からなかった。その速度に命令を下した当人が誰よりも驚いていたが、咳でどうにか誤魔化して、話を強引に繫げる。
「各自、準備は万端か? 今から港に向かうから、私に続け」








       「「「「「「「「仰せのままにッ!」」」」」」」」








 全員が声を揃えて同じ事を言うと、その迫力たるや中々のモノだ。力強い返事にアルドは嬉しそうに頷いて、玉座の隣に立て掛けられていた金色の剣を手に取る。剣について素人のダルノアだが、アルドがあの剣を大事にしている事は、何となく理解していた。
 一瞬だが、見えたのだ。今にも崩れそうな彼の隣に立つ、女性の姿が。
「―――出発だ」
 彼に手を引かれて、ダルノアも歩き出す。今はこの手の感触が、何よりも頼もしい。


































 ナイツ達を船に乗せた後、アルドは首に掛けられた鍵を使って、彼女の『家』へ。入るなり抱き付かれてしまって困ったが、それだけ彼女も楽しみにしていたと思うと、この計画を考案した甲斐があるというもの。彼女に対する目的は無いが、肉体的に永久の孤独を味わっている彼女だって、愉しむ事は許されている筈だ。勿論、自分が居なければ彼女が楽しめない事は分かっているので、自分もこうして行かなければならない。彼女にとって家族と歯、自分だけなのだから。
「準備は出来てるな?」
「うんッ。いつでも行けるよッ」
 置かれている状況的には、彼女もダルノアと同じ様なものだと思ったが、何やらかなり大きなバッグを杖に提げていた。彼女の体つきから考慮すると無理そうに思えるが、彼女は『そこに在る』事以外の法則を受けない。『相応の筋力が無ければ重いモノは持ち上げられない』という秩序も、彼女にしてみれば受け入れる意味のない秩序だ。
 『家』を出ると、待っていたらしいフェリーテが、鉄扇で顔を仰ぎながら、少々眠たそうにアルドの乗船を待っていた。
「待っていてくれたのか」
「主様を抜きに出航する訳が無かろう。それでは主様、指示を頼む。船の操舵は妾が務めるでな」
 「……それをしてくれるのは嬉しいが、それだと、別に私が指示を出す必要が無いと思うが」
「む? ……そうじゃな。うっかりしておった。妾とした事が、何という失言。今のは聞かなかった事にしてくれると助かる」
「責めるつもりは無いさ。早く出発してくれ」
 フェリーテが鉄扇を閉じると同時に、動く事を久しく忘れていたかのように、船は時間を置いて動き出した。

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