ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

我が罪を裁くは我

 別れの言葉を言えもせずに永遠の別れをする事を、エリは何よりも嫌っていた。リスド大陸攻略戦において、自分は両親に別れを告げる事も出来ずに大陸を追放されてしまった。あれについて未練があるのはもう何度も言った通りだが、それと同時にエリは思った、もう二度と、あんな酷い別れ方をしたくないと。自分があれだけ快く思っていなかったフォーミュルゼンにさえ、思う事は同じだ。彼にあらゆる罵詈雑言をぶつけたかった。その上で彼に後悔してもらって、それから死んでほしかった。そんな彼すらも自分の知らない内に死んでしまったので、エリは今までの事を忘れられていない。乗り越える事も、無視する事も出来ず、自分はその場所に立ち止まり続けている。
―――お別れを言いに来たんだ。
 体格から言って男だろうか。エリの目の前では、一人の男性が背中を向けながらこちらを見ていた。その外套のはためきと言い、口元に見える微笑みと言い、何処かで見た事があるような気がする。しかし思い出せない。人影に見えるのは、そのせいか。
―――貴方は誰ですか?
 男はこちらの問いに答えようともせず、一人言葉を紡ぐ。
―――本当は言いたい事が色々あるんだけど、まあ取り敢えず―――エリ・フランカ。お前の事が好きだった。
 顔も姿も碌に見えない男は、ポケットに手を突っ込む。それが唐突に語りだした告白の気恥ずかしさから来たモノだと、どうしてか自分には理解出来た。
―――仲間としてか女としてか、それは俺にも分からない。でも何だろう、一緒に居てて楽しかったよ。お前とはさ。あの人も知らない数年間の旅路、最初は頼まれたからだったけど、いつしか俺自身が楽しくなってた。そうなった原因を考えてみたら、キリーヤでもクウェイでも、パランナでもない。お前なんだって気付いた。
 待て。その三人の名前が出るという事は、自分は彼と一緒に行動を共にしていたのか? いや、そもそも彼とは一体誰だ? そんな言い方をしてしまうという事は、それこそ親しい間柄では無かったのか?
 分からない。判らない。解らない。少なくとも、この男とは一緒に戦うくらいの間柄では無かったのか。元騎士たる自分が、それ程の者を忘れる筈が無いのに。こちらの動揺すらも見えていた事だとばかりに、男が一息交えて笑う。
―――意外だったか? まあそうだよな。極力そういう感情は出さなかったからな。でもま、もう会う事は無いから言わせてもらうよ。お前は俺の人生の中で……そうだな。一番良い女だ。女運には恵まれなかったからかもしれないが、喜んでくれ。お前はとある男の心で一番になったんだ。
 その妙な上から目線に、何もかもを冗談めかすような口調。その裏に存在する純粋な心。見覚えがある。聞き覚えがある。その声は、その姿は。改めて男を見据えると、徐々にその姿が影を明かし、ハッキリと見えてくる。
―――俺が真に男なら、ここでキスくらいはするべきなんだろうが、生憎そんな余裕は無くてな。こうして言葉を伝えに来るのが限界だ、許せ。
 男は身を翻し、ゆっくりとこちらに進んできた。それと共に影は照らしあげられ、忘却された存在を再び記憶の下に晒しだす。その全身が明らかとなる頃には、男はエリの肩を通り過ぎて、目的地さえ明らかでない深淵の彼方へと歩き出していた。
 思い出せ、あの男の名前を。今だけでもいい、これから忘れる事になったとしても良い。ただ、別れの言葉を告げる事も出来ぬまま別れるなんて絶対に嫌だ。今だけでも良い、忘却の彼方に葬り去られた存在を、今だけでも……
―――色々事情があるのは知ってる。でも先生とは、これからも友達で居てやってくれ。お前を好きだった男からの、最初で最後のお願いだ。
「―――フィージェン……!」
 振り返った時、男の姿は既になく、自分の意識もまた何処かへ移動する所だった。


























「…………んぅ、んッ。ん……?」
 目が覚めた時、エリは現在の場所について心当たりを持たない事に気が付いた。意識を失う直前の光景も、その場所もよく覚えている。だがこんな庶民的な木造小屋が何処かは分からない。あの場所から、まさか民間人が助け出してくれたとも思えないし。
「目覚めた様だな」
 傍らの声に顔を向けると、両眼を粗悪な布で覆い隠してはいるが、その声は紛れもなくアルドのモノで、全体的な体格を見てもその見解に相違は生まれなかった。彼の背後では『雀』の魔人がまだ寝込んでおり、彼はそんな彼女の手を握りながらこちらを見ていた。その向こう側には、『竜』の魔人がベッドから半分身を投げ出して眠っている。
「アルドさん。その眼は一体? それにここは……」
「ここは私の弟子が拠点としている家。敵が来る心配はない。ここは何処よりも安全な場所だ」
「助けてくれたんですか? 私達は死の執行者が連れ込んできた集団に捕らわれていた筈ですが」
「全員殺した」
 素っ気なく言い放つアルドに、エリは驚きを隠せなかった。彼等との戦闘時は疲労していたとはいえ、それでもあそこまで一方的に蹂躙されたのは初めてだ。それは彼等の圧倒的な強さをある意味で証明している記憶だったが、にも拘らずアルドはつまらない事だったと言わんばかりに素っ気ない。彼からすればそれ程弱かったのか、それとも彼等もまた自分達との戦闘で疲労していたのか……そうは思えないのだが。
「もしかしてその眼って、彼等との戦いで負傷したんじゃッ!」
「いや違う。これは……ああ、気にするな。ちょっと特殊な事情があるだけだ。別に眼を失ってはいない。所で……こんな分かれ方をしている事については私を助けてくれた恩もあるから言及はしない。事実、お前達が居なければ私は死んでいた。だが……一つ聞きたい。これで全員か?」
「え? ……ちょっと待って下さい」
 珍妙な質問だが、彼なりに考慮すべき事でもあるのだろう。ゆっくり記憶を辿って思い出してみるが、間違いない筈だ。
 自分、ユーヴァン、ファーカ。       
 三人。これで間違いない。この三人がオルト・カローナなる者に蹂躙されて、つい先程まで無様に捕らえられていた。
「……はい。間違いありません。ここに居る皆さんで、全員です」
「………………そうか」
 彼の表情が一瞬、悲しそうに沈んだのはどんな理由があるのだろうか。まさか人数が足りないとでも? いや、自慢するつもりは無いが、エリは記憶力に自信を持っている。一度共闘した事のある間柄であれば、まず忘れない。それが最低限の礼儀というモノだ。沈痛な面持ちを浮かべるアルドの様子を窺っていると、それに気づいた彼は直ぐに表情を取り繕った。
 直に立ち上がり、階段を下りていく。
「少し用があるから私は行くが、絶対にその階段を降りてくるな。ファーカとユーヴァンにも約束させろ。分かったな?」
「分かりまし、た…………?」
 彼が眼を覆い隠している理由は遂に分からなかったが、彼自身の口から聞かなければ発想する事すら出来ないだろう。彼女は確かに記憶力が良いのかもしれないが、見てもいない事を記憶するのは不可能なのだから。
 声なき声が、誰にも聞かれる事なく呟かれる。


 泣く事をやめたのは、いつからの事だったか。






















 涙は確かに捨てた筈なのに、どうして今も流れ続けてしまうのか。自分の目をこうまでしなければ止められないくらい、多量に。エリには苦しい言い訳で誤魔化せたが、流石にナイツと合流するまでには何とかしないと、流石に言い訳のしようがない。ナイツからも情けない人間と見られたらお終いだ。自分は圧倒的な存在で無ければならない。魔人の誰にも、こんな涙は見られたくない。
「先生」
 上に居る彼女達に聞こえない様、小声で彼女が言った。弟子の一人こと、ドロシア・ヒルエルゴだ。彼女の腕の中では、一人の男が半身を失っているにも拘らず、安らかな笑顔を浮かべて眠る様に死んでいる。自分達の様に特異な存在でもなければ、もう誰も彼の事を覚えていないのだろう。彼の事を。
「誰も、覚えていないんだな」
「うん。覚えているとしたら執行者か、私達くらい。彼はあの森で先生が捨てた者を全て拾い上げた代わりに、自分の全てを捨てたから。私みたいな体質や、そもそも世界の外の人、先生みたいに半分だけ別の何かが入っている人じゃないと……思い出せない」
「どんなに頑張ってもか?」
「うん。頑張っても。森だけだったら彼と強い接点を持っている人ならどうにか思い出せたかもしれないけど、彼が使える殆どの力が『自分』の忘却に使われてる。執行者くらいじゃないと手出し出来ない……私でも」
 例外はない。それに執行者の力を使ってまで、彼の決意を踏み躙る事は出来ない。彼は周りの者を悲しませない様にする為、自らを忘却させたのだと思う。事実の齟齬が生じても違和感を持たないくらいの強い忘却を。不幸なのは自分達のように異質な存在には通じないという事だが、それは彼だって分かっているだろう。
 彼が何よりも悲しませたくなかったのは、彼が今まで御守として仲間だった彼女達。彼は自分の死によって彼女達の理想が阻まれる事のない様、強い忘却を望んだのだ。アルド・クウィンツを助ける為の犠牲として、世界全てから忘れ去られる事になっても。
「…………ドロシア。死体は隠しとけ。見ても思い出せないのなら意味のない死体だ」
「分かった。これからどうするの?」
「他のナイツ達と合流して、あっちの世界に戻ろうと思う。こちらの世界は奴らを倒した事でこちらが制圧した。何も問題は無い筈だ。死の執行者は恐らくリスド大陸に居る。魔王として、英雄として。そして何よりも……とある男の師匠として決着を付けなくてはな。あの男とは」
 アルドは双眸を覆い隠していた布を剥ぎ取って、ぱちりと目を見開く。その瞳からはもう、涙は零れていない。 

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