ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

狂騒歌 『濫魂』

 『烏』に脅された男達はその殺気にすっかり呑まれてしまったようで、こちらが声をかけても呆然と彼の去った方向を見つめていた。或いは彼の発言を心の中で噛み締めているのかもしれないが、彼との問答で出鱈目を言った彼等がそんな殊勝な事をしているとは思えない。どうせ彼の殺意に圧倒されただけだろう。暫し男達を観察してから、直ぐにそんな場合じゃ無かった事を思いだして走り出す。パランナの姿が見えないのに、自分は一体何を突っ立っているのだ。
 ここで時間を費やしたのは非常に痛い。キリーヤが彼に襲われていた際に、これだけの時間を費やしてしまったら既に手遅れとなっている可能性が非常に高いからだ。だから今のクウェイは彼女が襲われていない事を祈りながら、全速力で走るしかない。
「キャアッ!」
 次の角を曲がれば避難所という所で、聞き覚えしかない少女の声が明瞭に聞こえる。その近くでは男の足音と思わしき音が聞こえて、それがきっとパランナのモノであろう事は想像に難くなかった。やはり彼は偽物だったのだ。自分の勘に間違いは無かった。素早く槌を片手にクウェイは角の端へ。足音が近づき少女が通り過ぎた瞬間、後を追う存在めがけて全力で槌を振るった。しかし何という事だろうか。キリーヤを追うように走っていた男性は突然視界に割り込んできた槌を素手で受け止めて防御。そのまま槌を握り潰して、何事も無かった様に自分の前で停止した。
「これで二回目だぞ。わざとやってるのか?」
「あ……いや、すまん。つい反射的に」
 ここまで露骨に待ち伏せの様な事をされれば誰だって殺意が湧くと思っていたのだが、彼は言葉の上では責めつつも、その声音は全く怒っていない。果たしてこれ程に彼は寛容だっただろうか、と考えた所で思い直す。彼はキリーヤの事を女性として見ている。好きな人の目の前で醜い面を見せたくないのは当然の事で、その条件を踏まえれば彼が普段よりも寛容だったとしても何ら不思議は無いのだ。何せこれまでの旅路で、彼は一度も彼女に良い所を見せられていない。当然良い所を見せられないのであればキリーヤの好感度が上がる訳も無く、今日に至っている。
 …………本当の本当に、本物? 段々と自分の中で疑念すらも曖昧になっていくが、やはり本物かと言われてもそうは思えない。何だろう、この微妙な感覚。
 ここまで勘繰っておいて本当の本当に本物だったら、クウェイはその場で土下座しよう。どんな裁きも望んで引き受けようじゃないか。自分は偽物と疑うあまり、酷いことをし過ぎた。彼に一回や二回斬られても文句は言えないし、言う訳にはいかない。
「反射って……まあいい。今はそれ処じゃ無いからな!」
 そんなこちらの決意など知った事ではないパランナが、現在の状況を思い出したようにそう言った。クウェイには何のこっちゃ分からなかったが、立ち止まって話をしていられる程悠長な状態ではないらしい。二人はクウェイの手を引っ張って、彼の来た道を戻り始める。
「待った待った! 一体何がどうなってるんだよッ」
 パランナが偽者か否かは、もうこの際どうでもいい。そう思わせるくらい、二人の顔には露骨に焦燥感が表れていた。しかし何がこの二人を恐怖させているのか、自分には全く分からない。背後から恐ろしい怪物が追ってくる訳でも無く、見えるとしたら不自然な動きを連続させる人間くらい―――
 最低限の状況をクウェイが理解した瞬間、パランナが一時的に足を止めて言った。
「聞いてみろ」
「聞く? 何を」
「音だ」
 わざわざ足を止めたのはその為だろう。言われた通り、耳を澄ませて周囲の音を聞き取ると……魂を優しく揺さぶる、穏やかな音色が空気と共に流れている事に気付いた。聞こえる音は僅かだが、その音の心地よさったら今までに感じた事も無いくらい強くて、魂に響く音楽とはこの事を言うのかもしれない。ずっと聞いていたって飽きないくらいだ。
「バンッ!」
「うおッ」
 意識が現実に引き戻される。キリーヤが耳元叫んだからだが、その顔には欠片の悪意も見えない。むしろ彼女の顔には、安堵の様子が見て取れる。
「クウェイさん、その曲を聞いちゃ駄目です!」
「は? いや、聞けって言ったのはコイツ」
「ずっと聞いてちゃ駄目なんです! この曲は―――!」
「話は後だ、一旦逃げるぞ!」
 何が何だか、というのが素直な気持ちだ。背後から迫りくる人の波にパランナは全力疾走。二人を担ぎ上げて何度も角を曲がり、やがて先程の目撃場所へと飛び出した。
「どけ!」
 彼からすれば何もしていないだろうに、一切の躊躇なく彼等を蹴飛ばしつつ、速度を殺さない様に疾走を続ける。それからどれくらい走っただろうか、闘技町の端っこまで逃げ切ると、既に音も足音も聞こえなくなった。申し訳なさそうに二人が背中から降りるが、パランナは全く息を切らしていない。軽く肩で一息ついて、それっきりだ。
「有難うございますッ。大丈夫ですか?」
「問題ない。キリーヤ、説明を続けてやれ。俺はまたアイツ等が来ないかちょっと見張りをする」
 こちらから離れていく彼の背中をある程度まで見送ると、キリーヤは視線を戻して、改めて先程の説明を続けた。
「あの曲は、チロチン様が奏でる曲の中で最も危険な曲、『濫魂』です。何でも演奏されるチロチン様自身も相当な負担があるという事で滅多に吹く事はないんですけど……あの曲は、ずっと聞いていると精神の在り方を反転させる曲なんです!」
「反転?」
「はい。通常の使用方法であれば、精神の弱った者や脆弱な者、はたまた精神の壊れてしまった者に聞かせる事でその状態を疑似的に回復させるんですけど……えっと、つまり普通は『異常』なモノを反転させて『正常』にする為の曲なんです。ですがあの曲は―――」
 そこから先は聞かずとも理解出来る。精神の在り方を反転させると言われてもイマイチ思いつかなかったが、『異常』を『正常』に塗り替えると言われれば容易く想像出来る。つまり自分達を追ってきたあの人間達は、あの曲を聞いてしまった事で反転させられて、あのようになってしまった訳だ。
 『正常』な精神を『異常』な精神に変えられて。
 やむを得ない場合を除いては戦う事も逃げる事もしないキリーヤすら逃げたのは、話が通じない何よりの証拠である。そもそも、話が通じる時点で、ソイツは部分的だったとしても正常な精神を持っているという事。しかし完全なる正常性が反転して完全なる異常性へと相成れば、欠片なりとも正常さを持ち合わせている筈は無く、それ故に話し合いや和解の類は通じない。だからと言って殺す訳にもいかないので、キリーヤ達は逃げる事を選んだのだろう。それに、聞いている限りでは殺す以外の解決法もある様だし。
「―――だから、あの曲は聞いちゃいけません! 分かりましたか?」
「ああ、分かっている」
 言われなくても、こちらから願い下げだ。誰が好き好んで救いようのない狂人に変わるモノか。そんな思想を抱いている人間が居るのなら、それこそ救いようが無い。むしろそういう人間こそ、曲を聞いた方が良いのではなかろうか。きっと『正常』な心を取り戻すだろう。
「でも、妙なんです。チロチン様はとても優しい御方、本来の使い方以外でこれを使うなんて無かったのに……何か、あの御方の理性を狂わせるような事でもない限りはあり得ないんですけど」
「……一応聞いておくけど、心当たりはあるのか?」
「ありませんよ! 避難所に居る人達は皆いい人ですから、あの御方を怒らせるような事はしない筈……皆さん、共存には前向きな姿勢を示しているんですよッ? アルド様や他のナイツの方々が怒らせる筈はないし、エリやフィージェントさんも最低限は弁えている筈。何が原因なんでしょうか」
 クウェイの脳裏に、つい先程聞いた言葉が想起される。
『何が痛いだふざけやがって! お前等みたいな人間の劣化種族が痛みなんて高度な感情を持ち合わせてる訳ねえだろッ!』
『人間のフリすんなッ!』
『さっさと死ねよ、なあッ』
 キリーヤの発言とまるっきり食い違った言葉ばかり思い起こされるが、これを気のせいで片づけてはいけない。彼等はきっと、恩人且つ人間である彼女の前でだけ肯定的な発言をするのだろう。それに対してキリーヤは欠片も疑っておらず、更に交流を深めようとしている為、あの避難所から動く事をしない。動く事をしないというのは言い換えればあそこに隔離されているという事でもあるから、避難所に出た人間が何をしたって、彼女には聞こえないという理屈である。こんな現実を目の当たりにしてしまうと、彼女の理想がどれだけの幻想なのかを改めて思い知る。もう二度と『彼等にも少しくらいは共存を望む心が』……とは思わない。チロチンの曲がそれを証明してしまった。
 彼等にとって正常な精神とは、『魔人を差別し、見下し、蔑む』事を基本に作られている。それが反転した今、彼等は魔人も人間も分け隔てなく襲う狂人に。彼女はまだ気付いていないが、彼等が狂ってしまった事実はそれを証明してしまっているのだ。
 分かりやすく言い換えれば、救済の選抜において、彼等は誰一人救えないという事である。たとえ彼等が正常になった所で、チロチンはあの時見た光景を生涯忘れそうにない。彼の主が帰ってきた時にでも彼がそれを告げれば、一人の例外も無く皆殺しだ。
「…………キリーヤ。お前、パランナが蹴っ飛ばした男達の事覚えてるか」
「はい。あの曲のせいか、一人死んでいましたね……」
「いや、あれはあの曲のせいじゃない……お前には酷な話かもしれないが、よく聞いて欲しい。信じて欲しい。俺はこの目で確かに見たんだよ、あの男達の悪行をな」
 時として現実とは向き合わなければならない。理想を実現する為であったとしても変わらない。クウェイはそれでも尚、逡巡。彼女すらも人間不信になるのではないかと不安に思ったが、ここまで前置きをしておいて話さないという選択肢はない。ゆっくりとした調子で、クウェイは語りだした。自分の見た、全ての光景を。
 全てを話し終わった時、彼女の瞳からは、一本の涙がとめどなく溢れていた。
「嘘…………ですよね」
「嘘じゃない」
「嘘ですよ! だって皆さんとてもいい人で―――」
「じゃあお前は、あれか。お前はあの『烏』が狂ったとでも言いたいのか? それとも俺が狂ったと」
「違いますよ! そんな事は決して……只、それに納得しちゃったら、あの人達はッ」
「間違いなく死ぬだろうな」
 見張りをしているパランナが割り込む様に呟く。彼女の好感度を上げようと思っているにしてはあまりに無慈悲な発言に、クウェイは少々呆気に取られてしまった。
「パランナさんまで……!」
「話は今聞いた。お前が望むんだったらどうにかしてあの魔人を探して元に戻させるんだが、元に戻した所で結末は変わらないぞ。それでもやるか?」
「………………」
 やった所で意味は無い。どんなに取り繕った所で彼等の過ちは消え去らない。この数年間でキリーヤも少しは成長したので、ここで意味も無く『やりましょう』とは言わないし言えない。だって、それは救いじゃないから。
 何かを言わなければならない。しかし何を言えばいいのか分からない。言葉を出しかねる少女に、パランナは不気味なくらい優しい口調で尋ねる。
「……多分。この状況を解決出来る方法は一つだけ。あの人間達が殺されない方法はそれだけだろう。問題点として、一言でも言葉を誤ったら失敗してしまう可能性が懸念されるが、やってみるか?」
 呟き一つ、彼女の意思は塗り替わる。どうにも彼を信じ切れないクウェイとは対照的に、キリーヤは力強い首肯を返した。


 

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