ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

 男として取るべきは 後編

 料理が出来ないというのは、やってみて出来なかったという事―――言い換えれば、苦手だったという事だ。一方で料理をした事がないというのは苦手という訳ではなく……単純に何らかの理由でそれをするに至らなかったという事だ。当たり前の事だが、そもそもやった事が無いのであれば出来る筈が無い。外観だけ見れば出来ないのは一緒なので、『出来ない』と『した事が無い』は同義であるという勘違いは多くの人に見られる。
 しかしこの二つは、近いようで全く対極の存在である。
「なあレンリー。これ何か美味しそうじゃないか? ほらこの魚の―――」
「ええ、ツェートったら何を食べようとしてるの……? それよりかはこれの方が―――」
「ツェート君、レンリーちゃん! これいいと思うんだけどッ」
 料理をした事がないモノは、日常的に食す料理に一切の興味を持っていない。彼等はオールワークや自分と共に決して少なくない日数を過ごした筈だが、彼女がどんな料理を作っていたか、それはどんな調理法で仕上げられて、どんな食材を使っていたか。全て忘れている。美味かった事だけは覚えていてもそれは舌の記憶であり、現在重要になっているのは頭の方の記憶。しかし料理などした事が無い彼等がそんな記憶を頭に留めている筈もなく、結果は御覧の有様だ。オールワーク抜きでどんな料理を作るべきか、オールワークがどんな料理を作っていたかが主題だった筈なのに、いつの間にか過去に作られた事のある料理の絵を見て(オールワーク曰く、完成された料理の記憶を刻んでおきたいのだそうだ)、どれが美味しそうかという話になっている。
「……えっと、お前達。何やら話題が逸れていないか?」
 普段ならば無視なんてされる筈が無い。しかし美味しそうな料理を目の前に気持ちの高ぶった三人に、アルドの声は届いていなかった。当然の様に無視されて、意味の無い議論は続く。
「そもそもこれ、本当に料理か? あまりにも美しすぎて、俺には芸術か何かにしか見えないんだけど」
 その芸術を一週間近く食していたのは、紛れもない自分達である。そしてツェート達が見ているのは実物ではなく絵である。
「うーん、作り物なんじゃないかしら? ほら、あまりにも精巧で……みたいな」
 確かに作り物だが。嘘は言っていないのだが。
「―――ねえツェート君。そもそもどうしてこんな話になったんだっけ? 『俺の記憶が正しいんだったら皆で料理しようって話だった』……って悪魔さんが言ってたんだけ―――」
「良く言った、エルアッ」
 昨日の敵は今日の友。あの悪魔に手助けをされるとは思ってもみなかった。やはり奴を助けておいて正解だった。実は少しだけ不安に思っていた部分もあるが、今回の事でそれは解消された。
 あまりにも場違いなアルドの大声に、三人は驚いたように背後を振り返った。
「お前達の話がどんな風に流れてそうなったかは知らんがな。幾ら何でもおかしいとは思わなかったのか? 一体どんな話の流れになったら今まで食べてきた料理が作り物だ、芸術だなんて言えるのか……オールワークが居ないからって好き放題し過ぎだぞ」
 どうせわざとだろうが、先程悪魔はこう言った。『……教える訳ないだろ、アルド。宿主を利用して見透かそうとするのは勝手だが、こっちは口止めされているのだ。少しは空気を読め』と。重要なのは『口止め』の部分。つまりあの二人はオールワークに関連する出来事を、恐らくは本人から口止めされている。そう考えればツェートのあの下手くそな話の逸らし方にも納得が行くし、そうであるのなら彼の『後から来る』という発言は嘘ではない。
 ……問題は無い、この三人が料理をした事がないという事実を除けば。
「後からオールワークが来るとは、ツェータの言葉だ。だったら彼女の苦労を少しでも軽くしてやれるように準備するべきなんじゃないのか?」
 かなり自信を持って言った正論は、三人の心に深く刺さった……様に見えた。真の意味は『オールワークに食事の支度を頼まれているならさっさとやるべきだろう』だが、流石にそこまで読むような輩は居ない。もしもアルドの言葉をここまで深読みするような輩が居るとすればそれは悪魔のみだが、その悪魔も手助けの様を見る限りではこちらの真意をバラす気は無いので、安心である。
 三人から幾つかの絵を取り上げて、適当に見てみる。レシピや調理法は裏には書かれていない。一枚の紙に纏めた方が分かりやすいと思うのだが―――取り合えず、その辺りの引き出しを漁ってみるか。
「お前達もレシピも探してくれ。流石に絵だけを参考に料理は作れないだろう」
「え? むしろ料理って絵を見て作るもんなんじゃないのかッ?」
 素で無知を晒す青年の言葉に、思わず包丁に顔を突っ込みそうになったのは内緒だ。
「……それが出来たら達人だ。私達は素人だから、大人しくレシピを見るぞ」
「ねーアルド! レシピってこれかな? 魚と竜肉…………って奴!」
「多分それだ。机の上に置いておけ。私も今探している」
 料理するにあたって、必要のない棚や引き出しがあまりにも多い事に違和感を覚えたが、どうやらこの部屋は厨房の他にも何か別の役割を持っているらしい。包丁の収納された棚を閉じて一息。それから隣の棚や引き出しなんかを見てみると、それが良く分かる。一つの部屋に二つの役割を持たせるなんて聞いた事も無いが……帝城を建築する際についでに拘ったのだろうか。
「ふーむ、無いな」
 ナイツや侍女の私生活には基本的に不干渉を貫いていたのが仇になったか。これでは食事の支度をするまでに夜の帳が下りてしまう。因みに今は夕方で、食事の支度がもう少し円滑に進んでいれば夕餉と言えたのだろうが、この調子では夕餉ではなく夜餉である。いや、そんな単語は存在しないが
(語弊の無い様に言えば、夕餉という単語がそれを兼ねている)。
「なあ先生。俺、思ったんだけどさあ。もうこれで良くないか?」
 背後で机の軋む音がした。モノ探しに飽きたツェートが腰でも掛けたのだろう。引き出しを閉じて、隣の引き出しを覗いてみる―――無い。というかここは魔導書の収納場所だ。一体この厨房はどうなっている?
「……また絵の話をするつもりなら、お前の記憶力を疑うことになるが」
 絵を見るだけで料理は作れないという流れは、ほんの数言前に起きた流れだ。過去には違いないがあまりにも最近であり、流石に『忘れていた』で片付くような問題ではない。自分の弟子の記憶能力に深刻な問題があるとは思いたくないものだ。
 こちらを振り返ったアルドに呆れた目線をぶつけられたツェートは、「違うよ!」と言ってこちらに紙を突き付けてきた。机の上に置かれていたのでエルアが見つけたレシピだろう。『竜神魚と炎竜』とだけ書かれた紙には、簡潔に手順が描かれている。
「見る限り複雑な調理方法は使われてないみたいだし、この食材って確か―――貯蔵庫の方に一杯あったし」
「どうして貯蔵庫の中身を知っているかについて尋ねたい所だが……確かにそうだな。私もこれぐらいだったら、出来そうだ」
 焼く、切る、煮る、炒める……それくらいだったら流石に出来る。ツェートの言う通り、この料理には複雑な調理方法が使われていない。料理経験皆無の者が居たとしても、これくらいだったら流石に難なくこなせるだろう。この手順通りに作ったとして、一体どんな料理が出来上がるのか分からない事が唯一の不安だが、それも料理の楽しみの一つと捉えれば何の問題は無い。
「よし、そうと決まればさっそく準備だ。ツェート、レンリー。お前達は貯蔵庫の方から食材を取って来い。エルアは私と一緒に道具の準備だ」
「はーい!」
 エルアは真っ直ぐ片手を上げて、嬉しそうに笑う。














 一般市場にはあまり出回っていなかった為に夜まで掛かってしまったが、遂に手に入れる事が出来た。あの人は今日が何の日かをすっかり忘れているようなので、これを渡せば驚くこと間違いなしだ。
―――ふふふ。
 これのお蔭で彼等に仕事を押し付ける事になってしまったが、きっと彼等ならばやってくれるだろう。何、あれだけの人数が居るのだ、まさか失敗するような事はあるまい。オールワークは幾輪もの花を胸に抱えながら、主の待つ大聖堂へと歩みを進めていた。幸運な事に、今回は風が吹いていない。花弁が失われる事も無いし、この首飾りが砂塵で汚れる事も無い。
 それにしても、どうしてあんな事をしてしまったのだろう。あれではアルドも驚いてしまう。接吻というのは、もっとこう段階を踏んでから至るモノであって出し抜けにする行為ではない。なのに、どうしても抑えられなかった。アルドの指に嵌められたあの指輪が、気になったのだ。フェリーテやメグナ、ファーカ辺りに尋ねてはみたが、知らないという。それではあの指輪は一体? 彼の女性関係はそれなりに把握出来ていると思ったのだが、どうやら彼の周りには自分も知らない女性が居るらしい。
 これを嫉妬と呼ぶのならそうなのだろう。自分は今まで一歩引いた所からアルドに尽くしてきた。命を賭した末に繋がったナイツとの絆に勝てる訳が無いので、アルドと彼女達の親睦が深まっても、オールワークは何も言わなかった。自分は侍女に過ぎない存在、あるじに自分だけを見てほしい等という願いは傲慢でしかない。脇役が主役と結ばれる物語は存在しない。主役は主役と。物語で無かったとしても、この世界にはそういう摂理がある。
 なのに自分は、それを破ってしまった。愚かにも彼に接吻をしてしまった。アルドが怒っていないのであれば無問題である、という意見もあるだろう。あれをした事でアルドがオールワークを意識するようになったという意見もあるだろう。その意見を間違っているとは言わない。
 問題は己の立場を弁えなかった事。確かにアルドが意識をしてくれるようになったのであればそれはそれで良いのかもしれないが、少なくともあの行為は侍女としては完全に間違っていた。くどいようだが、自分は一介の侍女に過ぎない。そんな自分が取った行動は、あまりにも出過ぎていた。
「…………」
 不安だった。これを渡したとしても、喜んでくれないのではないか。それ処か以前のキスの件を追及されるのではないか。自分の気持ちを抑えきれなかったばかりに取った行動のツケが来たと考えれば納得が行くが、最悪だ。出来れば何の悩みも無い状態で渡したかったのだが。
「考えていても仕方ないですね」
 言葉では分かっていても、悩まずにはいられない。既に大聖堂には辿り着いているというのに、その扉はとても重い様に感じた。食事の支度は既に終わっている頃だろう。そんな時に帰ってきて、自分は一体どんな顔をして入ればいいのか。
 扉の前で深い深呼吸を二度程した後、オールワークはゆっくりと扉を押し開けた―――
「おいツェータッ。私は焼けと言った筈だが!」
「え、焼いたろ? ほら、真っ黒だ」
「誰か原型すら留めない程に焼き尽くせと言ったんだッ。お前ワザとだろ、なあワザとだよな? 真っ黒い料理なんてオールワークは作らなかっただろ! ああー見ろよお前。エルアやレンリーがせっかく丁寧にやってくれた下準備が全て台無しだぞ。どうするんだよこれ」
「食べればいいんじゃないかな?」
「食べられるか!」
 滅多に声を荒げないアルドが、呆れた様に叫んでいた。大聖堂の扉の開閉音も大概大きな音だが、現在進行形で大変な事に巻き込まれている者達には聞こえなかったようだ。少しだけ騒ぎが収まるのを待ってみたが、自然に収まったかと言えば―――
「お前大体これ何個目だよ。三回も同じ失敗して、私も三回同じ指摘して、何故まだ直らない? 何処かで耳をおかしくしたのか?」
「いやいや! だって先生言ってたじゃんか。何事も全力で挑めって!」
「いつ言った。大体これを料理に全力で挑んでいるとは言わないだろ。でなきゃ三回も同じ失敗をする訳がない。これは……あれだな、おふざけに全力を懸けて……って違うだろッ」
「大体先生が悪いんだよ。俺に調理何か任せるから―――」
「人のせいにするなッ。それに私は別の調理をしていたからな? そちらにまで手を回せる訳が無い」
 ……どうやら、ツェートが『焼く』工程においてやりすぎたから、全てが台無しになってしまったらしい。ここまで早口なアルドも見た事が無い。当人は責任転嫁までするなど、全く反省している様子は見られないが。




―――ありがとうございます。


 意図的なモノではないのだろう。だが好都合な状況だった。どんな顔をして入ればいいかなんて決まっている。今、この時だけは、自分は……
 オールワークは足に力を込めて、厨房へと飛び込んだ。








 たとえアルドを含めた数人が集まろうとも、オールワーク一人分の働きも出来ない事が今日分かった。ツェートがやらかした食材の処理、新たな食材の準備に調味料の準備。そして調理開始から終了を含めても僅か十五分。手慣れた手つきで対応するオールワークは、とても格好良く見えた。エルアやレンリーは食い入るようにその手つきを見ていたが、果たして彼女達にその動きを捉える事が出来たのだろうか。少なくとも自分には出来なかった。
「…………」
「………………」
 結局食事はオールワークが作ってくれた。自分達は何も言わずに席に着き、それを食べた……何だろう、この気まずさは……頼まれた事を守れなかった時のような、この期待を裏切ってしまったような気持ち……何とも言えない。
「ねえアルド。どうしたの、怖い顔しちゃって」
 エルアにはまだ感じ取れないのだろう。この無言の圧は。オールワークは何も言っていない。何も言っていないが、怒っている。先程まで彼女の手つきを見ていたレンリーですら、顔を強張らせて無言を貫いているのだから間違いない。
「……アルド様」
 名前を呼ばれた事に驚き、アルドは思わず敬語で反応してしまった。
「は、はい」
「話があります。少し外に出ませんか?」








 誰が考えたのかは知らないが、この大聖堂には一つだけ特殊な仕掛けが存在する。玉座の後ろにある壁に魔力を流し込むと、階段が出現するのだ。アルドが最初に見た時は埃を被っていたが、どうやらオールワークが掃除したらしい。誰が使っている訳でも無いのに随分と手入れが行き届いている。
「どうして呼び出されたか、分かっていますか」
 ここは幻の二階。最初こそ埃以外に物の見当たらない殺風景な部屋だったが、オールワークが改装した結果、天井が抜けて夜空が良く見えるようになっている。砂塵が入ってこないのは、魔術障壁か何かを張っているからだろうか。
「ああ……その、何だ。アイツらにも悪気は無かったというか、単純に経験不足だったんだ―――本当に申し訳ない」
 アルドは深々と頭を下げて、目を瞑った。責任者が怒られるのは至極当然の事である。侍女に魔王が怒られるという何ともなさけない構図ではあるが、ここは甘んじて受け入れよう。
「…………顔を上げてくれますか、アルド」
「……え?」
「今回はそんな事で呼び出したんじゃありませんから、ですから顔を上げて下さい」
 声音を誤魔化して結局叱るという方法は良く使われるが、二人きりのこんな状況でそれをする意味は無い。彼女の声音が優しいのは、きっと嘘ではない。恐る恐る顔を上げると、眼前には口元を綻ばせているオールワークが、こちらに花束を差し出していた。
「誕生日おめでとうございます、アルド」
「……誕生日?」
「貴方が魔王になった日の事。さ、受け取って?」
 勝利の花ナスタチウム。丸い葉を盾に、赤い花を血に染まった鎧に見立て、敵国や困難に立ち向かう姿勢を表しているとも言われる花。その中に込められた言葉は―――勝利。つまり『勝利ワルフラーン』。まさにアルドを表していると言っても過言ではない花は、受け取ってみると随分と重たく感じた。
「……ありがとう。とても嬉しい……が。さっきの事は怒っていないのか。私は無言の圧を感じていたが」
「正直な事を言うなら、確かに怒ってはいましたけど。まあ解決しましたし、細かい事を気にしても仕方がないでしょう。それに、アルドも聞きたい事があるんじゃないですか? ……その、私に」
 オールワークが示したそれは、アルドがこの一週間悩み続けたものだ。間髪入れずにアルドは答えを示す。
「……何故、あの時にキスをしたんだ?」
 オールワークがそんな事をする筈が無いと、オールワークはそんな事をする奴では無いと。そう思っていたから、アルドは今までずっと動揺していた。今までずっと悩んでいた。情けない話だが、理由の分からない行動に、自分はずっと不安を覚えていたのだ。
「……指輪です。アルドがしているその指輪。それを見た時に私は動揺してしまって……嫉妬、と言ってもいいかもしれません。私は怖かったんです。アルドが私の知らない女性と仲良くなっている事に。私の目の届かない所で、アルドが動く事に。それが侍女としては最低の行為だったとしても、私は抑えられませんでした」
「―――だから、キスをしたのか?」
「……はい。その通りです」
 最早一種の束縛である。アルドに絶対の忠誠を誓っているが故に、その主に見えない所で動かれる事を嫌うのは。だからオールワークは玉座を降りても尚アルドに付いてきた。今度こそ主の交友関係の全てまで、把握する為に。
 なのにアルドは指輪をしていた。ナイツの誰も関与していない指輪を嵌めていた。それが嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で―――気付いた時には体が動いていた。アルドの唇を奪っていた。
 言い訳はしない。そういう思いからそういう行動に至ったのは事実だから。
「―――成程。だったらまずその思いを解消しようか。これは妹から貰った指輪で、私に生きていてほしいという願いの込められた指輪だ。女性関係……というより、家族関係だな。だから安心してほしい。お前の知らない女性と仲良くなっているなんて、これからも永久にあり得ないとは言わないが、今回ばかりはそんな事は無いと言っておこう」
「…………そう、だったんですか」
 言葉を一旦切って、アルドは続ける。
「私の方からも謝らせてくれ。お前の事をずっと誤解していた……いや、イメージを押し付けていた。お前が出し抜けにキスをするような輩ではないと、そう思い込んでいた。お前が話してくれた理由は、『衝動的』の一言で片付くが―――お前だって一人の女性だという事を、私はすっかり考えから外していた。衝動的にキスをされたとしても、私は悩む必要など無かったんだ。お前をよく見ているようで見ていなかった事を……この一週間で良く理解させられたよ」
 何となしに夜空を見上げてみる。メグナの時の様に花火が打ち上がるような事は無く、部屋の何処かに黒い羽根が落ちている訳でも無い。今は正真正銘の二人きり。アルドとオールワークしか居ない、二人だけの空間。
 脇役も観客も居ない、二人だけの舞台。
「……なあ、星を見ないか?」
「え……? どうしたんですか、急に」
「……『俺』はお前を見ていなかった。お前は私の女性関係を疑った。どちらかと言えば私の方が悪い気もするが、ここは両成敗って事で、水に流したくてな。駄目だったか?」
「……分かりました。それでは今回の事は―――キャッ!」
 目を瞑って頷いた―――直後。突然何かに手を引っ張られて、オールワークは床に引き倒されてしまった。見上げれば綺麗な夜空があり、横を見れば見覚えのある手が自分を掴んでいる。
「天井が抜けてるんだ。こうした方が一番見えるだろ」
 アルドの手は、自分の手を掴んで離そうとしなかった。その目線は常に夜空へ注がれて、地上の風景など気にも留めていないようなのに、自分の手だけは、骨が軋む音がする程強く掴んでいた。彼が力を緩めない限り、オールワークはこの場所から動く事は出来ない。
 しかし、不思議と悪い気分はしなかった。彼と一緒に床に倒れて、夜空を見上げる。それだけで全てが、どうでも良くなった。
「風が無いなんて珍しいな。お蔭で綺麗な夜空が見える訳だが」
「…………アルド。覚えていますか、私にこの首飾りをくれた時の事」
「―――勿論だ。お前がまだ付けている事に気付いた時は驚いたぞ。何せあれはジバルで買ったモノ。お前を守るという意味を込めた首飾りなんだから」
 首飾りそのものは至ってシンプルで、小さな鎖の輪に星が掛かっているだけ。効くか効かないかも分からないので、とっくに処分していると思ったのだが。彼女は自分に付いてきた時からずっと、これを付けていた。まるでとても大事なものであるかのように、肌身離さず付けていた。
「リシャにも同じモノを渡した気がするが、結局アイツは死んでしまった……別に、捨ててくれても良かったのだが」
「最愛の人からの贈り物を捨てられる程、私は自分の気持ちに嘘は吐けません。今回の事でそれが良く分かりました」
「……そうか」
 階段を登り切れば仕掛けは閉じる。ツェート達が何処を探そうとも自分達は見つけられないだろう。知っていなければ玉座の裏など触らないし、彼等はまだ一階の部屋も把握できていないのだから、それは確信を持って言える。
 邪魔者は入らない。環境は良好。後は自分次第だ。
「…………………………オールワーク。私は―――」
「アルド様、物語の原則をご存知でしょうか」
 お前の事を、愛していると。そこまで言う事が出来ればどれだけ良かったか。タイミングの悪い事に、自分の言葉はオールワークの疑問に遮られてしまう。
「……は? いや―――知らないが」
「主役は主役と結ばれなければならないというだけの事です。当たり前でしょう? 囚われの姫様を助け出した勇者は、たとえどれ程彼を想う女性が居ようとも、姫と結ばれます。脇役の想いなんて、追及すらしないまま」
 物語に起伏を持たせる為にそうなるのは当たり前だ。『姫を助けてもその姫とは結ばれずに、程々の人生を送りました』なんて締められても、聴衆は全くもって面白くない。それでは刺激が足りない。
「それが、どうかしたのか?」
「―――今だけでいいんです。ナイツの皆様に勝てる筈が無い事は、私も良く分かっていますから。それでも今だけは……私を主役にしてくれませんか」
 脇役に焦点は当たらない。主役と主役が交差するのが物語。それを華やかにするのが脇役。それ以上の価値は無いし、それ以下の価値も無い。
 しかし……脇役に焦点が当たらないのは、飽くまで本編の話だ。それが外伝であるのなら話は別。勿論所詮は外伝。本編より長く続ける事は出来ないし、もしかしたら一編限りかもしれない。でもそれでいい。これは一夜の夢。オールワークの想いが引き起こした奇跡。日が昇れば溶けて消え去ってしまう程度の幻想。
「……具体的には?」
 アルドは体を起こして、彼女を引っ張り上げる。立ち上がった彼女はキスへの配慮か、喉元のボタンを外して、軽く晒した。
「―――キス、してください。唇でも構いませんが……その。アルドがしたい場所に」
 キスをする部位には様々な意味がある。髪の毛は思慕、おでこは友情と言った具合で、キスをする部位によって伝えられる気持ちは様々だ。唇は勿論愛情だし、首筋は執着。他の部位にも意味はあるが、太腿や胸は流石に抵抗がある。してくれと頼まれればしたかもしれないが、今回はアルドの自由意思に委ねられているので、その部位は選択しようにも出来ない。
 ゆっくりと彼女に近づいて、腰と背中に手を回す。いつまでも女性を待たせるのは失礼だ。自分が彼女の事をどう思っているのか。心の赴くままに、自然のままにすればいい。
「……………………………オールワーク」
 アルドは。
「私は」
 ただ彼女への想いの流るるままに。
「どんな存在にもお前を渡すつもりはない。愛している」
 彼女の喉に、噛みつくように深いキスをした。






















 これは一夜の物語。日が昇れば溶けて消え去る程度の幻想に過ぎない。それでも確かに、青年達は見たと言う。
 アルドに抱き締められながら、その胸の中で幸せそうに眠る彼女の姿を。

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