妖精の羽

ささみ紗々

着信音

うーん……いくら考えても思い出せない。プリントの内容だったか。いや違う。プリントの内容は覚えている。
俺は国語の教科を担当することになっている。一年生の現代文を全クラス。1組から4組まである1学年の授業では、一日に必ず一回はどこかのクラスで授業を持つ。
今から作るつもりなのは、授業の進め方のプリント。オリエンテーションで説明する時に必要になる。授業に持ってくるものや、課題についてのことを書かなければならない。


お弁当を食べ終わり、俺はパソコンへ向かう。
「国語科 現代文 オリエンテーション」
と入力し、頭の中で決まっていた文章を素早く打ち込んでいく。イラストを添えて、完成すると、コピーの項目をクリック。
コピー機の前に立ち、プリントが出てくるのを待つ。
ふと、さっきの衝撃を思い出す。俺はあの衝撃の前、何を考えていたんだろう?
コピー機の前で唸っていると、俺の隣に1人の中年男性が現れた。

「や、新人先生!わかんない事があったらなんでも聞いて下さいな」
陽気な話し方をする中年男性を、誰だったか思い出す。
「あぁ、坂本先生?」
「あぁってなんですか、まさか忘れてました?」
「そんなまさか、忘れるなんてそんなこと!これからよろしくお願いします」

目の下にほくろがあるくっきり二重の坂本先生は、下の名前を裕次郎という。紹介の時に1年部の国語の先生だと言っていたので覚えている。なんだかかっこいい名前だと思ったが、顔は中年男性だ。中年の中の中年。俺もこうなるのだろうか。
優しそうに頬を緩めて笑う坂本先生につられて、俺も愛想笑いをする。

坂本先生は古典の担当だった。既に出来ているプリントを見せてもらうと、手書きの勇ましい字で書かれた文が目に入った。
プリントの右下に描かれた自身の似顔絵は、なんともそっくりだった。黒縁メガネの奥に笑う優しそうな目、ほくろもしっかり描かれていた。

「おやそう言えば」
と言って、坂本先生は俺の肩を叩く。
「君、あの春山柊二君?」

あのってどういう事だろうと思い、俺は首を傾げる。

「いや、この前の紹介の時から聞いてみたかったんだ……君、あのほら、山で遭難した?」
おずおずと聞いてくる坂本先生の言葉を受けて、俺はまた鈍い痛みを感じた。
「山……?」
山なんて、いつ行った……?
「いえ、多分、人違いでは?」
そう言ってやり過ごす。
「そうか、わかった」
納得した坂本先生は、軽く手を挙げて自分の席へ戻っていった。


確かに一ヶ月前、芳樹と潤と陸人と山へ行く約束をした。計画の実行日は一週間ほど前。そういえば、あの計画はどうなっているんだっけ……?
ぐるぐると思考が回る。
そういえば俺は、どうして潤と陸人の事、下の名前で呼ぶようになったんだっけ?
考えれば考えるほど謎が深まるばかりで、仕事になりそうもないので、俺はとりあえず体育館の前の自販機でなにか買うことにした。

130円を投入し、冷たいブラックコーヒーを買う。タブをあけてゴクリ、一口含むと、苦い風味が鼻と舌を刺激する。やんわりと広がっていくコーヒーの味は、俺の思考を一気に仕事へと戻させた。
職員室まで歩いて戻る。
ふと、校門前の石垣が目に入った。花が咲いている。淡い桃色のシャクナゲの花が、こっちを見てとでも言うように揺れていた。


「あぁ疲れた……」
仕事を終え家へ戻った俺は、ソファに転がる。
住んでいるのは地味なアパートの一室。簡素な部屋の中で、このソファだけが特別だ。俺が初めて貰ったバイトの給料で買った、革のソファ。ここだけムードが段違いなのは仕方ない。
そのままソファの上で寝そうになる。
プリントを作り終わった後に坂本先生に誘われ、居酒屋に飲みに行ったのだ。
坂本先生は酒に強くて、何杯も何杯も勧めてきた。まさか学校が始まる前に誘いがあるとは。

「いやぁ、ニュースみてたかい?卒業旅行で山に行った学生が1人だけ遭難したっていう、あれ。3日後に戻ってきたんだって。よく生きてたよねぇ」

坂本先生が飲みの場で語った。

「その人が春山先生と同じ名前だったんだよ。でも春山先生じゃないみたいだし…偶然もあるものだねぇ…」

「卒業旅行で遭難したなんて、なんとも不幸だよね。まぁ生きてたのが不幸中の幸いっての?
色々物騒な世の中なんだから、先生も気をつけて下さいね」


こんな偶然が、普通あるか?
卒業旅行で山へ行ったら、遭難した男性。名前が俺と同じ?そんな事があるはずない。しかもその山は、俺たちが行こうとしてた山と同じ。出来すぎてる。
もしかして俺は、山へ行ったのか……?
「いや、そんなはずない。そんな記憶無いし!」
頬をパンと叩いて俺は現実に戻る。

♪ピロリロリン

無音の殺伐とした部屋に、軽快なメロディが流れた。LINEだ。携帯を起動し、中身を確認する。
通知の欄に、懐かしい名前があった。

「やっほ、久しぶり。元気にしてる?
突然でゴメンなんだけどさ、近いうち会えない?」

絵文字も何も無い文章に、俺の心臓は跳ねた。今更、なんだというのだ。眉をしかめる。
しかし……なにか大事な用があるのかもしれない。本人はもうあの頃のことなんて気にしていなくて、本当に何か、大切な用が。

「あぁ、いいよ」

たった十文字にも満たない言葉を打つ。送信するのに無駄に時間がかかった。送ろうか、送りまいか……悩んでいるうちに右手の親指が送信ボタンを押していた。

笹原梨乃、俺の、元カノ。

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