ムーンゲイザー

Rita

満月

あれは私が15歳になったばかりの夏だった。

巨大な満月が宙に浮かんでいた。

まさに目の前に「立ちはだかる」という言葉がぴったりのすごい月だった。

「すごい」
私は圧倒され、ジョギングをしていた脚を止めて思わず一人で呟いていた。

いつものジョギングコースのゴールにしている疎水沿いのベンチは高台になっていて、眼下に大学のグラウンドが見下ろせる。

このベンチに座ってボーっと夜空を眺めながら、一息つくのが日課だった。

いつもは誰もいないベンチにその日はすでに先に誰かが座っていた。

よく見ると、自分と同い年くらいの男の子が膝を抱えた格好でベンチに腰掛け、月を見ていた。

月明かりに照らされた彼の頬にはひとすじの光が見えた。



彼は泣いていた。



とても静かに。



辺りは真夏の夜の生あたたかい空気に包まれていた。

野球の練習の音が遠くから聞こえる。


男の子がこんなに綺麗に静かな涙を流しているのを私は初めて見た。


鼓動が速くなる。

見てはいけないものを見てしまった、
すぐにその場を立ち去るべきだ、
と頭では思ったのになぜか動けなかった。


とてつもなく大きな満月を見ながら美しい涙を流しているその男の子をずっと見ていたいと、私の心は言うのだった。


彼は白い半袖のシャツにジーンズという出で立ちで、
前髪は目に少しかかるくらいの長さだった。


しばらく立ちつくしていると、男の子はこちらを見た。


前から見ると、横顔とはまた印象が変わり、
幼く可愛いらしい顔をしていた。


目はきらきらと輝いていて、色白の肌に形のいいピンクの唇が女の子みたいだな、と思った。

彼は私に気づくと、ハッと我に返ったような顔をしてゴシゴシと涙を腕で拭った。

その仕草は小さい男の子がよくするような感じだった。


早くその場を立ち去らなきゃ、と思ったのに
私はまだ動けず、彼を見ていた。


「あの、、なんか、、顔、変ですか?」
と彼は言った。


その言い方は決してきつくはなく、ちょっと困ったような、優しい感じがした。


今度は私がハッと我に返る番だった。

「あ、ごめんなさい。
そんなんじゃなくて、、
あの、、」

自分でも何を言っているかわからなくなった。

鼓動はどんどん速くなる。

「あ、ごめん、このベンチ座る?」

彼はさっと立った。

「いえ、別にそういうわけじゃ、、、
座っててください。
私の席ってことでもないので、、ほんとに、、」

完全に気が動転していた。


「ずっと立ってるからさ、
座りたいのかなって思った。」

「そのベンチ、いつも誰も座ってないから珍しいな、って。」

「あ、そっか。
今日は先約がいたってことだね。

じゃあ、よかったらシェアしませんか?」

彼は少しほっとしたような顔をして、どうぞ、という風に手を広げた。

にこっと口角を上げた彼はさっき泣いていた時の印象とは全く違う。

初対面の男の子と夜にこんな近い距離で座ってもいいのかな、という思いが一瞬よぎったが、
彼の声にはなぜか安心感を感じた。

「じゃ、失礼します。」
と言って私は彼の隣にぎこちなく座った。

「今日の月、すごい、ですよね。」

彼は少しはにかみながら言った。
ぎこちない敬語に可愛らしさを感じた。

彼の横顔には不思議と惹かれるものがあって、私はつい見入ってしまった。

すると、
「いも満月って知ってます?」
と彼は言った。

「へ?いも満月?」
男の子の意外な発言に少し驚いて、咄嗟に出た自分の声がマヌケだったので吹き出しそうになった。

「うん。いも満月。
いもかりんとうみたいなお菓子。
今日の満月はまん丸で、つやつやしてて、いも満月みたいだなって。」
屈託のない顔で男の子は笑った。


子供みたいに笑った顔がほんとうに楽しそうで、
思わず私も一緒に笑って言った。

「知ってます。
今日の満月、確かに似てるかもしれない。」

一気に距離が縮まったような気がした。
心がどんどんほぐれていく。

なぜだろう。
初めて会った気がしないのだ。
少し鼻にかかる低くて優しい彼の声には安心する何かがあった。


疎水沿いの緑が鬱蒼と茂る小さな歩道に2人以外は誰もいなかった。


遠くで野球の練習をしている音だけが聞こえる。

とても静かな夜だ。



「それにしても蒸し暑いなぁ、今日は。
なんか飲みません?」

男の子は近くにあった自動販売機のジュースを買った。

お金を持ってきていなかった私はどうしようか、
と困っていたら、彼はもう一本買って差し出してくれた。

「いいよ、そんな。
初めて会った人にお金なんか借りれないですから。」
私が遠慮していると、

「じゃあ、俺が間違って2本買っちゃったってことにしましょう。はい、どうぞ。」
そう言うと、男の子は私に同じジュースを差し出した。

うーん、何かよくわからない理論だけど、
まぁいいか、と思いながら私は男の子と一緒にベンチに座った。 

ジュースは炭酸飲料で、開けるとプシュッという音がした。

それはカラカラに乾いた私の喉を潤してくれて、一瞬で体が生き返ったようだった。

「おいしー!
炭酸飲料ってこんなに美味しいんだ!」
私がバカみたいに感動していると、

彼は楽しそうに
「満月の夜に乾杯!」
と言って、缶を持っていた片手を少し上げた。

「乾杯!」
彼の臭いセリフに少し恥ずかしくなったが、嬉しくなって同じ格好をした。

なんだか不思議だ。
小さな頃から引っ込み思案な性格で、クラスの男子ともまともに話せなかったのに。

この子とは普通に話せたのだ。
初めてのことだった。

「いやー、ほんとすごい、今日の満月。
見てたら吸い込まれそう。」
彼がそう言ってジュースを飲みながら目を細めた。

「ほんとに。
これが本当にお菓子のいも満月だったら、食べるのに何日かかるかな。」
この幼稚な疑問が自分の口からすらすら出てきたことに驚いた。

明らかに高揚していた。
これが月の魔力というものだろうか。

「はは。
それ、幸せな妄想!
俺は一生食べ続けられるよ、大好きだから。

食べた時に落ちたかけらが隕石みたいになって地球が大打撃を受けちゃったりして。」

「えー?
急に地球滅亡の映画みたいになってる。
もう少しかわいい感じがいいかな。」

そんなくだらない話をして2人で笑いあった。
楽しい時間だった。

10分くらい経った頃だろうか、彼は突然、慌てたように腕時計を見た。

「あ、やべ。もう帰らなきゃ。
今日は楽しかったです。
一緒に月を見てくれてありがとう」

と言って、笑いながら首を傾げるように軽く頭を下げた。

その言葉と仕草があまりに可愛らしくて、 
胸の奥で何かがキュッと掴まれたような、 
そんな不思議な感覚がした。

生まれて初めてだった。

「こちらこそ、ありがとう。
楽しかった。」
と私も笑った。

「明日も来る?」
と聞こうとした時、

「じゃ、行くね!」
と、彼は自転車にまたがって急いで行ってしまった。 

余程、急いでいたのだろう。
ものすごいスピードであっという間に見えなくなってしまった。

あ、名前も聞いてなかった。
どこに住んでるんだろう?
どこの学校だろう。 

そもそも、中学生なのかな、それとも高校生なんだろうか。
男の子だけど、門限のある厳しい家なのかしら。

私の頭は不思議な少年のことでいっぱいだった。

どうして泣いていたのだろう。
悲しいことがあったのかな。

彼のことを考えながら、とぼとぼ歩いて帰路に着いた。

歩くだけでもドキドキしていて、到底走れなかった。

胸の鼓動は寝る前まで速いままだった。

それが恋の始まりだった。


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