ムーンゲイザー

Rita

名前

私は当時、中学3年生。

1学期で陸上部を引退し、暇な夏休みを持て余していた。

高校はレベルの高くない私立の女子高に行くことが決まっていて、そこまで勉強もしなくてよかった。

あまりにゴロゴロしていたので、あっという間に体重が増え、これではいけないとダイエットを始めたというわけだ。

夜のジョギングは夏休みも半ばに差し掛かった頃から始めた日課で、家から疎水沿いのベンチまでの往復40分のコースだった。


疎水沿いの遊歩道は春は見事な桜が咲き、夏は緑の濃い、なんとも気持ちのいいジョギングコースなのだ。

ゴールにしているベンチからは大学のグラウンドが見下ろすことができる。
そこで、少し休憩して家に帰るのがお決まりのパターンだった。

前の日に出会った、あの不思議な少年のことが頭から離れなかった。


彼のことをもっと知りたいと思った。


今日もし会えたら絶対名前を聞こうと、固く決意して私は家を出た。

疎水沿いに続く深い緑色のトンネルを少し早めのピッチで駆け抜け、淡い期待を抱きながらいつものベンチに着くと、あの男の子が膝を抱えた姿勢でベンチに座ってジュースを飲んでいた。
 
今日もいた!
私は嬉しくなって
「こんばんは。」と言った。

「こんばんは。」と彼も笑った。

「よかった。また会えて。
これ、昨日借りたお金です。
どうもありがとう。」

私はウェストポーチから小銭を取り出し、彼に渡した。

「別にいいのに。
でも、ありがとう。」と彼は受け取った。


自動販売機で昨日と同じ炭酸ジュースを買って、彼の隣に座り、ゴクッと飲んだ。
「はぁー!
やっぱり格別!
走ったあとの炭酸!
ハマりそう。」
私のカラカラの身体は一瞬で生き返ったようだった。

「ねぇ、名前を聞いてもいいかな?
あ、私は早瀬夕香子です。」
私はジョギング後の高揚した勢いで聞いた。

彼は嬉しそうに笑って言った。
「あ、俺も名前聞きたかったんだ。
ゆかこってどんな漢字書くの?」

「夕暮れの夕に香りの子。」

「すごくいい名前だね!
なんか上手く言えないけど、情景が浮かぶというか。
夕暮れって好きなんだ。」

「そんなこと言ってくれてありがとう。
平凡な名前だし、夕暮れってなんとなくさみしいイメージがあるから。
でもそんなこと言われたらすごくいい名前な気がしてきた。
君の名前は?」

「俺はツムギっていうんだ。
糸を紡ぐ、のツムギ。
漢字もあるんだけど、自分ではカタカナで呼んでる。」

「ツムギくんかぁ。
すごくいい名前だね。
私も上手く言えないけど、深い意味がありそう。
すごく似合ってる。しかもカタカナが!」

「でしょ?」

ツムギくんかぁ、、
イメージとぴったり合う名前で私は心の中で何度も呼んでみた。

そして自分のことを「俺」と呼ぶところに少しキュンとした。

「歳はいくつなの?
私は7月で15歳になったばっかり。
◯◯中の3年だよ。」

「じゃあ、俺と同い年だ。
4月で15歳になった。
でも学校はここじゃなくてもっと遠いところ。
今は夏休みで親戚のうちにいるんだ。」

「へぇ。
そうなんだ。」
心が少しチクッとした。
そうか、彼はもうすぐいなくなってしまうんだ。

ツムギはそれ以上、自分のことを話したくなさそうに思えて私は話題を変えた。

「今日も綺麗だよね、月。」

「うん、ほんとに。
昨日のはでっかくてすごい満月だったけど、今日のは落ち着いた月だな。」
と彼は目を細めて月を見ていた。

彼の横顔をずっと眺めていたかった。

目にかかる少し長めの前髪、こどものようにキラキラと輝く瞳、すっと通った鼻筋、茶目っ気のある可愛い口元。

ジュースを飲んだ時に上下する喉仏が大人の男の人みたいで、ドキッとした。

好きな人はいるのかな。

このことが気になっている自分に驚いた。

「あ、やべ!
またこんな時間!
君と話してたら時間が猛スピードで過ぎていくよ。」
と言ってツムギはまた急いで自転車にまたがった。


「ごめん!
明日もこの時間に会えるかな?」

そう聞かれて、私はすぐに
「うん!もちろん!」と答えて、慌てて立ち上がり、去って行くツムギの後ろ姿に手を振った。

もう少しツムギと一緒にいたかったが、
さっきの言葉を思い出すと嬉しくなって思わず顔がゆるんだ。

「君と話してたら時間が猛スピードで過ぎていくよ。」
これってどういう意味?
私と一緒にいると楽しい、ってことだよね。
なんにせよ、いい意味に捉えてよし、だな。

私の頭の中はツムギの言葉がリピートしていた。
「明日もこの時間に会えるかな?」
明日も私に会いたいってことだよね。

そんな自問自答を繰り返しながら、ゆっくり帰った。

名前が聞けたことが嬉しかった。

なぜだろう。
クラスの男子とはまともに話せない私が、
ツムギには心を開けるのだ。

それにしても、いつもちょっとしか会えないんだ。
親戚のうちはよっぽど門限が厳しいのだろうか。

ほんとのうちはどこなんだろう。

夏が終わると会えなくなるのだろうか。

初めて会った時、なぜ泣いていたんだろう。

湧き出てくる疑問にはキリがなかった。

それにしても今日の月も綺麗だな。
私は足を止めて空を見上げた。

今日は星もたくさん見える。


あれ、世界はこんなに綺麗だっただろうか。



この日も胸のドキドキは寝る前までおさまらなかった。


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