喫茶店リーベルの五人姉妹+1
第四話『水紋ちゃん、初めてのアルバイト』
「うんうん、水紋ちゃんの制服姿。かなり似合っているじゃないか。とっても可愛いぞ!」
「うぅ、桜先輩、そんなことを言わないでくださいよ。かなり複雑な気分なんですから」
桜先輩が締切日を乗り切って、少しだけ余裕が出来た。つまり、喫茶店リーベルが開業できる日が来たのだ。
やっと仕事ができるのだが、やっぱり制服は女物でかなり複雑。それに、前に見せてもらったものとちょっと違う気がする。特に……。
「桜先輩」
「どうしたの、目覚めちゃった?」
「そ、そんなことありませんよ! というか、この制服! スカートが短くなっているような気がするんですけど」
「うん、僕が切った」
「な、なんでそんなことするんですか!」
「なんでって……男の娘が短いスカートを履かなくてどうするのさ。見えそうで見えない絶対領域。女の子なら大丈夫なはずなのにちらりと見えてしまうふぐり。興奮せずにはいられない恥じらい。男の娘マニアなら喜ぶこと間違いなし。やったね、男の娘喫茶で一番になれるよ!」
「ここ、ただの喫茶店ですよね、そうなんですよね、なんですか男の娘喫茶って」
「メイド喫茶みたいなものよ……ふ」
「ちょ、遠い目をしてないではっきり答えてください!」
「それはそうとーー」
「スルーですか!」
なんたる自由人。真麻ちゃんに負けていない気がするよ。うう、短いスカート。僕は一体どうなってしまうんだろう。危ない道に進んでいる気がする。
いや、気がするじゃなく現在進行形で進んでいる感じだ、これ。いったいどうすればいいんだ。
あの姉といい桜先輩といい。なんで僕に女装を……。二人だけじゃないし、学校全体でそうだし、銭湯に言ったらそっちじゃないと言われて女子風呂に案内されるけど、じょ、女装なんて好きなんじゃないんだからね!
うう、普通の男の子に戻るにはどうしたらいいんだろう。まず第一に桜先輩の危ない道に進む計画を回避して、あの姉を警察にブチ込むぐらいのことをしなければいけないんだけど……さてどうするか。
うわ、なんか寒気がした。あの姉がろくでもないことを考えているに違いない。
「ちょっと、聞いてる?」
「あ、ごめんなさい……桜先輩が僕を危ない道に進めようとしている気がするので、どうやって回避すればいいか考えてました」
「いや、もう無理だけど? 大体水紋ちゃんは師匠によって教育されているんだから。普通の男の子に戻れるはずないって。普通の男の娘ならすでになっているけど」
「え、そんな、というか師匠って誰ですか!」
「水紋ちゃんのお姉さんだけど。僕はあの人のおかげで男の娘の漫画を描くようになったぐらいだし」
「あの姉の影響力は凄まじい……」
「それはそうと、さっさとしてよね」
「な、何をですか?」
「オープンまで時間があるとは言え、何も教えていない状態で本番なんて無理でしょうに」
「た、たしかに……」
「だから、まずはブレンドコーヒーでも入れてもらおうかな。それぐらいならできるっしょ。水紋ちゃんなら……」
「りょ、了解しました……」
桜先輩の指令でコーヒーを入れることになった。
簡単でしょとか言っているけど、コーヒーを入れるのはかなり難しい。バリスタの資格を持っていないけど、僕なんかが入れて大丈夫なんだろうかって不安がある。
でも、僕にだっておいしいコーヒーは入れられる。昔師匠にたくさん教わったからね。
今こそ力を発揮する時がきた。
バリスタとはバールっていうイタリアの喫茶店みたいなところでコーヒーを入れる人のことを言うらしい。
バーのバーテンダーみたいなものだ。バーテンダーはお酒の知識や技術に優れた人たちだが、それのコーヒー版と言ってもいいのかな。コーヒーのプロ。そのためのなんとか協会っていうのが技能試験を行っている。
筆記、口頭、実演の他、実務経験も求められるとか……。
コーヒーの道はかなり険しい。だけど、僕だってリーベルでコーヒーを入れるようになるんだ。
そう、今日から僕もバリスタだ!
ウェイトレスだったりアルバイトだったりするけど……心の中で名乗ることぐらいは許してくれるよね?
師匠……僕は頑張りますよ!
まずはコーヒー豆を挽くところから始めなければならない。
本当なら豆を選んで焙煎してという手順があるけど、今回は不要。
冷蔵庫の中にはすでに焙煎された豆が保存されている。
しかも種類ごとにラベルが貼ってあるのでとってもわかりやすい。
きっと夢乃家のお父さんがやっていたんだろう。時間がどれぐらい経過しているのかわからないけど、大丈夫なんだろうか?
「ん、もしかしてギブアップ? しょうがないな~」
「いえ、大丈夫ですよ、桜先輩。それより、このコーヒー豆ってどれぐらい時間経ってます?」
「え、あ、うん。そのコーヒー豆は先日届いたものと入れ替えたから新しいよ。あと一ヶ月ぐらいは大丈夫だったはず」
「分かりました、ありがとうございます!」
「うわ、あどけない笑顔の威力が半端ない」
なんか桜先輩が突然スケッチブックを取り出して絵を描き始めたけど……僕は気にしないよ。
さて、このコーヒー豆の中から師匠に教わった豆を選ぶ。師匠特性ブレンドのコーヒー。これをちゃんと入れられたら桜先輩だって僕の技量を納得してくれるさ。
えっと、豆を挽くためには…………あったあった。
手挽きミル。あれ、これしかない……。喫茶店だから電動ミルぐらいあると思っていたんだけど。手引きは時間がかかるけど大丈夫なんだろうか?
きっといいものだから大丈夫なんだろう。切れ味が悪いとかなり時間がかかるって話だけど、いいものだったらスラスラ、20秒ぐらいやればいいからね。
えっと中挽きに調節して、豆を投入。ハンドルを回してガーリガリ、ガーリガリ。
ちなみに入れた豆の分量は僕と桜先輩とで2配分にした。
僕もちょっと飲みたい。いいよね、きっと。
さて、豆を挽き終わったら次はコーヒーを入れるよ。
細口ドリップポットに水を入れて火にかける。そういえば、豆を挽く前にやっておけば良かった。今度から気を付けよう。
お湯を沸かしている間に、ほかの道具を温めておこう。紅茶と同じ、道具が冷めているとおいしいコーヒーが入れられない。入れた瞬間に冷めていくってどうなのって師匠にも怒られたな~。
細口ドリップポットに入れた水が沸騰してきたら火を止めて、ボコボコいうのが止むまで待つ。
そうすると大体95度ぐらいで、コーヒーを入れるに適した温度なんだって。
そうなる前にコーヒーを入れる準備をしておかないとね。
ドリップにペーパーフィルターをセッティング。
ペーパーフィルターはそこの接着部分を外側に折り曲げて、側面の接着部分を内側に折り曲げる。そしてドリッパーに軽く押さえ込むようにセット。サイズがぴったりだから隙間なく出来た。
そしてさっき挽いたコーヒー豆を入れる。ムラなくお湯を注ぎたいから面は平になるように、ドリッパーを軽く振って整えて。割と手間かもしれないけど、美味しいコーヒーを入れるため、手を抜かないことが重要なんだよ。
セッティングが完了したらお湯がちょうどいい感じに、早速注ごう。
最初にちょっとだけお湯を入れる。全体に均一になるように含ませて少し待つ。
お湯をいれるとコーヒーが膨らむんだけど、これはコーヒーに含まれるガスが放出されるため。ガスを抜くことによってコーヒーとお湯がなじみやすくなり、より美味しくなる。
だから蒸らしは大切な工程なんだ。
サーバーにぽたぽたと落ちてきたらお湯を注ぐ合図。
まずは中心にそっと注ぐ。そして小さくゆっくり「の」の字を書くようにして注ぐんだ。
外側から注ぐ人もいるって聞いたことがあるけど、それだとコーヒーの成分を全部摘出できない。薄かったりと味気ない感じになってしまう。入れ方のせいで無駄な分量を使っている人もいるかもしれないね。
僕は摘出される量と注ぐ量を合わせることができないから、ある程度入れたら一旦ストップ。そしてお湯が減ってきたらもう一度、三回ぐらいに分けて入れることにする。
注ぐときにもう一つ注意が必要。お湯を入れたときに細かな泡が出てくる。あれはコーヒーのアクのようなもの。均等になるようにお湯を注がないと雑味がたくさん摘出されてしまうので、まずいコーヒーになってしまう。
泡は細かく均等に。雑味のないクリアな味わいのコーヒーを入れるためにちゃんとチェックしとかないと。
サーバーにコーヒーが摘出出来たら、それをカップに注ぐ。
ちゃんと温めてあるカップを使用しているから、入れた瞬間に少し冷めて味が落ちる心配もない。さっと注いで……完成だ。
師匠直伝ブレンドコーヒー。それを桜先輩のもとにそっと置いた。
「お待たせしました。当店自慢のブレンドコーヒーです」
「うわっと、入れ終わったの?」
「……見てなかったんですか?」
「ははは、可愛い男の子が頑張ってる姿ってビビッと来るんだよね。つい絵を描いてしまったよ、ほら!」
「うわぁ……」
フリフリな服装の僕が女の子らしい仕草をしながらコーヒーを入れているイラストだ。
どう見ても女の子にしか見えないので僕じゃないと言いたいが、しれっと名前が書いてある。うわぁやだー。
「それはそうと、コーヒーね。ふ~ん、普通にできているじゃない、っち」
「なんですか、今の舌打ちは!」
「だってリーベルでも私のほうが先輩だしー。先輩が教えるのが普通なのに教えることがないってこれどうなの?」
「そんなこと僕に言われても……」
「まぁ入れ方はいいみたいだけど~、味のほうは……っえ?」
「ど、どうかしましたか? もしかして……まずかったとか?」
「お父さんと……同じ味がする?」
「ほ……良かった」
「これ一体どういうこと! なんで水紋ちゃんがお父さんと同じようにコーヒー入れられるのよ!」
「言っていなかったかもしれませんが、昔コーヒーの入れ方をここで教わったことがあるんですよ。つまり、僕のコーヒーの師匠って桜先輩のお父さんなんです」
「ちょ、それ先に言ってよ! うわぁ恥ずかし……。私こんな美味しいコーヒーなんて入れられないよ!」
「……え」
「何その反応……。なんできょとんとしているのよ。ごめんね、私はコーヒーすら入れられないダメ女ですよ。こんな女が喫茶店の娘で悪かったね、こんちくしょう!」
桜先輩の瞳に光が消える。この人病んでるよ。まるでこの前の紙芝居に出ていたヤンデレ真麻ちゃんのようだ。怖!
「あとは接客態度だけなんだけど、ごめんね。もうすぐ開店の時間だよ!」
「ちょ、それ教えてくださいよ!」
「ふふふふふふ、じゃぁ開店しま~す」
桜先輩は僕のことを完全に無視して、外に出ていった。扉にかけられているプレートを『clause』から『open』に変えたんだろう。僕の意思は! まぁ、喫茶店だから仕方ないんだけど! そうなんだけど! 一言言わせて欲しい……。
「コーヒーの入れ方じゃなくってまず接客を教えて欲しかった!」
「へへ、ざ~んねん! 美味しい場面を期待しているよ」
かくして、僕の望まない展開で初めてのアルバイトが始まるのであった。
◇
さて、喫茶店リーベルが開店してから一時間ぐらいが経過したぐらいだろうか。
閉店まであと二時間。こんな短い間しかやっていない店でやっていける不思議。
まぁ、桜先輩のお父さんが趣味でやっているらしいから。別の仕事があるおかげで成り立っているんだろうけど。
ほんと、何やっている人なんだろう。謎だ。
「お客さんこないですね~」
「何言っているのよ、水紋ちゃん。このお店は不定期開店だから人がいっぱい来る訳無いじゃん。いつも来る人っていうのは大抵常連さんだよ。美味しいって噂があるぐらいだから、常連さん以外が来ることもよくあるけど、開店してすぐには絶対に来ないね」
「そういうもんですか?」
「そういうもんなんです」
うむ、常連さんだったら割とやりやすいかも。僕みたいな新人でも優しくしてくれそう。
そんなことを考えていると、早速お客さんがやってきた。
「あ、いらっしゃいま……ヒィ」
「でゅふふふふ~、きっちゃったよ~水紋ちゃ~ん」
にちゃりと笑うその人は、いつもお世話になっている人だ。
あんな優しい人だったのに。まさか本当に紙芝居みたいな感じだなんて、信じたくないけど、見ちゃったよ……。
そんな姿を見たくなかったよ、八百屋のおじさん!
「え、え~っと……」
「こら、なにやってんのよ水紋ちゃん! すいません、新人なもので」
「いやいや、水紋ちゃんならいいんだよ。なんたって孫娘のようなものだ。僕らで練習して、本番で失敗しなければそれでいいさ」
「お、おじさん……」
ごめんなさい。本当に変質者だって思ってしまって。でも僕のことをそんなにも考えてくれたなんて。孫娘ってところはちょっとばかし引っかかるけど……。
ヒィとかいってごめんなさい。
「でゅふ、水紋ちゃ~ん。ブレンドコーヒーを一つ、水紋ちゃんの作ったやつで、でゅふふふ」
「か、かしこまりました……ただいま持ってまいります」
「よろしくね~」
笑った時、にちゃぁっとしてた。笑った時、にちゃぁっとしてた。
大事なことだから二回も言っちゃったよ。
本当に気持ち悪い。普段はそんな姿見せないのに。
いつものお店で見せてくれるあの優しい笑みが、時折頭を撫でてくれた優しいおじさんのイメージが、崩壊していく……。
でもお仕事だから仕方がない。僕のできる精一杯をやらせてもらおう。
さぁ、八百屋のおじさん。とくと味わって欲しい。僕の入れた最高のコーヒーを。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーになります」
「うほほほほ、キターーーーーーー、水紋ちゃんコーヒー!」
「ご、ごゆっくりどうぞ~」
にちゃにちゃした笑いとあのテンションに僕はついていけない。
僕の様子をさっきっから見てばっかりの桜先輩、そのニヤニヤをやめてくれませんか?
あ、僕の視線に気がついたのか、目をそらした。どうも助けてはくれないらしい。
「うわぁぁぁぁぁ、水紋ちゃんコーヒーおいしいよぉぉぉぉぉ」
うん、あれは見なかったことにしよう。僕は知らない。八百屋のおじさんが僕の入れたコーヒーを飲んで危ない表情をしていることを……。
カランと扉が開いた音がした。
「あんた! 一体何やっているんだい、仕事サボって!」
「ひぇぇぇぇ、かあさん!」
ご来店したのはなんと八百屋の奥さん。見た目がすっごく若い美人さんで、かなり強気の性格。僕もいつも優しくしてもらっている。
「ごめんね水紋ちゃん。うちのバカ亭主が気持ち悪くて」
「い、いえそんなことは……」
「大丈夫、私だってあれがかなり気持ち悪いってこと知っているから」
「そ、そうなんですか?」
「いやね、仕事をしている時や真面目な時はかなりかっこよくて優しいんだよ。でもさ、家の子供たちと接している時や水紋ちゃんの時だけ気持ち悪くなるんだよね~」
「奥さん、これで大丈夫なんですか?」
「治すようには言っているんだけど……もう手遅れみたい。私は諦めたわ」
「そうですか……ご愁傷様です」
「私は旦那を連れて帰るために来たんだけど、それだけじゃ悪いから一杯もらっていくわ。アメリカンコーヒーをお願いできる?」
「分かりました、少々お待ちください」
さて、二人目のお客さん。それもいつもお世話になっている八百屋さんの綺麗な奥さん。失敗はできない。最高のコーヒーを入れさせてもらう。いざ、勝負!
「お待たせしました。アメリカンコーヒーになります」
「あら、ありがとう」
「では、ごゆっくりどうぞ」
「では早速……わぁいい香り。それとお味は……おいしいわ」
「そうですか! 良かったです!」
「ふふ、アルバイト、頑張ってね」
「はい!」
奥さん本当に優しい。綺麗だし、完璧超人だよ。残念なのはこの旦那である八百屋のおじさんぐらいかな?
気持ち悪いところを除けばいい人なんだけど……。
「どうです、桜先輩! 僕の接客は」
「まぁまぁね。まだ知っている人だからできるってこともあるかも。水紋ちゃん、八百屋の夫婦と知り合いなんだよね」
「そうです。いつもお世話になっている八百屋さんの夫婦です。ご飯を作るときに出している野菜もそこで買っているんです」
「へぇ~。野菜、すっごく美味しいって思っていたけど、いいところで買ってたんだね」
「へへへ~」
「ほら、照れていないで仕事しなさい!」
「は、はい……って桜先輩。一体何をやっているんですか……」
「何って、仕事だけど」
「どう見てもスケッチブックに絵を描いているようにしか見えないんですけど……」
「そりゃそうよ。仕事って漫画の方だから」
「喫茶店の仕事してくださいよ!」
「って言われても……人も少ないし、漫画の締切が終わったと言っても仕事がないわけじゃないしね」
「そ、そんな~~~~」
「もっと元気出しなさい! ほら、お客さんが帰るよ」
「わ、わかりました」
「ごちそうさま、水紋ちゃん。こらあんた! 行くよ」
「い、いでぇよかぁちゃん」
「えっと、お会計になります。ところで旦那さんは大丈夫ですか?」
「いでぇよぉぉぉ、耳を引っ張らないでぇぇぇぇ」
「おだまり、にちゃにちゃ笑って。帰るまで耳を引っ張っていくからね!」
「ひぃぃぃぃ」
「ご、ご愁傷様です。えっとお会計は1780円になります」
「やっぱりここのコーヒーは高いわね。でもそれ相応の美味しさがあるから……」
「奥さん、ちょっといいですか?」
「桜先輩、突然どうしたんですか」
「水紋ちゃんはちょっと黙っていて」
「は、はい」
「えっと、君はリーベル五人姉妹の次女、桜ちゃんよね」
「はい、そうです。いつもありがとうございます。実はですね。こちらとしてもその値段はちょっぴり高いなって思っているんですよ。 いくら水紋ちゃんが美味しいコーヒーを入れられても、素人であることには変わりません。水紋ちゃんがなれるまでの期間はサービス致します。今回はこれで……」
「え、1080円でいいの?」
「はい、それで……よかったらなんですけど」
「ん? どうしたの?」
「うちの水紋ちゃんがいつもお世話になっているようで、これからも良くしていただけると嬉しいです!」
「あら、うちの野菜は美味しい?」
「はい、とっても」
「ふふふ、ありがとう」
「ははは、これからもよろしくお願いします」
なんかすごいことを言っている感じがする。いつもの桜先輩じゃない。
ああ、なんとなくだけど八百屋の奥さんの気持ちがわかった気がする。
仕事をしているときの桜先輩ってかなりかっこいいけど、それ以外ダメダメだもんな。
この前なんて、下着を脱ぎ捨てて洗っておいてとか……。
流石に下着はまずいって思ったんだけど……桜先輩は「え、ただの布でしょ? いいじゃない別に。恥ずかしがることはないよ」なんて言ってくるし。女としての恥じらいが一切ない。ある意味で尊敬する。だらし無さ過ぎるけど……。
「今回はありがとう。また来るからね、水紋ちゃん、それに桜ちゃん。ほら行くよあんた」
「いでぇよぉぉぉぉかんべんしてくれぇぇぇぇ」
八百屋のおじさんは耳を引っ張られていってしまった。かわいそうに。でもあんなに気持ち悪い笑みをするんだから仕方がないって思ってしまう自分がいる。
それどころか、ざまぁみろって思った。ふふ、自業自得だな。
「ふう、暇になっちゃったね、これからどうするよ」
「お客さんが来るまで皿洗いを住ませて掃除でもしていますよ、はい」
「まぁそれでいっか。私にもコーヒー頂戴」
「お店のなんですけどいいんですか?」
「大丈夫だよ。水紋ちゃんも好きに飲んでね? どうせいつも余っちゃうから結局自分たちで飲むことになるし……これもいつものこと。気にしないでいいよ」
「そ、それなら……」
カランと扉が開く音が鳴る。誰か来たようだ。コーヒーはおあずけだ……。
「いらっしゃいませ……って皆さんどうしたんですか」
なんとご来店したのは魚屋さんのおじさんとおばさん、肉屋さんのおじさんとおばさん、町内会の会長夫婦に僕が住んでいたアパートの大家さんまで。僕がお世話になっていた人がいっぱい来た!
「八百屋さんの聞いてきたんだけど、今大丈夫かしら?」
「はい、ご来店ありがとうございます、魚屋さんのおばさん! 今席に案内いたしますね」
「ありがとう、お願いするわ」
僕は全員を席にご案内した。そして注文をとったところ、全員がブレンドコーヒー。
いきなり大忙しになった。しかもだよ、みんなが見てくるんだよ。じーっと、まるで孫娘を見守る祖父母のように……。
そして男どものにちゃにちゃした笑い。同じ男としてどうかって思ってしまうよ。
下心満載な笑いはすぐにバレてお仕置きされているみたいだけど……。
「お待たせしました、ブレンドコーヒーになります!」
僕が配膳を完了させると、皆さんは美味しそうに飲んでくれた。
それがとっても嬉しい。僕が作ったコーヒーで笑顔が生まれるなんて思ってもいなかったから。
なんか天職を見つけた気がする。
あ、肉屋のおじさん……顔を殴られた。ご愁傷様です。
そんなこんなでみんなで笑いあっていたら、あっという間に閉店の時間になった。
「ごめんね、長居をしちゃって」
「いえ、大丈夫ですよ肉屋のおばさん。それはそれとして……お店のほうは?」
「大丈夫よ、息子のお願いしているから」
「そうですか、それは良かったです」
「まぁ、このオヤジどもは仕事をサボってここに来ているわけだから……お仕置きだよ」
「「ひぃ」」
あれ、さっき見たような……デジャブ?
ともあれ、お会計も済ませて、皆さん笑顔で帰っていった。一部大泣きして「いでぇよ」と叫び続けていた人たちもいたけど……僕は気にしないよ!
「ねぇ、私のコーヒーは?」
後ろから聞こえる不気味な声。完全に忘れていた……桜先輩コーヒー入れるの……。
「ねぇ、私のコーヒーはどうしたの?」
「ご、ごめんなさい、忘れていました!」
「はぁ、それ……お客さんには絶対にやらないようにね」
「了解です」
「じゃあバツとして……」
そんなことを言いながら取り出したのは、正統派メイドとはかけ離れた……黒い服に白いフリフリ、かなり短いスカートのメイド服。
「これに着替えてね? あ、下着もちゃんと女物……って言うまでもないか」
「なんで知っているんですか!」
「この前覗いた」
「ははは、犯罪者がここにいる!」
「どんまい! さぁ、早くこれに着替えなさい、さぁさぁさぁ!」
「ひぃ、いやぁぁぁぁぁあぁ」
それから数十分、桜先輩に追い掛け回された。そして結局着ることになるのね。僕はなんて意思が弱いんだ……。
そして、かなりキツキツな格好の僕は皿洗いとお片付けをして、コーヒーで一息つくのであった。
お父さん、お母さん。僕は今日、初めてお仕事をしました。思っていたよりも大変だったけど、皆さんが美味しいって言って笑顔になるんです。
だからとっても楽しい時間でした。
ただ、お客さんの中でにちゃにちゃ笑っている気持ち悪い人とかいるんですけど……未だにどう対応すればいいのかわかりません。桜先輩はずっとスケッチしているのでなんにも教えてくれませんし……、今の僕には助けが必要なんです。
あ、あの姉は論外なので。もっといかがわしい格好で接客しろとか言われそう。
うわぁ、なんか背筋がゾクッとした。
あの姉がろくでもないことを考えているのか!
そういうことで、お父さん、お母さん。今日はとっても頑張りました。だからご褒美が欲しいです!
とりあえず、桜先輩の今日の夕食は手抜きをしてもいいですよね!
「うぅ、桜先輩、そんなことを言わないでくださいよ。かなり複雑な気分なんですから」
桜先輩が締切日を乗り切って、少しだけ余裕が出来た。つまり、喫茶店リーベルが開業できる日が来たのだ。
やっと仕事ができるのだが、やっぱり制服は女物でかなり複雑。それに、前に見せてもらったものとちょっと違う気がする。特に……。
「桜先輩」
「どうしたの、目覚めちゃった?」
「そ、そんなことありませんよ! というか、この制服! スカートが短くなっているような気がするんですけど」
「うん、僕が切った」
「な、なんでそんなことするんですか!」
「なんでって……男の娘が短いスカートを履かなくてどうするのさ。見えそうで見えない絶対領域。女の子なら大丈夫なはずなのにちらりと見えてしまうふぐり。興奮せずにはいられない恥じらい。男の娘マニアなら喜ぶこと間違いなし。やったね、男の娘喫茶で一番になれるよ!」
「ここ、ただの喫茶店ですよね、そうなんですよね、なんですか男の娘喫茶って」
「メイド喫茶みたいなものよ……ふ」
「ちょ、遠い目をしてないではっきり答えてください!」
「それはそうとーー」
「スルーですか!」
なんたる自由人。真麻ちゃんに負けていない気がするよ。うう、短いスカート。僕は一体どうなってしまうんだろう。危ない道に進んでいる気がする。
いや、気がするじゃなく現在進行形で進んでいる感じだ、これ。いったいどうすればいいんだ。
あの姉といい桜先輩といい。なんで僕に女装を……。二人だけじゃないし、学校全体でそうだし、銭湯に言ったらそっちじゃないと言われて女子風呂に案内されるけど、じょ、女装なんて好きなんじゃないんだからね!
うう、普通の男の子に戻るにはどうしたらいいんだろう。まず第一に桜先輩の危ない道に進む計画を回避して、あの姉を警察にブチ込むぐらいのことをしなければいけないんだけど……さてどうするか。
うわ、なんか寒気がした。あの姉がろくでもないことを考えているに違いない。
「ちょっと、聞いてる?」
「あ、ごめんなさい……桜先輩が僕を危ない道に進めようとしている気がするので、どうやって回避すればいいか考えてました」
「いや、もう無理だけど? 大体水紋ちゃんは師匠によって教育されているんだから。普通の男の子に戻れるはずないって。普通の男の娘ならすでになっているけど」
「え、そんな、というか師匠って誰ですか!」
「水紋ちゃんのお姉さんだけど。僕はあの人のおかげで男の娘の漫画を描くようになったぐらいだし」
「あの姉の影響力は凄まじい……」
「それはそうと、さっさとしてよね」
「な、何をですか?」
「オープンまで時間があるとは言え、何も教えていない状態で本番なんて無理でしょうに」
「た、たしかに……」
「だから、まずはブレンドコーヒーでも入れてもらおうかな。それぐらいならできるっしょ。水紋ちゃんなら……」
「りょ、了解しました……」
桜先輩の指令でコーヒーを入れることになった。
簡単でしょとか言っているけど、コーヒーを入れるのはかなり難しい。バリスタの資格を持っていないけど、僕なんかが入れて大丈夫なんだろうかって不安がある。
でも、僕にだっておいしいコーヒーは入れられる。昔師匠にたくさん教わったからね。
今こそ力を発揮する時がきた。
バリスタとはバールっていうイタリアの喫茶店みたいなところでコーヒーを入れる人のことを言うらしい。
バーのバーテンダーみたいなものだ。バーテンダーはお酒の知識や技術に優れた人たちだが、それのコーヒー版と言ってもいいのかな。コーヒーのプロ。そのためのなんとか協会っていうのが技能試験を行っている。
筆記、口頭、実演の他、実務経験も求められるとか……。
コーヒーの道はかなり険しい。だけど、僕だってリーベルでコーヒーを入れるようになるんだ。
そう、今日から僕もバリスタだ!
ウェイトレスだったりアルバイトだったりするけど……心の中で名乗ることぐらいは許してくれるよね?
師匠……僕は頑張りますよ!
まずはコーヒー豆を挽くところから始めなければならない。
本当なら豆を選んで焙煎してという手順があるけど、今回は不要。
冷蔵庫の中にはすでに焙煎された豆が保存されている。
しかも種類ごとにラベルが貼ってあるのでとってもわかりやすい。
きっと夢乃家のお父さんがやっていたんだろう。時間がどれぐらい経過しているのかわからないけど、大丈夫なんだろうか?
「ん、もしかしてギブアップ? しょうがないな~」
「いえ、大丈夫ですよ、桜先輩。それより、このコーヒー豆ってどれぐらい時間経ってます?」
「え、あ、うん。そのコーヒー豆は先日届いたものと入れ替えたから新しいよ。あと一ヶ月ぐらいは大丈夫だったはず」
「分かりました、ありがとうございます!」
「うわ、あどけない笑顔の威力が半端ない」
なんか桜先輩が突然スケッチブックを取り出して絵を描き始めたけど……僕は気にしないよ。
さて、このコーヒー豆の中から師匠に教わった豆を選ぶ。師匠特性ブレンドのコーヒー。これをちゃんと入れられたら桜先輩だって僕の技量を納得してくれるさ。
えっと、豆を挽くためには…………あったあった。
手挽きミル。あれ、これしかない……。喫茶店だから電動ミルぐらいあると思っていたんだけど。手引きは時間がかかるけど大丈夫なんだろうか?
きっといいものだから大丈夫なんだろう。切れ味が悪いとかなり時間がかかるって話だけど、いいものだったらスラスラ、20秒ぐらいやればいいからね。
えっと中挽きに調節して、豆を投入。ハンドルを回してガーリガリ、ガーリガリ。
ちなみに入れた豆の分量は僕と桜先輩とで2配分にした。
僕もちょっと飲みたい。いいよね、きっと。
さて、豆を挽き終わったら次はコーヒーを入れるよ。
細口ドリップポットに水を入れて火にかける。そういえば、豆を挽く前にやっておけば良かった。今度から気を付けよう。
お湯を沸かしている間に、ほかの道具を温めておこう。紅茶と同じ、道具が冷めているとおいしいコーヒーが入れられない。入れた瞬間に冷めていくってどうなのって師匠にも怒られたな~。
細口ドリップポットに入れた水が沸騰してきたら火を止めて、ボコボコいうのが止むまで待つ。
そうすると大体95度ぐらいで、コーヒーを入れるに適した温度なんだって。
そうなる前にコーヒーを入れる準備をしておかないとね。
ドリップにペーパーフィルターをセッティング。
ペーパーフィルターはそこの接着部分を外側に折り曲げて、側面の接着部分を内側に折り曲げる。そしてドリッパーに軽く押さえ込むようにセット。サイズがぴったりだから隙間なく出来た。
そしてさっき挽いたコーヒー豆を入れる。ムラなくお湯を注ぎたいから面は平になるように、ドリッパーを軽く振って整えて。割と手間かもしれないけど、美味しいコーヒーを入れるため、手を抜かないことが重要なんだよ。
セッティングが完了したらお湯がちょうどいい感じに、早速注ごう。
最初にちょっとだけお湯を入れる。全体に均一になるように含ませて少し待つ。
お湯をいれるとコーヒーが膨らむんだけど、これはコーヒーに含まれるガスが放出されるため。ガスを抜くことによってコーヒーとお湯がなじみやすくなり、より美味しくなる。
だから蒸らしは大切な工程なんだ。
サーバーにぽたぽたと落ちてきたらお湯を注ぐ合図。
まずは中心にそっと注ぐ。そして小さくゆっくり「の」の字を書くようにして注ぐんだ。
外側から注ぐ人もいるって聞いたことがあるけど、それだとコーヒーの成分を全部摘出できない。薄かったりと味気ない感じになってしまう。入れ方のせいで無駄な分量を使っている人もいるかもしれないね。
僕は摘出される量と注ぐ量を合わせることができないから、ある程度入れたら一旦ストップ。そしてお湯が減ってきたらもう一度、三回ぐらいに分けて入れることにする。
注ぐときにもう一つ注意が必要。お湯を入れたときに細かな泡が出てくる。あれはコーヒーのアクのようなもの。均等になるようにお湯を注がないと雑味がたくさん摘出されてしまうので、まずいコーヒーになってしまう。
泡は細かく均等に。雑味のないクリアな味わいのコーヒーを入れるためにちゃんとチェックしとかないと。
サーバーにコーヒーが摘出出来たら、それをカップに注ぐ。
ちゃんと温めてあるカップを使用しているから、入れた瞬間に少し冷めて味が落ちる心配もない。さっと注いで……完成だ。
師匠直伝ブレンドコーヒー。それを桜先輩のもとにそっと置いた。
「お待たせしました。当店自慢のブレンドコーヒーです」
「うわっと、入れ終わったの?」
「……見てなかったんですか?」
「ははは、可愛い男の子が頑張ってる姿ってビビッと来るんだよね。つい絵を描いてしまったよ、ほら!」
「うわぁ……」
フリフリな服装の僕が女の子らしい仕草をしながらコーヒーを入れているイラストだ。
どう見ても女の子にしか見えないので僕じゃないと言いたいが、しれっと名前が書いてある。うわぁやだー。
「それはそうと、コーヒーね。ふ~ん、普通にできているじゃない、っち」
「なんですか、今の舌打ちは!」
「だってリーベルでも私のほうが先輩だしー。先輩が教えるのが普通なのに教えることがないってこれどうなの?」
「そんなこと僕に言われても……」
「まぁ入れ方はいいみたいだけど~、味のほうは……っえ?」
「ど、どうかしましたか? もしかして……まずかったとか?」
「お父さんと……同じ味がする?」
「ほ……良かった」
「これ一体どういうこと! なんで水紋ちゃんがお父さんと同じようにコーヒー入れられるのよ!」
「言っていなかったかもしれませんが、昔コーヒーの入れ方をここで教わったことがあるんですよ。つまり、僕のコーヒーの師匠って桜先輩のお父さんなんです」
「ちょ、それ先に言ってよ! うわぁ恥ずかし……。私こんな美味しいコーヒーなんて入れられないよ!」
「……え」
「何その反応……。なんできょとんとしているのよ。ごめんね、私はコーヒーすら入れられないダメ女ですよ。こんな女が喫茶店の娘で悪かったね、こんちくしょう!」
桜先輩の瞳に光が消える。この人病んでるよ。まるでこの前の紙芝居に出ていたヤンデレ真麻ちゃんのようだ。怖!
「あとは接客態度だけなんだけど、ごめんね。もうすぐ開店の時間だよ!」
「ちょ、それ教えてくださいよ!」
「ふふふふふふ、じゃぁ開店しま~す」
桜先輩は僕のことを完全に無視して、外に出ていった。扉にかけられているプレートを『clause』から『open』に変えたんだろう。僕の意思は! まぁ、喫茶店だから仕方ないんだけど! そうなんだけど! 一言言わせて欲しい……。
「コーヒーの入れ方じゃなくってまず接客を教えて欲しかった!」
「へへ、ざ~んねん! 美味しい場面を期待しているよ」
かくして、僕の望まない展開で初めてのアルバイトが始まるのであった。
◇
さて、喫茶店リーベルが開店してから一時間ぐらいが経過したぐらいだろうか。
閉店まであと二時間。こんな短い間しかやっていない店でやっていける不思議。
まぁ、桜先輩のお父さんが趣味でやっているらしいから。別の仕事があるおかげで成り立っているんだろうけど。
ほんと、何やっている人なんだろう。謎だ。
「お客さんこないですね~」
「何言っているのよ、水紋ちゃん。このお店は不定期開店だから人がいっぱい来る訳無いじゃん。いつも来る人っていうのは大抵常連さんだよ。美味しいって噂があるぐらいだから、常連さん以外が来ることもよくあるけど、開店してすぐには絶対に来ないね」
「そういうもんですか?」
「そういうもんなんです」
うむ、常連さんだったら割とやりやすいかも。僕みたいな新人でも優しくしてくれそう。
そんなことを考えていると、早速お客さんがやってきた。
「あ、いらっしゃいま……ヒィ」
「でゅふふふふ~、きっちゃったよ~水紋ちゃ~ん」
にちゃりと笑うその人は、いつもお世話になっている人だ。
あんな優しい人だったのに。まさか本当に紙芝居みたいな感じだなんて、信じたくないけど、見ちゃったよ……。
そんな姿を見たくなかったよ、八百屋のおじさん!
「え、え~っと……」
「こら、なにやってんのよ水紋ちゃん! すいません、新人なもので」
「いやいや、水紋ちゃんならいいんだよ。なんたって孫娘のようなものだ。僕らで練習して、本番で失敗しなければそれでいいさ」
「お、おじさん……」
ごめんなさい。本当に変質者だって思ってしまって。でも僕のことをそんなにも考えてくれたなんて。孫娘ってところはちょっとばかし引っかかるけど……。
ヒィとかいってごめんなさい。
「でゅふ、水紋ちゃ~ん。ブレンドコーヒーを一つ、水紋ちゃんの作ったやつで、でゅふふふ」
「か、かしこまりました……ただいま持ってまいります」
「よろしくね~」
笑った時、にちゃぁっとしてた。笑った時、にちゃぁっとしてた。
大事なことだから二回も言っちゃったよ。
本当に気持ち悪い。普段はそんな姿見せないのに。
いつものお店で見せてくれるあの優しい笑みが、時折頭を撫でてくれた優しいおじさんのイメージが、崩壊していく……。
でもお仕事だから仕方がない。僕のできる精一杯をやらせてもらおう。
さぁ、八百屋のおじさん。とくと味わって欲しい。僕の入れた最高のコーヒーを。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーになります」
「うほほほほ、キターーーーーーー、水紋ちゃんコーヒー!」
「ご、ごゆっくりどうぞ~」
にちゃにちゃした笑いとあのテンションに僕はついていけない。
僕の様子をさっきっから見てばっかりの桜先輩、そのニヤニヤをやめてくれませんか?
あ、僕の視線に気がついたのか、目をそらした。どうも助けてはくれないらしい。
「うわぁぁぁぁぁ、水紋ちゃんコーヒーおいしいよぉぉぉぉぉ」
うん、あれは見なかったことにしよう。僕は知らない。八百屋のおじさんが僕の入れたコーヒーを飲んで危ない表情をしていることを……。
カランと扉が開いた音がした。
「あんた! 一体何やっているんだい、仕事サボって!」
「ひぇぇぇぇ、かあさん!」
ご来店したのはなんと八百屋の奥さん。見た目がすっごく若い美人さんで、かなり強気の性格。僕もいつも優しくしてもらっている。
「ごめんね水紋ちゃん。うちのバカ亭主が気持ち悪くて」
「い、いえそんなことは……」
「大丈夫、私だってあれがかなり気持ち悪いってこと知っているから」
「そ、そうなんですか?」
「いやね、仕事をしている時や真面目な時はかなりかっこよくて優しいんだよ。でもさ、家の子供たちと接している時や水紋ちゃんの時だけ気持ち悪くなるんだよね~」
「奥さん、これで大丈夫なんですか?」
「治すようには言っているんだけど……もう手遅れみたい。私は諦めたわ」
「そうですか……ご愁傷様です」
「私は旦那を連れて帰るために来たんだけど、それだけじゃ悪いから一杯もらっていくわ。アメリカンコーヒーをお願いできる?」
「分かりました、少々お待ちください」
さて、二人目のお客さん。それもいつもお世話になっている八百屋さんの綺麗な奥さん。失敗はできない。最高のコーヒーを入れさせてもらう。いざ、勝負!
「お待たせしました。アメリカンコーヒーになります」
「あら、ありがとう」
「では、ごゆっくりどうぞ」
「では早速……わぁいい香り。それとお味は……おいしいわ」
「そうですか! 良かったです!」
「ふふ、アルバイト、頑張ってね」
「はい!」
奥さん本当に優しい。綺麗だし、完璧超人だよ。残念なのはこの旦那である八百屋のおじさんぐらいかな?
気持ち悪いところを除けばいい人なんだけど……。
「どうです、桜先輩! 僕の接客は」
「まぁまぁね。まだ知っている人だからできるってこともあるかも。水紋ちゃん、八百屋の夫婦と知り合いなんだよね」
「そうです。いつもお世話になっている八百屋さんの夫婦です。ご飯を作るときに出している野菜もそこで買っているんです」
「へぇ~。野菜、すっごく美味しいって思っていたけど、いいところで買ってたんだね」
「へへへ~」
「ほら、照れていないで仕事しなさい!」
「は、はい……って桜先輩。一体何をやっているんですか……」
「何って、仕事だけど」
「どう見てもスケッチブックに絵を描いているようにしか見えないんですけど……」
「そりゃそうよ。仕事って漫画の方だから」
「喫茶店の仕事してくださいよ!」
「って言われても……人も少ないし、漫画の締切が終わったと言っても仕事がないわけじゃないしね」
「そ、そんな~~~~」
「もっと元気出しなさい! ほら、お客さんが帰るよ」
「わ、わかりました」
「ごちそうさま、水紋ちゃん。こらあんた! 行くよ」
「い、いでぇよかぁちゃん」
「えっと、お会計になります。ところで旦那さんは大丈夫ですか?」
「いでぇよぉぉぉ、耳を引っ張らないでぇぇぇぇ」
「おだまり、にちゃにちゃ笑って。帰るまで耳を引っ張っていくからね!」
「ひぃぃぃぃ」
「ご、ご愁傷様です。えっとお会計は1780円になります」
「やっぱりここのコーヒーは高いわね。でもそれ相応の美味しさがあるから……」
「奥さん、ちょっといいですか?」
「桜先輩、突然どうしたんですか」
「水紋ちゃんはちょっと黙っていて」
「は、はい」
「えっと、君はリーベル五人姉妹の次女、桜ちゃんよね」
「はい、そうです。いつもありがとうございます。実はですね。こちらとしてもその値段はちょっぴり高いなって思っているんですよ。 いくら水紋ちゃんが美味しいコーヒーを入れられても、素人であることには変わりません。水紋ちゃんがなれるまでの期間はサービス致します。今回はこれで……」
「え、1080円でいいの?」
「はい、それで……よかったらなんですけど」
「ん? どうしたの?」
「うちの水紋ちゃんがいつもお世話になっているようで、これからも良くしていただけると嬉しいです!」
「あら、うちの野菜は美味しい?」
「はい、とっても」
「ふふふ、ありがとう」
「ははは、これからもよろしくお願いします」
なんかすごいことを言っている感じがする。いつもの桜先輩じゃない。
ああ、なんとなくだけど八百屋の奥さんの気持ちがわかった気がする。
仕事をしているときの桜先輩ってかなりかっこいいけど、それ以外ダメダメだもんな。
この前なんて、下着を脱ぎ捨てて洗っておいてとか……。
流石に下着はまずいって思ったんだけど……桜先輩は「え、ただの布でしょ? いいじゃない別に。恥ずかしがることはないよ」なんて言ってくるし。女としての恥じらいが一切ない。ある意味で尊敬する。だらし無さ過ぎるけど……。
「今回はありがとう。また来るからね、水紋ちゃん、それに桜ちゃん。ほら行くよあんた」
「いでぇよぉぉぉぉかんべんしてくれぇぇぇぇ」
八百屋のおじさんは耳を引っ張られていってしまった。かわいそうに。でもあんなに気持ち悪い笑みをするんだから仕方がないって思ってしまう自分がいる。
それどころか、ざまぁみろって思った。ふふ、自業自得だな。
「ふう、暇になっちゃったね、これからどうするよ」
「お客さんが来るまで皿洗いを住ませて掃除でもしていますよ、はい」
「まぁそれでいっか。私にもコーヒー頂戴」
「お店のなんですけどいいんですか?」
「大丈夫だよ。水紋ちゃんも好きに飲んでね? どうせいつも余っちゃうから結局自分たちで飲むことになるし……これもいつものこと。気にしないでいいよ」
「そ、それなら……」
カランと扉が開く音が鳴る。誰か来たようだ。コーヒーはおあずけだ……。
「いらっしゃいませ……って皆さんどうしたんですか」
なんとご来店したのは魚屋さんのおじさんとおばさん、肉屋さんのおじさんとおばさん、町内会の会長夫婦に僕が住んでいたアパートの大家さんまで。僕がお世話になっていた人がいっぱい来た!
「八百屋さんの聞いてきたんだけど、今大丈夫かしら?」
「はい、ご来店ありがとうございます、魚屋さんのおばさん! 今席に案内いたしますね」
「ありがとう、お願いするわ」
僕は全員を席にご案内した。そして注文をとったところ、全員がブレンドコーヒー。
いきなり大忙しになった。しかもだよ、みんなが見てくるんだよ。じーっと、まるで孫娘を見守る祖父母のように……。
そして男どものにちゃにちゃした笑い。同じ男としてどうかって思ってしまうよ。
下心満載な笑いはすぐにバレてお仕置きされているみたいだけど……。
「お待たせしました、ブレンドコーヒーになります!」
僕が配膳を完了させると、皆さんは美味しそうに飲んでくれた。
それがとっても嬉しい。僕が作ったコーヒーで笑顔が生まれるなんて思ってもいなかったから。
なんか天職を見つけた気がする。
あ、肉屋のおじさん……顔を殴られた。ご愁傷様です。
そんなこんなでみんなで笑いあっていたら、あっという間に閉店の時間になった。
「ごめんね、長居をしちゃって」
「いえ、大丈夫ですよ肉屋のおばさん。それはそれとして……お店のほうは?」
「大丈夫よ、息子のお願いしているから」
「そうですか、それは良かったです」
「まぁ、このオヤジどもは仕事をサボってここに来ているわけだから……お仕置きだよ」
「「ひぃ」」
あれ、さっき見たような……デジャブ?
ともあれ、お会計も済ませて、皆さん笑顔で帰っていった。一部大泣きして「いでぇよ」と叫び続けていた人たちもいたけど……僕は気にしないよ!
「ねぇ、私のコーヒーは?」
後ろから聞こえる不気味な声。完全に忘れていた……桜先輩コーヒー入れるの……。
「ねぇ、私のコーヒーはどうしたの?」
「ご、ごめんなさい、忘れていました!」
「はぁ、それ……お客さんには絶対にやらないようにね」
「了解です」
「じゃあバツとして……」
そんなことを言いながら取り出したのは、正統派メイドとはかけ離れた……黒い服に白いフリフリ、かなり短いスカートのメイド服。
「これに着替えてね? あ、下着もちゃんと女物……って言うまでもないか」
「なんで知っているんですか!」
「この前覗いた」
「ははは、犯罪者がここにいる!」
「どんまい! さぁ、早くこれに着替えなさい、さぁさぁさぁ!」
「ひぃ、いやぁぁぁぁぁあぁ」
それから数十分、桜先輩に追い掛け回された。そして結局着ることになるのね。僕はなんて意思が弱いんだ……。
そして、かなりキツキツな格好の僕は皿洗いとお片付けをして、コーヒーで一息つくのであった。
お父さん、お母さん。僕は今日、初めてお仕事をしました。思っていたよりも大変だったけど、皆さんが美味しいって言って笑顔になるんです。
だからとっても楽しい時間でした。
ただ、お客さんの中でにちゃにちゃ笑っている気持ち悪い人とかいるんですけど……未だにどう対応すればいいのかわかりません。桜先輩はずっとスケッチしているのでなんにも教えてくれませんし……、今の僕には助けが必要なんです。
あ、あの姉は論外なので。もっといかがわしい格好で接客しろとか言われそう。
うわぁ、なんか背筋がゾクッとした。
あの姉がろくでもないことを考えているのか!
そういうことで、お父さん、お母さん。今日はとっても頑張りました。だからご褒美が欲しいです!
とりあえず、桜先輩の今日の夕食は手抜きをしてもいいですよね!
コメント