太陽を守った化物

日向 葵

プロローグ~捨てられた少女~

 少女が持つ最も古くて印象の強い記憶は、大きな袋を抱えた母親の姿と、偽物じみた笑みを浮かべる白衣の男の姿だった。

 この腐った世の中、その代表に選ばれるほど碌でもないこの街において、子供を売るということはいつものことである。
 いかに表舞台が平和で幸せそうであっても、必ずどこか闇ができる。太陽が昇り、光で世界を照らせば必ず影ができるのと一緒だ。

 少女は不運にも、闇の中で生まれてしまった。碌でもない母親の失敗のせいでこの世に生を受けてしまったのだ。娼婦である母親は金のためならなんだってする。娼婦館で禁止されていることも平然と行っていた。その欲望にまみれた行いによる失敗により母親は少女を身籠ってしまった。幸い、子供は売れば金になる。だからこそ、この母親は少女を産んで育てた。

 そのはずなのに、少女の肌は白く、やせ細っていた。黒い髪もボサボサで実に汚らしい。体には暴力を加えられたかのような痣もあり、いつ死んでもおかしくない状態である。
 当然、こんな子供を奴隷商が引き取るわけがない。
 そんな、死にゆく運命にあった少女を救ってくれたのは、ほかでもない白衣の男であった。

「大丈夫かい、お嬢ちゃん」

「…………」

 声をかけてきた白衣の男を少女は黒く濁った目で見つめる。まるで死んだ魚のようだ。 手に持っていたのはカビが生えかかっている汚らしいパン。少女はそれをギュッと握り締める。
 どうもこの男からは胡散臭い香りしかしない。
 母親に虐待されて、腐った街で人の闇に触れ続けていた少女は直感でそう感じた。

 だからこそ警戒心を強めているのだが、母親との取引は終了している。少女に選択権はない。
 白衣の男は、少女の手を引いて歩き出す。

「あ……」

 少女の手からカビたパンが落ちてしまった。少女の最後の食料。お腹を常に空かしている少女にとっては生きるために必ず必要なものである。
 白衣の男を振り切って、少女はパンを拾いに行こうとした。だけど、白衣の男の手を振り切るなど、少女のやせ細った体では無理だった。

「あれは捨てておきなさい。大丈夫。これから向かうところで美味しいご飯を食べさせてあげるからね」

「………………わかった」

 少女は残念そうにカビたパンを見つめたあと、諦めて歩き出す。その時、ふと母親の姿が目に映る。

 自分の子供が連れて行かれる様を全く見ようとしない母親は、渡された金に夢中だ。大きな袋にいっぱいに詰まったそれは、贅沢しなければそこそこ遊んで暮らせるだけの額である。

 少女はちょっとだけ眺めていたが、すぐにやめた。
 自分に全く興味のない人間はただの他人。暴力を振るってくる者は全員敵。血のつながりなんて関係ない。あれは敵なのだ。それに、悪いことをすればいつか報いが訪れる。
 この地獄を連れ出してくれるのは白衣の男であり、母親あれではない。例え白衣の男が連れ出した先が地獄であっても、少女にとって今が変わればそれでいいのだ。

 白衣の男が向かった先には三台の馬車が止まっていた。ひとつはとても作りがよく、まるでおとぎ話に出てくるような豪華なものだ。その横に並ぶのは、人を乗せることだけを考えたような、雨風だけ凌げる普通の馬車だった。
 その奥には獰猛な目をした人たちが座っている。少女は少しだけ怖くなったので、繋いだ手をギュッと握った。それに気がついた白衣の男は「大丈夫だよ」と優しく声をかけて、豪華な馬車に少女を案内する。
 馬車に乗ると、白衣の男は御者に声をかけた。

「では、いつもどおりに」

「了解しました。グランツ研究所でよろしいですね」

「ええ、そうです」

「行きの時も言いましたが、この前危険種が現れたせいで道が荒れています。討伐されたらしいので大丈夫だとは思いますが、激しく揺れますので、疲れた際には一声お願いします。多分、その少女は辛いと思いますので」

「了解しました。まぁそういうことだ。君が辛いと思ったら教えてくれ。その都度休憩を取ろう。君にはグランツ研究所で実験を手伝ってもらわねばならないからね」

 少女には白衣の男が何を言っているのかわからなかった。とりあえず疲れたら声をかければいいというのは理解したので頷いておいた。

 馬車が動き出すと少女が思っていた以上に揺れた。少しだけ気持ち悪くなった少女は「うっ」と声を漏らす。白衣の男が少しだけ背中をさすると、落ち着いたような気がした。

「ねぇ、この窓からさっきの場所が見えるんだけど、見てみないか?」

「……なんで?」

「是非とも君に見てもらいたいんだ。欲深い愚か者の末路ってやつを」

「…………わかった」

 少女は言われたとおり窓を覗き込む。見えるのはさっきまでいた場所。人らしい姿が写っているので母親あれなんだろうと少女は思った。

「…………よく見えない」

「ははは、ここからじゃ少し遠いかな? これを使ってみるといい。研究所で作った物で双眼鏡というものだ。よく見えるぞ」

 白衣の男に渡された双眼鏡を使い、少女は窓を再び覗いた。映し出されたのは、もらったお金で何をしようか妄想にふけている母親あれの姿。頬が緩みきっており、だらしない。私のことなんてもう忘れているんだろうなと、少女も呆れる。
 どうでもいい人間をいつまでも見つめているつもりはない。こんなくだらないこと、すぐにでもやめようと思ったその時、異変が起こった。

 母親あれの周りに集まる奇妙な男たち。少女もよく知っている、あの貧しい街で犯罪紛いなことをやっている危ない集団だ。
 母親あれには沢山の借金があった。見た目がかなりの美人であったので娼婦としての仕事には困らない。金は沢山あるはずなのに、あの碌でもない性格だ。稼いだお金どころか他人からお金を借りてまで遊んでいる。その報いがきっとこれなのだ。
 集まってきた人間は、母親あれにお金を貸した者たちの一味であった。だが、そんなことはどうでもいい。
 少女が一番に食いついたのは、母親あれが暴行を加えられて、嬲りものにされ、もらった金を全て取られたところだ。馬車で遠ざかっているため、声は聞き取れないが、何を言っているかは察することができる。
 一人の男に泣きついて、懇願する様は実にみっともなく、醜い虫のようだ。それを笑いながら蹴っ飛ばし、他の男たちが母親あれを襲う。
 まるで獲物に群がる蟻のようだと少女は思った。あれが間違った方向に進んでしまった者の末路。悪いことをすればそれと同じぐらい悪い結末が待っている。

(私は絶対にあれのようにはならない。絶対に、絶対にだ)

 少女は強く誓った。心の中が体に出てしまったかのように、双眼鏡を強く握り締める。己の信念を貫くためか、食いつくように母親あれの末路を見て、目に焼き付けようとした。

 そんな少女の姿を、白衣の男は小さく笑った。少女はそれに気がつかなかった。
 白衣の男は知っている。少女に待っているのは地獄しかないことを。
 一見平和に見えるこの国には、沢山の膿が蔓延っているのだから。

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