武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

6話 決別ⅩⅩ

 名も知れぬARF構成員による虐待以前の記憶までさかのぼってからは、シェリルはARFの人間に多少心を許しているようだった。
 しかし、総一郎はまだ続くのかと辟易していた。シェリルとの同調はかなりの深度で進んでいると言って過言ではない。カバラで凌いでいてもこれだ。すでに総一郎は、同一視まではいかないまでも、シェリルに対して親しみを感じ始めている。
(親しみと言うだけなら問題ではないんだけどね。流石にこの外見で「私、何でウッドの体に入ってるの!?」なんて間抜けなセリフは御免被りたい)
 すでに記憶遡行は数年に及んでいる。体感時間はそこまでのものではないが、やはり虐待のそれが効いた。
(……何だったんだろうか、奴は。いや、それよりも、そうか。この子もまた、地獄を見ているんだな)
 そこまで考え、同情している自分に総一郎は我に返る。同情そのものが悪い訳ではない。しかし今はマズイのだ、と意識を外側に向ける。
 まず目に入ったのは、窓の向こうに生える桜だった。現実のアーカムにとっては、まだ縁遠い桜だ。夜、街灯の光を受けて、神秘的な姿で立っている。
「おっ、新入りか? 可愛いお嬢ちゃんだな」
「おいおいウルフマン、お前そういう趣味があったのか?」
「止めろっ、人を変態に仕立て上げるのは止めろッ」
 ビルではない、郊外の家屋めいた建物の中か。話しかけてくる少年二人組を見て、総一郎はその二人が何者かに気が付いた。まだ中学生になって日も浅いJに、もう片方の少年は――恐らく、ハウンドだ。もっと言うならアーリではなく、その弟、ロバートの方のハウンドだろう。こうしてみると、ハウンドはJよりも多少年が上に見える。
「ふたりは」「どなた?」
 何年さかのぼったのか、シェリルや姉の言葉遣いは舌っ足らずであどけない。
「おれはJ! 一応この家の家主……っていうか、ヒルディスさんに住まわせてもらってる。実は狼男なんだぜ! カッコいいだろ!」
「俺はこいつの兄貴分でな。ロバートってんだ。最近こいつと知り合った、ま、友人ってことにしておこうかね。人間だが、亜人の味方だ。いや、亜人差別の敵っていうのが正しいか」
「シラハは?」
 シェリルの姉が問う。この年頃は、まだボス呼びではなかったようだ。となると、ARFの設立もまだなのか。
「あぁ、シラハさんなら多分ヒルディスさんと一緒にパソコンと睨めっこしてんじゃねーかな」
「ああ、何だっけ、株やってんだったか? あんなアナグラム計算の面倒くさいことよくやるよなぁ。流石は天使」
「ばい」「ばーい」
「あ、行っちまったよ」
 Jの言葉を背に受けながら、シェリルは廊下を走っていく。そして適当な扉を開けると、そこには狙い通り白羽とピッグが居た。どうやら書斎らしい。本棚からいくつかの書籍を出して中央の机に数冊重ね、電磁ヴィジョンを複数だして話し合っている。
「えーと、資金はどんくらいだったか、天使の嬢ちゃん」
「五十万ドルだね。私としてはそろそろ株から手を引いて、実業に移りたいなって思うんだけど、どう思う?」
「実業、ねぇ。悪かないが、何でそう思うんだ?」
「だって、亜人のみんなの雇用を増やしてあげなきゃいけないでしょ? でも差別があるから、雇えるとしたらお金を持ってる私たちしか居ないし」
「……参ったな。本当、嬢ちゃんはオレの考えの先を行ってやがる。確かにそうだ。捕まったオヤジさん、殺された仲間たち。それ以外の連中がくすぶったまま苦しむのだけはどうにかしなきゃいけねぇ」
 中学生でこんな高度な話をするのか我が姉は、と総一郎は驚きを隠せないが、体の持ち主であるシェリルにはそれも及ばない。「シラハー」「あそんでー」と双子たちが空気を読まずに部屋に入っていく。
「ん、ああ。シェリルちゃんたちか。ごめんね、今ちょっと大事な話してるから」
「いや、大丈夫だぜ嬢ちゃん。実業の方針で決まりだ。余ってる男手の方を動員して、そっちの方で用立ててみる。それよりその子たちと遊んでやってくれ。引き取ったばっかりの子だろ? ……ええと、何だったか。シェリル? どっちがどうなんだ?」
『きにしないで』
 姉の言葉は不思議に反響して、白羽の視線がおぼつかなくなるのが分かった。しかし、ピッグは違った。眉根を寄せ、沈黙する。その反応にシェリルが怯んだところで、ピッグは表情を緩めた。
「……なるほど、こいつは癖の強いのを連れて来たもんだ。おい、おい天使の嬢ちゃん! 起きてるか!」
「えっ、ああ、……どったの? ヒルディスさん」
「強度は弱め、だな。害意はない。素質に物を言わせた結果か。サキュバスかヴァンプか、どっちでもいいが、双子の嬢ちゃん、嫌なことを聞かれたからってそういう風にするのは良くないぜ? ほら、天使の……混ざるな。シラハに謝るんだ」
「え」「あ」「ご」「ごめんなさ」「い?」
「ヒルディスさん、シェリルちゃんたちどうしたの? 何に謝らせたの?」
「魔法の類は仲間に使うもんじゃねぇぞってことをな。ほら、ガキんちょどもは遊ぶのが仕事だ。天使の嬢ちゃんに相手してもらいな」
「シラハー」「こう言ってるしー」
「あはは、そうだね。じゃあ行こうか二人とも。何して遊ぶ?」
「おそと」「いきたいー」「サクラでね」「キノボリするの」
「えぇー、もうお外真っ暗だよ? ……って、そうか、吸血鬼だからそれがデフォか。よしっ、いいよ。怪我しないように見ててあげる」
「シラハも」「のぼるの!」
「ふふ……、いいのかな? 私はこれでも木登りマスターとして名を馳せた実力者……!」
「お」「おー!」
「ま、堕天使も吸血鬼も闇には強いしね。にしても二人とも、そんなに活発だったっけ?」
「サクラ」「ちかくで」「みたいから」「らー」
「なるほどなぁ。じゃあ、お姉ちゃんとはぐれないようお手々繋ごっか」
「「んー」」
 白羽に手をつながれる。その感覚が総一郎の記憶を刺激して、客観視の言葉を思い出させた。途中、シェリルが勢いよくこけて目をつむる。
 また時間が遡る。
 目を開けた時、小さな薄暗がりの中で震えている事に気が付いた。怖くてたまらない、という感情に頭を埋め尽くされかける。寸でのところで、白羽の手のぬくもりを思い出す。自分はシェリルなのではなく総一郎なのだと言い聞かせる。
(何があったんだ? 何でシェリルはここで震えている?)
 前から、双子の姉がシェリルを抱きしめている。そしてその肩に食らいついて、シェリルは血を吸った後の傷を舐めている。複雑な思考は出来ず、ぼんやりしているようだった。だが扉の向こうへの恐怖は健在だ。
 総一郎は推理する。おそらくここは、タンスの中であろう。隙間から漏れる光は昼間を意味している。吸血鬼が恐れる時間。本来なら、光の全く入らない棺桶にこもるのが普通だろう。
 何かがあったのは、間違いがない。しかし姉の血を吸う理由が分からないし、恐怖がどこか漫然としているのも理解に苦しむ要因の一つだ。
 時折小さく、「安心して、大丈夫だよ」と繰り返す姉の声は、年齢不相応に大人びていた。これもまた不思議だ、と総一郎は疑念に彼女を注視する。シェリルの名も知れぬ姉は、シェリルを慰めるとき大人びた口調になり、それでいて人前では幼い言葉遣いで話す。
 そうしていると、外から人間の慌てたような足音が聞こえ始めた。双子はそろって震え、掛けられた服をかき分けて暗がりの奥へと移動する。そこはタンスの奥で、他者と言うのだけでなく、太陽光を恐れた行動だ。
 しかし総一郎は、足音だけで見抜いていた。直前の記憶を含めて考えるなら、この外にいる何者かの正体など分かり切っている。
「何処にいるの!? 返事して! 私は助けに来たの! 助けたいの! 差別の為に死を選ぶなんて間違ってる! あなたは生きててもいいの! 私は、生きて欲しいの!」
 その声色は必死で、助ける立場でありながら助けを求めているような響きがあった。総一郎は、先日修羅の中から再発見された過去を思い出す。
(白ねぇは、変わらないね。いつだって、誰かのために必死になれる人だった)
 そんな風に嬉しく思も気持ちがシェリルに伝わったわけもないのだが、シスターズは声に惹かれて僅かに身じろぎをした。それが音を立て、白羽を呼び寄せる。
 ゆっくりと開かれた扉が眩しくて、姉は「開けないで! 太陽光はダメなの」とシェリルを庇うように覆いかぶさった。そのぬくもりと、姉の肩の向こうで後光の差す白羽の姿に、シェリルは目をくらませる。
 総一郎は、その僅かな時間に覚悟を決めた。きっと次が最後だと。これからがヴァンパイア・シスターズの原点だと。











 目が覚めると、夜だった。見覚えのない天井がある。パジャマでいることから、これは当時のシェリルにとって普段通りの起床であると総一郎は推測した。吸血鬼にとっての朝という訳だ。
 それからしばらくの間、シェリルは柔らかなマットの敷かれた棺桶の中でうぞうぞと二度寝を始めた。布団を頭まで被って、小さな声で唸っている。
「こら、シェリル。もう起きなさい。お父様があなたの事を待ってるわよ」
 呼びに来たのは、以前見た家族写真にも写り込んでいた、母親らしき女性だった。「やぁあぁ」と幼い抵抗も親の力づくには無力だ。
「ほら! いい子にしないと怖ーい警察の人が来て、シェリルの事を捕まえちゃうんだから! あなたには才能があるんだから、ちゃんと血族の魔を学ぶのよ」
「むぅう……。起きる……」
「そうそう、偉いわね」
 と言うよりも、瞼をこすりこすりするシェリルを勝手に着替えさせ始めているのだから、これから寝直すわけにも行かないというもの。総一郎としては、強引だなと苦笑してしまう。
 それから、家族の存在について考えた。きっとこれから殺される人々なのだと思うと、やるせない。シェリルの視界を注意深く認識しつつ、事件の前兆を探る。気付くのは、姉の姿が見えない点だ。すでに起きているという事か、あるいは居ないことが前兆なのか。
 それに、と総一郎は思い出すのだ。写真の中でシェリルを抱いていたあの歳離れた姉らしき人物は一体だれか。推測はいくつか立てているが、どれもしっくりと来ないでいる。
 シェリルは朝食にワイングラスに入った液体を一飲みして(中身の正体については考えたくない)地下の部屋へと降りていく。その内装は総一郎がシスターズを追い詰めた家そのもので、あの家は生家だったのかと気付かされる。
「おや、来たね。お早うシェリル」
「お父様おはよー。きょうはなにするの?」
「今日はね、シェリル。群体の魔について学ぼうか」
 地下室――総一郎とシスターズが現実で昏倒しているだろう場所――に立っていたのは、髭をたくわえた紳士だった。古めかしいコートを羽織っていて、極力肌の露出を押さえている。吸血鬼らしい服装だったが、普段ならば想像もさせないだろう洗練さがあった。
「ぐんたいのま?」
「そうだよ、影縛りよりも高度で、変化のさらに先の魔だ。けれど天才のシェリルにはきっと簡単だろうね」
「……えへへ」
 褒められて照れているのか、シェリルは視線を下げて頬を緩めた。今もどこか姉の背後から喋るような子だったが、表に出るタイプでないのは昔かららしい。
「それで、ぐんたいって?」
「まぁ、簡単に言えば霧になったり蝙蝠になったりだね。我ら血族でも、もっとも強力な能力の一つだ。この状態になった時、太陽やそれ以外によほどのハプニングがない限り、我らは死ぬことはない」
 こんな風にするんだよ。言い終えた時にはすでにシェリルの父は霧と化していて、シェリルが驚きに瞠目した直後、背後から彼女の体を抱きかかえた。
「キャー! あははははは!」
「ほーら! すごいだろう? 吸血鬼はジェントルマンであるべし。そしてジェントルマンは、あらゆる技に精通するものだ」
「わたしは男の子じゃないよー」
「ははは、そうだね。じゃあ立派な淑女になるため、頑張ろうじゃないか。さ、シェリルもやってごらん。変化する端から、一つ一つ違うものになっていくような、感覚的にはそんな感じでやってみるんだ」
「かんかくはー」
「……お母様が言っていたのかい? ああ、まぁ、私の説明で通ずるのはシェリルくらいのものだがね。つまりお父様はシェリル専用の先生という訳だ」
「えへへ。――こう?」
 指先を蝙蝠のそれにしたかと思えば、その一つ一つが小さな蝙蝠と変わっていく。痛みはなく、ただ目などの感覚が増えていくという奇妙な体験だった。なるほど、これは非凡な想像力を必要とする。少なくとも、大人の人間が吸血鬼になってできる芸当ではない。
 十数秒かけて、シェリルは全身を蝙蝠たちに変えた。無数の瞳による視覚情報が集まるのは、正直情報過多で酔ってしまいそうだ。
 その様を見て、シェリルの父は感嘆に声を上げた。
「素晴らしい! 霧どころか最も難度の高い生物形態までやってのけるとは、流石我が娘だ! このまま成長してくれれば、きっとシェリルは吸血鬼の中でも存在感ある一人になることだろうな。……これで、少しは馬鹿にされなくなるだろうか」
「お父様?」
 スムーズにシェリルは元の体に戻って、父へと近寄って行った。父はしゃがんでシェリルと視線を合わせ、「いいかい?」と言い聞かせる。
「シェリル。今日の朝ご飯は何だった?」
「にんげんの血でしょ?」
「ああ、そうだ。人間の血液だ。それ以外にも食事をすることは出来るが、やはり吸血鬼は人間の血を吸わなければ生きていけない。では、もう一つ質問だ。今日の血は、どこから手に入れたものかな?」
「いつもお父様いってるでしょ。アレは『モンスターズフィースト』の人からゆずりうけているものだって。にんげんをおそって手にいれてるものじゃないって」
「そうだ。……シェリル。私はね、昔は違った。他の血族のもののように、人間から血を奪って生きて来た」
「そうなの!?」
 シェリルは心底驚いたらしいことが、総一郎にも伝わってきた。どうやら吸血鬼でも、人を襲うことが良くないと教えている家庭だったようだ。
「ああ、そうだよ。だがね、お母様と結婚して、お前のお姉様が育って……止めた」
 シェリルの姉。総一郎は傾聴する。だが父は首を振って、話を戻した。
「あれ以来、私もお母様も、人間を襲うことはなくなった。他の血族には臆病者と誹られたこともあったが、私はそれを止めようとは思わなかった。時代の移り変わりを感じたんだ。襲っていれば、いつか私たちこそが狩られる側になる。狩りを続けられる時代は終わる。そう強く感じた」
「かられる?」
「シェリル」
 舌ったらずに首を傾げる娘に、吸血鬼の父は優しく微笑んだ。
「お前には才能がある。他ならぬ吸血鬼の才能だ。きっと最高のヴァンパイアとして名を馳せる事だろう。だがね、それでも人間は襲ってはならないよ。襲うという事は、襲われる原因を作るということでもある。我が祖父、吸血の古老が警察の手に掛かったと聞いて、シェリルのお姉様も……」
「お父様? お姉様がどうかしたの?」
「……長い旅に、出てしまってな。ダメだな今日は、つい感傷的になってしまう。命日も近いからかな。ともかく、シェリル。吸血鬼として強くなりなさい。だけど、人を襲わないようにもしなさい。そうしていれば、きっとシェリルを見習って血族全体が変わっていく。血族を狩る力を人間が有する前に私たちが変われば、きっと無用な犠牲は出さずに済む」
「にんげんはたべものじゃないってこと?」
「そうだよ。いずれ手を取り合っていく必要がある。少なくとも、それが出来ることをジャパンと言う国が証明してくれた。あの国は、亜人にとって天国のような国なんだろうな。もっとも、戸籍の無い私たちにとっては縁遠い話だ。この件に関してばかりは、一斉拿捕の上手く逃れた父を恨むよ」
 総一郎は話しぶりに違和感を抱いた。この口ぶりだと、まだ日本人が亡命してきていないのか? なら、先ほどの白羽に助けられた記憶は?
 そこまで考えて、元々の時系列がおかしいと気付く。
 亜人差別は、元々強力な種族魔法を操る亜人の暴虐が主な要因だ。そこに対抗するマジックウェポンが開発され、モンスターズフィーストと警察の力関係が均衡しつつあったところで、JVAの介入で力関係が崩された。
 なら、今はいつだ? シェリルの父の口ぶりから察するに、マジックウェポン登場以前ではないのか? この家族がマジックウェポンの最初の犠牲者だという話ではなかったか。なら、先ほどの記憶と今ではつじつまが合わなくなる。
 シェリルは、何から隠れていたところを、白羽に助け出された?
「お父様。わたしお姉様のことすこしだけおぼえてるよ。泣いてるところをね、ぎゅってして、なぐさめてくれたの」
「そうだね。優しい子だった。あの子はシェリルのような天才ではなかったが、間違っていることを間違っていると言える、芯の強い子だった」
「お姉様すきー。ね、いつ帰ってくるの?」
「……きっといつか帰ってくる。シェリルが、いい子にしていればね」
 そうやって誤魔化すシェリルの父に、優しくて残酷な嘘だと総一郎は評価する。騙されるのは小さな子供だけだ。けれど大人は、ここぞというタイミングを逃すと、嘘を嘘だと言えなくなる。
 それからも何回か種族魔法の練習をして、シェリルとその父は地下室を後にするようだった。総一郎はその記憶を前にして思案を続ける。
 何かが、狂っているのだ。その何かを、総一郎は掴みかけていながら分からないでいる。カバラを使えばいいだろうが、この場面では難しかった。シェリルとの共感覚による集中力の欠如に加え、発見できるアナグラム量が人間の演算能力内におさまらない。
(……でもどうせ、俺は真実を目撃せざるを得ないんだ。覚悟だけ決めていればいい)
 父娘は地下からの階段を上がっていく。その途中で激しい銃声を聞いた時、総一郎の肚は据わった。
「吸血鬼狩りか。まさか自宅で襲撃されることになろうとは……シェリル、さっきまで練習していた群体化は出来るね?」
「う、うん。なに、今の音。ばばばばーって、てっぽう?」
「シェリルは物知りだね。そうだよ、人間の強力な武器だ。だが群体化が出来ればそこまで怖いものでもない」
「霧になればいいの?」
「ああ、そうとも。……そうだな、ああ、――シェリルは、霧になってタンスの中に入り込むんだ。そして少しだけ開けて、そこからお父様の戦いぶりを見ていなさい。いずれ自分を守らなければならないときも来る。そういうとき、お父様を思い出すんだよ」
「お母様は?」
「お母様は、あまり荒事が好きじゃないからね。きっともう隠れているさ」
 行くよ、という父の号令に、父娘はそろって霧と化した。総一郎の五感は閉じられず、移動による触覚の刺激が何となく現在地点を理解させてくれる。
 シェリルは上手いことタンスの中に潜り込んで、実体化してから夜の部屋を隙間から覗きこんでいた。外では数人の足音が激しくならされている。
「……ちょっと、こわい」
 小声の独り言を漏らすシェリルに、総一郎は切なくなる。声が近づいて来て、「きた」と息をひそめるこの小さな吸血鬼の目を、どうにかして塞げないものか。
 隙間から見える場所にまず現れたのは、アルノだった。
 外見は、この当時と総一郎たちが知り立った現在とで、まったく変化は見られなかった。人間でないと知ってはいたが、老いることも成長することもないのか。銀剣を携えた姿は見慣れたものと同一だ。
 そして、その傍らに立つ少女に目がいった。ファッションセンスは、アルノのように一貫している。シックなお嬢様然とした服装。しかし年齢が、やはりおかしい。こうして見てみても、シェリルよりも幼く見える。
 ルフィナ・セレブリャコフ。シルバーバレット社の令嬢にして、何かを隠して総一郎に近づいてきた人物だ。
 だが、どこか違う事に気が付いた。表情、雰囲気、そういった人格からにじみ出る類のものが、総一郎の記憶にあるルフィナとは違っている。
 連想するのは、鋭さだ。ナイフのように尖った印象を抱かせられる。きびきびとした動きで歩き、そして部屋の中央に立った。
「さて、様子を伺っているようだが、面倒な駆け引きはよそうじゃないか。三人いるはずだ。出て来給えよ。貴君らは高貴なる吸血鬼の血族なのだろう? こそこそとしているのは卑俗な者のやることだ」
 その言葉がルフィナの口から放たれたものだと理解するのに、総一郎は多少の時間を要しなければいけなかった。まず他の人間の存在を疑い、次のアルノの口が動いていなかったことを思い出し、やっとルフィナの台詞であったと認めた。
 ――かけ離れている。総一郎が友誼らしきものを交わした彼女と。
 総一郎の記憶の中のルフィナは、どこまでも深窓の令嬢だった。上品な話ことばやどこか世間ずれした価値観、そして特有の、底の見えなさ。
 しかし目の前の、シェリル以上に幼い彼女はどうだ。まるで人間の汚い面を知り尽くして生きて来た、老獪なビジネスマンのように総一郎の目には映った。
「……人間風情が、中々言うじゃないか。それも、吸血鬼狩りに来るような人の世の外れ者が」
 シェリルの父の声だ。侵入者を動揺させるような精神魔法に帯びた、恐ろしいものであるはずのそれ。シェリルはその思惑通り肩を跳ねさせ震えたが、ルフィナ、アルノの主従は反応もしない。
「アルノ、捉えたか」
「はい、ご主人様。警察官との裏取引で得たデータの通りです。声紋認証も一致しました。彼は吸血の古老の孫であり、また改革派の筆頭です」
「狙い通りだな。では無力化せよ。特に、銃を使って、な」
「仰せのままに」
 アルノは腰から銀剣と短銃を取り出した。「図に乗らないでもらいたいものだな」と父は彼らの背後に実体化し、自身の影を操ってルフィナ、アルノの影を縛り付けた。
「この程度でも、君たちは動けないだろう? それにしても、警察によってここまで私の情報が暴かれているとは……。やはりもう、人間は侮れる相手ではなくなっているという事か。仕方ない、君たちを払いのけたら、早々にここを立ち退かせてもらうとし」
「アルノ」
「はっ」
 アルノは影縛りを何らものともせず、自らの影に銀剣を突き刺した。途端父はうめき声をあげて腰を折る。
「なっ、魔を奪われただと? そっ、そんなまさか」
「運がいいな。もっとも我々にとって都合のいい形になった。これならば映像を残すことも可能か。アルノ、設置し給え。これが我が社の第一歩となる」
「なっ、何故だ! 何故動けない! この影は私の魔だろう!? 何故私が縛られなくてはならないのだ!」
「では、吸血鬼殿。そこにいる執事が、今から君を我が社の銃でハチの巣にする。だが君には抵抗する権利がある。日本では主に魔法と呼ばれているあれだ。火の弾だったり氷の槍だったり……、まぁ、好きなようにして我々を殺すなり銃弾を弾こうとするなりしてみてくれ」
 アルノは撮影機を少し遠巻きに置いて、これから行われる撃ち合いの準備を終えてシェリルの父の向かいに立った。アルノは銃を持ち換えようとしたが、ルフィナは首を振る。
「ああ、そのままで結構だ。一発一発が魔法に対抗できると、見る者に分かりやすいようにし給え。機関銃などを使っては、物量に頼っていると勘違いされてしまうからな」
「仰せのままに」
 アルノは仕舞いかけた短銃を、ゆっくりと父に構えた。紳士然としていた父も今は焦燥に汗を流し、その目を血走らせて執事を見つめている。
「き、君たちは何者だ……? 一介の吸血鬼狩りじゃないだろう。もっと力ある、立場ある人間に違いない」
「そうだな。渡米してきたばかりとはいえ、部下も金も多少はある。――それで、一体君は私にどんな商談を持ち掛ける気なのだね?」
 圧倒的強者の立場から、幼いルフィナは悠然と笑みを投げかけた。シェリルの父は、つっかえつっかえしながらも説得を始める。
「単なる吸血鬼狩りではないと見込んで、頼みたい。どうか、見逃してはくれないか? 私は、人間と極力敵対したくないと考える一派の者だ。血族全体の考えを、人間と親和的な、日本にいる吸血鬼たちのそれと同じように改革していきたいと考えている」
「ああ、知っているとも。人間を襲ってこそヴァンパイアの本懐とする保守派に対して、人間と手を取り合うべきだという君たち改革派、だろう? 知っているよ。いくつかバウンティーで小銭稼ぎついでに、亜人側の情報を収集していてね」
「な、なら、なら私を殺すことは、人間にとって都合が悪いことも分かるだろう? 事実の裏付けも取れているはず……」
 そこまで言って、父は言葉を詰まらせた。「どうしたね?」と首を傾げるルフィナを、父は強く睨みつけて詰問する。
「バウンティー、と言ったか、貴様。それはつまり、我が友人を捕らえて、警察に突き出したという事か」
「ああ、いくつかね。警察とのコネクションのために活用させてもらったよ。彼らは君と違って、魔法を使えないから銃の効果を確かめることは出来なかったが」
「銃の、効果? その銃は、これまでの物とは違うとでも――ああ、そうか、貴様、貴様! 偶然私を狙ったのではないな? 吸血鬼狩りとしてでなく、改革派の、『人間と手を取り合おうとする私』を狙って、ここに来たのだな!?」
「……ご明察だ。やはりいの一番にここに来てよかったよ」
 シェリルの父は紳士らしい落ち着きを完全にかなぐり捨てて、獣のような方向と共に大量の魔法をルフィナ達に向けて撃ちだした。それにアルノは表情一つ変えず、銃を撃ち始める。
 総一郎は、その結末を知っていた。
 シェリルの父の魔法は一つ残らず打ち砕かれ、最後にはその穴だらけの死体を晒した。これがあのマジックウェポンの始まりか、と歯噛みしたくなる。シェリルの震えが総一郎を苦しめた。怒りよりも恐怖が、少女を縛って動けなくさせている。
「あなたッ」
 我を失って、母がどこからともなく現れた。彼女は父に縋りついて、髪を振り乱しながら泣き叫ぶ。それから血涙を流しながら、アルノに向かっていった。
「アルノ、もはや銃の有用性を示す記録は手に入れた。銃をしまい、迅速に処理し給え」
「仰せのままに」
 いっそ機械的な対応で、執事はシェリルの母を銀剣で串刺しにした。その恐ろしいほど鋭い剣閃を、総一郎は覚えている。――そうか、シェリルはこのシーンのみを、アルノの強さとして忘れられなかったのか。
 零れ落ちる血に、切っ先に貫かれた心臓。アルノは剣を強く振って、その汚れを払い落とした。
「さて……あと一人、居るはずだが」
 ルフィナの呟きに、シェリルは竦み上がった。口の中で「でたらダメ、でたらダメ」と繰り返しながら、そっとタンスの戸を閉める。視界が闇に閉ざされた。会話だけが聞こえてくる。
「どうだ、アルノ。場所は分かるかね」
「……申し訳ありません。気配はありますが、正確な居場所は現状では難しいと思われます。許可をいただければ、捜索を始めますが」
「面倒だが、そうするしかなさそうか。怪しいところを探していこう。例えば、そう。あのタンスの中とかね」
 シェリルはもう限界だった。頭を抱えて、涙を流し、震えによって存在が露見することを恐れ、それを止めようとしながら止めることが出来ないでいる。タンスの外にはもはや恐怖と絶望のみがあり、それらが剣の形をとってシェリルを貫き殺さんとしている。
 これで、シェリルが凡庸だったなら、きっとこのまま死んでいた。だがシェリルは、天才だった。
「たすけて、お姉様……!」
 総一郎は、全てを理解した。
 シェリルは祈る。都合よく、行方知れずとなってしまった姉が自分を助けに来てくれることを。それは奇跡だ。総一郎は、その奇跡が起こらないことを知っている。
 だが、奇跡は起こった。運ではなく、シェリルの才能が紛い物の奇跡を模った。無意識的に行使するのは、群体化の種族魔法だ。ただし蝙蝠や霧のように、数えきれないほどに散らばるのでない。
 二つ。シェリルは、二つに分かれた。姿かたちのそっくりな、双子の姿になった。
 問題は、その片方が人格を有したことだ。
 総一郎はこの現象を知っていた。人間が過度の精神ストレスの為に起こす、精神病の一つだ。解離性同一性障害という病。
 人はそれを、二重人格と呼ぶ。
「大丈夫だよ」
 たった一言、シェリル自身の声が耳元で響いた。だが骨伝導の有無により、それが自身の声だと気付けない。シェリルはそれを姉の声だと錯覚した。それがさらに、分裂した片割れの力を強めた。
 タンスの向こうで、片割れは現れたらしかった。それをアルノは容赦なく殺す。だがシェリルにはそれが分からない。ルフィナ達はそれで満足して、去っていく。危機は去った。だがそれすらシェリルには分からない。
「大丈夫だよ、シェリル」
 殺されたはずの分身は霧と化し、タンスの中で再構成した。それから、姉の姿を模った分身はただシェリルを安心させるためだけに意味のない「大丈夫だよ」を繰り返す。
「お姉様……、お姉様……!」
 シェリルは片割れに縋りつき、声もなく泣いた。片割れの言う事は変わらない。シェリルを安心させるための「大丈夫だよ」。
 けれど、姉として現れたとしても、その根っこはシェリルでしかない。タンスの外をひどく恐れる、小さな吸血鬼でしかない。タンスの外が安全だよとは、この姉もどきは教えてくれないのだ。
 シェリルの涙で視界がゆがむ。終わるのだと分かった。総一郎は、少しずつ力の入り始めた自分のこぶしを握り締める。
「そうか、君は、この後もタンスの外を恐れ続けて出られなかったのか。白ねぇに助けられるまで、暗闇の中、何年も孤独なまま。姉と称して自分の血を啜り、吸血鬼と言う種族の死ににくさだけを頼りに、ずっとタンスの中に閉じこもった」
 涙が、零れた。シェリルのではない。総一郎自身の涙が、やるせなさに頬を伝った。
「やっと、やっと分かった。ずっと誰かに似ていると思いながら、誰に似ているのか分からなかった」
 視界が、晴れた。目の前に、滂沱の如く涙を流すシスターズが居た。総一郎は納得する。総一郎がシェリルの過去を見たのだ。シェリルだって総一郎の過去を見ているのが自然だろう。
「あ、ああ、ああぁああぁぁぁぁ……」
 シェリルが、たどたどしい動きで総一郎に近寄ってくる。そして、総一郎を抱きしめた。そこに込められるのは純粋な同情だろう。総一郎も震える手で抱き返す。
「君が似ているのは、俺だ。誰にも心を開けなかった。大切な人を失って、ひどい虐待を受けて、たった一人で強くなるしかなくて、そうやっておかしくなって」
「ちがうよ。ダメだよ。仲間外れにしちゃ、ダメだよ」
 シェリルの涙声に、総一郎はハッとした。全身が震えだす。
「あぁ、そうか」
 総一郎は、うなだれた。ちょうど頭がシェリルの肩に乗るような形になる。小さな少女でありながら、総一郎に近い苦痛を背負ってきた肩だ。堪らなくなって、シェリルを抱きしめる手を強くする。
「君と俺が似ているんじゃない――ヴァンパイア・シスターズは、俺とウッドに似ているんだ」
 孤独、喪失、自己の破壊。地獄の中で才能を開花させ、救いを求めて心を二つに砕いた点まで、悲しいほどに似通っている。
 二つの影は気のすむまで抱きしめ合って泣き続けた。それから、少し早くに涙の治まった総一郎は、自嘲するように吐き出す。
「それにしても、俺はいつも間が悪い。こうも似通っていると知ったのがウッドだったなら、きっと満足して死ねたのに」
 シェリルはそれを許さないかのように、回した手をきつくする。

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