武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

6話 決別Ⅷ

 翌日、図書の家のリビングで、その報道は流されていた。
『とうとう激突したウッドとラビットの戦いがこちらです。ああっ、見てください! アーカムでも有数の高さを誇るビル群が、いとも簡単に崩されていきます!』
「……もうこの報道が続いて一週間近くたってるけどよ。いまだに現実感ねーぜ。何だこの映画みたいな戦い」
「うぉおおおおお! そこだ! 行けラビット! ウッドをぶん殴れ! ……え? これCGじゃないのか? 嘘だろう?」
 図書と清の般若兄妹は大興奮で今朝のニュースにかぶりついている。途中清の膝にのせていたウルフマンが喋ったのを聞いて、キョトンとする七歳児だ。
「……総ちゃん」
 深刻そうな声色のブラック・ウィングを黙殺して、限りなく平然を装って朝食を口にした。視線を向けてもいないのに、耳に届く音は報道のそればかり。飯の味さえ、何を咀嚼しているのか分からない始末だ。
「ご馳走様。俺はもう出るよ」
「は? 学校は休校のはずだろ?」
「それは昨日まで。ほんと、やっと再開だよ。一週間も家に引きこもらせるなんて、ミスカトニック大学も心配性で敵わないね」
「順当だろ。はは、でも学校が休みで嫌がるってのも、ティーンエイジャーらしくって良いな。出る前にコーヒー飲むか?」
「今朝は目がぱっちりしているから、遠慮しておくよ。あんまりのどが渇いていないんだ」
 図書の提案もやんわりと退けて、支度をして早々に家を出た。ARFの奴らの不安げな視線は、反応するのも嫌だった。空は相変わらず、雲に覆われている。だがどんよりとした雰囲気は少しずつ薄れていて、もう冬の終わりなのかとすら感じられた。
「……止めてくれ」
 空も見ずに呟く。
「春になどなるな。ずっと冬のままであればいい。冷たい、雪に隠された、凍える冬が続けばいい……」








 ニュースによるなら、ウッドに扮する“彼”はラビットと互角以上にやりあったらしかった。
 ラビット――グレゴリーは、報道陣が駆け付けるとともにフードを被り、しかしあのあり得ない拳はそのままに戦いを続けたようだ。しかし“彼”はそれを物ともせず、奴を傷つけるほどでないにしろ疲弊するにまで追い込んで、そこから姿を消したのだと。
「いやー、物騒だよネ~。ん? ネ? ね?」
「ね? だね。前の方はいつもの仙文の調子外れイントネーション」
「ん~、難しイ。ううん間違い。難し“い”」
「そうそう」
「えへへ」
 お互い今日の授業を終わらせて、仙文と二人、食堂で駄弁っていた。どうやらこの純粋な同級生は、とうとう自らの英語の発音を顧みることに決めたらしく、会話のたびに確認を取りながら正しい言葉の抑揚の勉強をし始めたようだ。
「だけド、……ダケド? ダケど……、ハッ、だけど!」
「うん」
「だけど、ウッドって本当に強いんだねェ。マサカ、違う。まさか、ラビットと互角以上に戦っちゃうなんて」
「そう……、だね。奴は、本当に強いみたいだ。あと仙文は語尾が上がる癖を気にするのが結構大きいかも」
「エ、そう?」
「今みたいな驚いた時もちょっと上擦る……、いや、このくらいは個性かな」
「アハハ、気にし始めるといちいち恥ずかしくって仕方がないヤ」
 仙文は少し頬を赤く染めながら、ぬるくなった紅茶をすする。
 そんな仙文に、抱き着く少女が現れた。
「仙文~~~!」
「キャー!」
 背後からの襲撃に余程驚いたのか、今時女の子でも出さないような甲高い悲鳴を上げるみんなのマスコット。仙文の首周りにしがみつきながら、真っ赤なブロンド少女は深くため息を吐く。
「あ~……一週間ぶりの仙文~……。やっぱり仙文はいいわね。癒されるぅ……」
「あ、もう! ヴィーはいっつもボクにこんなこと……! いい加減にしてヨ! ボクだって男なんだからネ!」
「あ、かなり発音良くなってる」
「え、そう?」
 それだけで怒りらしきものはどこへやら。流石のチョロさである。
「何か疲れてそうだね、ヴィー」
「そうなのよ……。っていうか、まだそんな真冬みたいな厚着なのね、イッちゃん。ルフィナ様と吸血鬼狩りに行ったんじゃなかったっけ」
「失敗に終わったよ。やっぱりARFは伊達じゃなかった」
 そういえばそのルフィナとは連絡を取れていないな、という事を思い出す。その後のラビットが衝撃的に過ぎて忘れていたが、あのような唐突な別れであちらから連絡が来ていないというのも妙な話だ。
「ここにこうやって来れてるだけで充分って気もするけどね」
「今のアーカムで五体満足なんだから、お互い様じゃない?」
「え……? ああ、あはは、違いないわね。ホント参っちゃうわ。退屈しのぎにチャンネル回しても、ウッドラビットウッドラビット! あいつらの顔なんてもう飽き飽きするくらいみたわよ!」
「ソウダソウダー!」
「はい仙文イントネーションおかしー。罰ゲームのぎゅー」
「むぎゅー」
 肩をすくめて二人のじゃれ合いを眺める。それから、不意にヴィーの反応が引っかかってカマをかけた。
「それで、ヴィーはどうしたの? ウッドとは関係なしに、何だか疲れてそうだけど」
「ああ……、それがねぇ。もー大変なのよ! あのバカ親父もう何日も家に連絡入れないで……! 私の! 生活費!」
「あらら……」
 苦笑して、そういえばヴィーの家庭環境などを全く知らないということに、今更ながら気づいた。
 と言っても、知らない相手の方が多いのだが。
「お父さんが行方不明ってこと? え、大変じゃないか」
「元々音信不通気味の親父ではあったんだけどね。でも最低限家には帰ってきたし、ウチの家は父子家庭だから、親子っていうよりも仲間って感じでお互いに愚痴りながらやってきたんだけど……あー! せめてメールくらい返しなさいっつーことよ! 腹立つ!」
 苛立ちが先行しているが、どうやら心配だということらしい。「それはそれは」と相槌を打ちながら、心配だねと共感の言葉を投げかけようとした。
 寸前で、止まる。自分には、修羅には、言ってはならないセリフだと感じたから。
「そレは心配だネ」
「そーなのよー! あと“それ”の発音おかしいわよ。それ、ね」
「ソレ?」
「それ」
「ああ、それ」
 そこでヴィーは二人が見ていた電磁ヴィジョンに気づいたらしく、「まだ見飽きてないの? 二人ともモノ好きねー」と嫌そうな顔。
「もう思い出すだけでもブルブル来ちゃうわ。私都心に家があるからもー破壊音が怖くって。私の行きつけのカフェも一つ壊滅したし」
 とても個人的な恨みだった。
「嫌なことって重なるわよね……」
「家族が居なくなったら不安だヨ……。ボク、その気持ちすっごく分かル!」
「え、ああ違うのよ。バカ親父の失踪はウッドラビットの前だし、しぶといからそっちの心配はしてないんだけどね。二人とも昨日の速報まだ見てないの? ウッドラビットの戦いじゃなくて」
「守株の戦いだけじゃなイ?」
「あ、仙文その名前頂き」
 報道によれば、その後の戦況はまさに、木の株にぶつかって骨を折るウサギだったそうだ。実際には根っこごと引き抜くような怪力ウサギだったが。
 と、話がそれたのを思い出し、ヴィーに続きを促すよう視線を向けた。ヴィーはさらりと仙文の発音を訂正してから、「そうなの」と続ける。
「何かね、この大バトルの影に隠れちゃってるんだけど、何でも『ハッピーニューイヤー事件』の被害者がね、全員失踪したらしいのよ」
「……何だって?」
 耳を疑い聞き返す。あの首無したちがどうしたというのか。
「だから、失踪よ失踪。百人だか二百人だか忘れたけど、全員全部一晩にして忽然と消えちゃったって! ウッドラビットの戦いもかなり問題だけど、後々に響きそうなのはこっちだって、私は思うのよ」
「うわぁ……。もうアーカム怖いことばっかりだネ。ボクは仙術があるから自分の身の心配はしてないけど、イッちゃんとかヴィーとか、気を付けてヨ?」
「もちろん私たちは仙文を悲しませるようなこと絶対しないわ! ね! イッちゃん!」
「……うん、そうだよ」
 思わず撫でる手が上がる。気づいて、強張って、静かに下した。
 それから、考える。考えるというよりも、ひたすらに狼狽した。この数日で、訳の分からないことが起こりすぎている。
 これまで自分は渦中にいると思っていた。自分が知らないのは敵対する相手そのものと、しいて言えば自分の事だけだと。そしてそれを少しずつ暴いて、最後には勝利する。そこに遊びを加えられれば最高だ。
 今は違う。また、と唇を噛んでいる自分を知る。カバラを知り始めた時、姿なきカバリストの存在に気づきつつあった頃の感覚に似ている。これはダメだ。このままでは、なすすべなく負けるオチが待っている。
 それからしばらく駄弁って、平気な顔をして帰宅を始めた。二人にミヤさんの店に誘われたが、断った。ミヤさん。グレゴリーの母親を名乗る女性。度々奴の口からもその名を聞いた。迂闊に顔を合わせられる相手ではない。
 帰路に吹く風はまだ寒くて、それが僅かな救いだった。凍えてしまえ、凍えてしまえと唱えながら、孤独な道を歩ければそれで。
 そこで、目を剥いた。顔を上げると、視線の先にナイが立っている。
「やぁ、どうも。久しぶりだね」
「……何をしに来た」
「あは、何? その顔。らしくないね。ふふ」
 笑っている。嗤っている。含みがある、と思った。
「何も用事がないなら、消えろ」
「用事があるから、消えないよ。ボクは、君を急かしに来たのさ」
「……急かしに?」
「うん、そう。いつまでその場で足踏みしているつもりなんだか、分からなくなってね」
 足踏み。拳を握る。眉間を寄せて、反駁しようとしたのだ。
「もう準備は終わってしまったよ?」
 そんな意思を、根っこから叩き折られたようだった。
「準、備? 一体、何の」
「君がずっと、ずーっとモタモタしているから、ボクはもう何もすることがなくなっちゃったって言ったのさ。あは、ゆっくりしすぎだよ。遅すぎたんだ。もうそろそろ、手遅れになっちゃうよ……って、そうか。今の君にはどうでもいいのかな? ふふふ」
「相も変わらず無闇に不安を煽るような言い方をする。手遅れ? そんなもの、アメリカに着いた時にはとっくに手遅れだった」
「あはは! そう! 君は優しいんだね! そんな文言でシラハちゃんを許してあげるんだ?」
 腸を捩れさせるような何かが、その言葉にはあった。二の句を告げないでいると、ナイは首を傾げながら小動物の様に近づいてくる。
「ね、ね、ね。突然だけど、聞かせてもらってもいいかな?」
「何を」
「昨日、見てたよ。凄かったね、君の負けっぷり。あの時、どんなことを考えてたの? こんなはずじゃないとか、そんな感じ?」
 息をのんだ。それを見計らったみたいに、ナイは矢継ぎ早に問いを重ねて来た。
「この街で一番強いのは自分だ、なんて勘違いしちゃったの? あらゆる全員が言ってるじゃない! ラビットはアーカム最強のヒーローだって! 今まで誰一人だって君が一番強いだなんて言ってくれた? そんなことないよねぇ!? それだっていうのに、ちょっと戦い慣れしてる格下を蹴散らして、君は悦に浸ってたんだ! すごいねぇ! 自分より強い相手と戦ってもないのに、よくそんな自信が持てたよね!」
「……黙れ」
「あれ? 傷ついちゃった? そんなつもりなかったんだけど、傷つけちゃったならごめんね? じゃあ違う話ししよっか。君、グレゴリー君に殺されそうになった時、『その最後の言葉を止めろ、何も知らないお前が憐れむな』なんて思ってたよね? いやぁ、ボク君の思考をのぞき見して爆笑しちゃったよ! 負けといて勝手なことを言うよねぇ!? 君、世界の中心が君だとでも思ってたの? 大きな事件の真ん中には、常に君がいるって?」
 何もかも、把握されている。何も、言い返すことが出来なかった。そんな様子もナイは完全に理解していたらしく、畳みかけるような物言いを止め、膝裏を蹴って地面に跪かせ、そしてそっと耳打ちをしてきた。
「うぬぼれも、大概にしたら? 君は世界の中心なんかじゃない。君が暴れまわっていたから、世界は少しの間君に注目しただけだ。けどもう、それも終わり。世界はそれぞれの事情を抱えて、君を置いてまたいつも通りに回り始めた。ARFの二人も、ルフィナちゃんも、ヴィーちゃん、仙文ちゃん、そして――グレゴリー君も、君の事情なんて考慮に入れないさ」
 トン、と軽く押されて、へたりこんだ。尻餅をつきながら、呆気に取られて立ち上がれない。
「そろそろ現実を見るべきだね。ひとまず今日は、それだけだよ」
 ひどく冷たい物言いを最後に、ナイはその場を去って行った。一人残されて、口を開き、何も言えずまた閉ざす。
 そのまま座り込んでいる訳にも行かなかったから、立ち上がって、また家を目指した。それ以上の事はなかった。リビングに誰もいないのをこれ幸いと、自室へと駆けるようにして戻った。そしてそのままベッドに潜った。
 シスターズに噛まれて以来、自室にはまともな日光が差さない。昨晩グレゴリーに負けて帰って来てから窓もカーテンで目張りしてしまったから、余計に。
「……俺は、何をやっている」
 情けない。ナイに指摘されるまでもなく、そんなことは分かっていた。行動が何もかもどっちつかずで、油断から追い込まれることだって何度もあった。こんなこと、以前ならば絶対になかったのに。何故――何故。
「敵を殺すのが修羅だ。味方などいないのが修羅だ。ならば全員殺せばいい。……何故俺はそうしない」
 揺らいでいる。己そのものが。何をすべきかもあやふやで、なのに何の意味があるのか学校へは欠かさず通う。家にだって帰る。まるで思春期のティーンエイジャーだ。悩んでいて、自暴自棄になっているようで、決められた規則には従順な……。
「誰でもいい、誰かを殺そう」
 口は達者だ。だが体が動かない。右手を掲げる。握り拳を作る。それだけだ。完全な球にはならない。ああ、そういえばこの攻撃もシスターズには効かなかった。
 手から力を抜いて、重力に任せベッドの上に落とす。それから、思ってもみなかった言葉が口についた。
「……何故、お前は死んだ。総一郎」
「総、ちゃん……? その、平気?」
 不意に掛かった声に、跳ね起きた。この部屋を僅かに明るくする余計な光源。薄暗い自室の入り口で、ブラック・ウィングは立っていた。半分扉に身を隠しながら、隙を窺うようにこちらを見ている。
 卑屈な表情で、弁明をするように言葉を紡ぐ。
「あ、あのね、さっきものすごい勢いで階段を上ってくのが見えたから、何かあったのかなって。それで、心配で……」
「……」
 何を言っているのか、分からなかった。単語単位では理解できるのに、文脈がつながっているように感じられない。――心配? 誰が、誰に?
「総ちゃん、昨日ラビットと戦ったって。でも朝も様子がおかしくて、ニュース通りに圧倒してたなら、こんな態度は取らないって、思った、から」
「お前も、俺を嘲りに来たのか」
「あざけ、え……?」
 腹立たしい。睨みつけると、奴は僅かに震えて、唇をかみながら視線を伏せた。何か投げつけてやろうか、とすら。
 その時、不意に思い出した。物を投げつけたことはなかったが、投げつけられたことはある。いまこうしているように、暗闇の中から睨みつけられたことだって。
 他でもない、ブラック・ウィングその人に。
「いつの間にか、逆転したらしい」
「え、あの、総ちゃん……?」
 ブラック・ウィングをARFから攫ったばかりの時だった。あの頃奴は酷くやさぐれていて、自分を目の敵にしていた。自分も何故か奴に形ばかりの執着をして、その結果ウルフマンの首を外し、ハウンドの頭の中を白に塗りつぶして連れて来た。
 『助けて』やると、そう言ったのだ。いまだに意味の分からない、自分自身の言葉。どうしてこんなことを今さらに思い出すのだろうと考えて、先程ナイが笑っていたのが想起された。
『あはは! そう! 君は優しいんだね! そんな文言でシラハちゃんを許してあげるんだ?』
 助ける。許す。この時、自分は「アメリカに着いた時すでに手遅れだった」と言った。ナイの言葉を信じるなら、そうでないという事。もっと言うなら、その責任がブラック・ウィングにあるという事。
「ご、ごめんね。私、無神経だったかな。邪魔だって言うならもう行くけど、でも、話したいことがあるなら、聞くから」
 カバラで計算する。何故こんな根本的なことを確かめないでいたのだろうと不思議にすら感じた。扉の近くで奴は依然としてこちらを見つめている。不安げで、しかし奥底には希望を追い求める意思があった。笑えて来る。カバラで出した結果からも、なおさら。
「……何も、話してくれないみたいだね。ごめん。私、もう行くから」
「なあ、ブラック・ウィング。何でお前は、そんな風に理解者面が出来るんだ?」
「えっ」
 まず奴は目を瞠って、こちらの言葉を咄嗟に受け止めようとした。だが聞き取れなかったのか、あるいは受け止めきれなかったのか、眉を垂れさせて何も言えないでいる。
 だから、親切に、もう一度言ってやった。
「聞こえなかったならもう一度聞いてやる。なあ、ブラック・ウィング。何で、お前は、俺に対して、そんな風に理解者面が出来るんだ?」
「な、何でって……」
「だってそうじゃないか。お前の心の動きなんて知りたくもないが、ハウンドを倒してお前を連れ戻した時から、ずっとお前は何かと俺に気を回そうとしていた。最初はアレだけ俺を嫌っていたのに、どういった心の変化だ?」
「そ、それは。一緒に住んでて、分かったから。ウッドはウッドだけど、でも総ちゃんでもあるって。今はちょっとおかしくなってるだけで、根っこにはまだ総ちゃんが残ってるって……」
「総一郎が、残っている? ふ、ふはは、ふはははははははははは! まさか、まさかお前からそんな言葉を聞くとは思わなかった! 今日はなんという日だよ! もう笑うしかない!」
「な、何! 何がそんなにおかしいの。私はそれが分かったから、だから必死で」


「お前が総一郎を殺したのに?」


「……………………。…………、……え?」
 見ているだけで、ブラック・ウィングの頭の中が真っ白になったのが分かった。見ていて愉快だったから、くつくつと笑いながらベッドから立ち上がり、奴に近づいて行ってやる。
「あぁ、現代は便利だよな。電脳魔術があるから、心の動きさえ脳内のシナプスを記録して分析できる。数か月前の出来事でさえ、電脳魔術を覚えたてで、データ圧迫のない俺の中には残っていたよ。これは確かな証拠だ。そうだろう?」
「え、え?」
「記憶を頼りにするのは愚かしいことだ。脳は忘却という機能を有しているがゆえに。だが、記録は違う。それは確固たる過去の明記で、だからこそカバラが役に立つ」
「何、言ってるの。私は、総ちゃんに何も」
「お前と再会した日は、ボーダーラインだったのさ。あの日まで、総一郎は生きていた。アメリカに着いた時手遅れだった? とんだ勘違いだ! あの時俺と総一郎は半々だった。心を極力凪の状態にして、俺の側にも、総一郎の側にも寄らないようにしていた。共生していたんだ。分かるか? ブラック・ウィング」
「わ、分かんないよ! 私には修羅は宿らなかった。でも、もうたった一人の家族だから、だから!」
「うるさいな。叫ぶなよ騒々しい」
 腕は鋭く動いた。ブラック・ウィングの頬を強く打ち据えて、奴が吹っ飛んで壁にぶつかる様を半笑いで眺めていた。この真っ白で真っ黒な女は、軽い脳震盪を起こしたのか、おぼつかない視線でこちらを見上げてくる。
「総、ちゃん……?」
「ほら、こんなところでへたり込んでは邪魔だろう」
 片手で襟首をつかんで、持ち上げ、ベッドへと投げつけた。短い悲鳴。ウッドは近寄って、奴の頭をベッドへと押し付ける。
「や、止めて……! 息、苦し」
「まぁ聞けよ。弟がアメリカに着いたばかりの時、どうしていたか気になるだろう? ああ、そうとも。だんだん思い出してきた。到着してすぐに放り出されて、総一郎は街をぶらついていたんだ。そこで、ちょこちょこ歩いている少女を見つけてな。オカメの面が揺れていて、総一郎は既視感に心をざわつかせていたよ。それが清との初対面だ。それから図書と再会してな。面影があって、懐かしかったんだろう。また心がざわついていたが、一番にざわついたのは、ブラック・ウィング。お前が行方知らずというところだ」
「え、……」
「それから、総一郎は学校へ通い始めた。イギリスではまともな学校生活を送れなかったからか、あいつはそれを存外に楽しみにしていたらしい。だが同時に奴は、僅かに気付き始めてもいたよ。嬉しい事があればあるほど、俺を刺激する。修羅が活発になる。修羅は人間的な感情への反抗勢力だ。嬉しいばかりなら、俺も押し流されていたかもしれない。しかし悲しみや孤独を抱いたとき、俺は容赦なく総一郎へと攻め入る」
 奴は口を挟まない。ただ何か予感がするのか、細かく体を震わせている。
「学校生活は順風満帆だった。お前の弟という触れ込みで、大勢の友人を得た。ARFのメンバーの数人は、親友に近い距離まで近づいてきたな。総一郎は素直な奴だから、ひねくれた捉え方もせずに喜んだよ。そして同時に、きっかけだったお前の不在に苦しんだ」
「……あ」
「はは、気づいたか? ならどう続くのも分かるな。ああ、それから総一郎は、騒がしい友人たちの中に日常を見出し、安心と自己肯定感を得て行った。けれどやはりお前はいなくて、度々奴らが話題に出すから、寂しさが募ってついには仮面を被って深夜を徘徊し始めた。分かるだろう? それが俺だ。ウッドだ。そこからの奴はもうズタボロだった。奴はイギリスでの経験から、敵対者を殺さずにいられない。本質がすでに修羅に染まっていたからだ。日常では安心と寂しさにじわじわと苦しめられ、仮面を被れば多くの人間を殺さざるを得ない。それでも総一郎は止まれなかった。お前に一縷の望みを託していたから」
「わ、わた、私。そんな、じゃあ、私、あの時」
「そうさ、分かっているじゃないか。時に質問だが、ブラック・ウィング。お前はこれまで何人殺した。殺すことの苦しみを知っているか? まともな人間に、大量殺人なんて出来たものではない。殺した一人一人に人生があって、たった自分一人の為に奴ら全員の人生を台無しにする。それが人殺しだ。総一郎はイギリスでずっとそのことを思い悩み続けた。海を渡る過程でやっと人殺しの習慣も取れたのに、アメリカで再発してしまった。殺人癖だよ。敵が殺意を向けてくるから、反射的に殺して、それから深く悔いるんだ。だが、それでも希望はあった。希望なくして人間は動けないから――分かるだろう? 総一郎の最後の希望が、誰だったかくらい」
「あ、ああ。あああ……!」
「ふ、ふはは。そうだ。そうだともブラック・ウィング! お前だよ! 総一郎はお前との再会だけが希望だった! お前なら助けてくれるって! 救ってくれるって! だってそうだろう!? お前が居なければ総一郎はアメリカになんて来なかった! お前が居たからアメリカに来て、お前が居ないからお前を探して! まったくいじらしい弟じゃないか! そうしてとうとう総一郎はお前を見つけた! ああ! なんと感動的な瞬間だろうか! 修羅とかいう訳の分からない化け物に自意識を飲まれそうになりながら、ギリギリのところでお前を見つけて手を差し出した! 久しぶり! 元気だった!? こんな健気なセリフがあるか!? お前にいの一番に言いたかった台詞は『助けて』というたった一言だったのに、総一郎はそれを飲み込んでお前を気遣ったんだ!」
「私、私は」
 ブラック・ウィングは過呼吸を起こし始めていた。ウッドは高らかに笑って、それからナイの様に、耳元で、極めて優しく、囁いた。
「そうとも。お前はそんな総一郎を見て、その本質を捉える天使の瞳でかけらほどの総一郎を見つけられず、酷薄に言ったんだ。――『お前なんか、総ちゃんじゃない』ってな」
「―――――――――――――ッ!」
 ブラック・ウィングは声のない叫びをあげ、頭を抱えながら激しく涙を流していた。ケタケタといつしか顔に引っ付いた木面が哄笑を上げる。
「ああ! 哀れ総一郎よ! お前の希望は、その瞬間希望を託したはずのたった一人の家族にへし折られた! 見殺しなどという甘い表現では済まされないぞブラック・ウィング! お前さえ傍にいれば、総一郎は孤独を感じることなく、きっと俺は何も出来ずに消えただろうに! 分かるか? 一から十までお前なんだ。総一郎に喜びを与えて修羅を刺激し、総一郎に孤独を感じさせ修羅の攻め入る機会を与え、最後に残ったたった一つの希望を、心無い言葉でへし折った……」
 ウッドは、泣きそうな声で呟いた。
「『……白ねぇ、何で助けてくれなかったの?』」
 仮面の目の部分から、だくだくと透明な液体が流れ出る。涙というのは間違いだ。それは汚れた感情の成れの果て。人間性の澱で、汚泥が体液として流れただけ。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、総ちゃん……! 私、私……!」
 “白羽”は小さく謝罪を繰り返す。“ウッド”はそれを冷たく見つめて、立ち上がった。
「いくら謝っても手遅れだ。総一郎はお前に殺されて、もう何処にもいないのだから」
 仮面を外し、総一郎そっくりの顔に無表情を貼り付けて、ウッドは白羽を置き去りにした。すすり泣く声は上ずって、暗い部屋の中で空回りする。

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