武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

5話 三匹の猟犬ⅩⅨ

 アーリはロバートとは違い、カバラとの出会いも、ライカを殺されたことに対する激しすぎる復讐心も持ち合わせない、率直に言って平凡な一少女に過ぎなかった。
 それが何故、今こうしてウッドを追い詰めるにまで至ったか。その説明をするにあたって、まずロバートの死について語らねばなるまい。
 ロバート――二代目ハウンドともいうべきこの少年は、草創期ARFにて甚大な働きを見せ、しかし無謀にも初代ハウンドたるリッジウェイ警部に挑み、敗れ去ることとなった。
 その反攻は予想をはるかに上回る、巧緻な仕掛けに支配されていた。リッジウェイ警部特有の、実戦経験に裏付けされた勝負勘、動かせる人数の差、そして細部における不確定要素を完全に排除する、ささやかなカバラ。
 役者が違った、としか形容できないほどに、その差は歴然だった。リッジウェイ警部にとって、ロバートはまさに『子犬ちゃん』だったのだろう。だから彼はハウンドを嫌っていない。むしろあの死線を潜り抜け生還し、再びARFで活動している少年を評価しているくらいだった。
 だが、実情はまったく別である。
 ロバートは、リッジウェイ警部の張り巡らせた戦線を逃れられなかった。武器を破壊され、内臓を破られ、喉を裂かれて仲間を呼ぶことも出来ない。路地裏を這うように進む姿は、猟犬と言うよりはネズミだった。意地悪猫に弄り殺され、はらわたを引きずって進むドブネズミだ。
 本当なら、彼はそこで孤独死すべき運命だったのだろう。しかし何の運命の悪戯が働いたか、ちょうどそこに紛れ込んだ者が居た。
「……ロバート……? お、おいっ、ロバート!」
 少年の姉、アーリーン・クラークである。
 彼女は我を失って、ただただ愚直に瀕死の弟に駆け寄った。そして少年を抱きかかえ、涙を目尻にためながら震えていた。
「お、お前、こんな傷だらけで……っ。だからっ、だから言ったろ! あんな危ないこと止めてくれって! こんな、こんな風になるからって……!」
 少女は弟の傷にただ喚くばかりであるが、実際にはそんなことを言っている時間はなかった。ロバートは、その当時もなお、リッジウェイ警部に追われていたのだ。むしろ偶然紛れ込んだアーリも、ロバートに巻き込まれて無駄死にしかねない。
 状況は逼迫し続けていた。アーリ自身がただの少女だとしても、それを考慮してくれるものなど一人もいなかった。ロバートは死ぬ間際になって初めて、姉の事をかえりみた。
 何度も自分に危ないことを止めろと連絡を入れてきた姉である。最後に会った時は、道端で縋り付かれさえした。泣いて危険な真似をしないでくれと、頼んできた家族である。あの時、ロバートはどうしたか。確か、ほとんど相手にもしないで振り払った記憶があった。
 ロバートが、何一つ報いることが出来なかった相手だった。あれほど想われて、迷惑しかかけていない。
 姉を死なすまいと考えるのは、当然だった。
 その手段が、あまりに非道であっても。
「……姉ちゃん」
 まず、喉をやられ、酷くかすれた声で彼女に呼びかけた。
「何だよ……! どうすんだよ、この傷……! 血が、血が流れて、畜生、今救急車呼ぶから、だから、頼む、頼む……!」
 アーリは錯乱していて、碌に言葉の通じる精神状態ではなかった。だが、ロバートにとってはこれで良かった。彼はひっそりと手に雷魔法を纏い、非常に出力を下げ、代わりにカバラで精巧に電子の流れ具合を調整した。
「最後に、頼みがあるんだ……。聞いてくれるか……?」
「最後なんて言うなよッ! 最後になんて絶対しないから、だか」
 アーリの昂ぶりが一番大きくなる瞬間を狙って、ロバートは雷魔法を彼女に放った。
 短く上がる少女の悲鳴。すかさずその上体を近づけて、傷ついた喉で出せる精いっぱいの声で、カバラで整えた声色でこう告げた。
「お前は、ハウン、ドだ。カバラ、を知り、銃火器を、自由自、在に操り、ハッキングを得意と、する、ARFの、ハウンドだ」
「アッ、アタシ、は、ハウン、ド……?」
 電気ショックでアーリの瞳はかなり胡乱だった。かさねてロバートは、催眠を深める。
「お前、は、警察にっ追われている……。お前は、の、喉をやられ、て、喋ることが出来な……。だか、ら、誰かに助けっ、を求めるこ、なく逃げ切らぁばならない。そし……お前は、家に帰ると同時にハウンドではなくなう……。ハウンドとぃて知っだ、すべへを忘れ、ただのアーリーン・クラークに、戻う……」
「……」
 アーリは、言葉もなく口だけでロバートの言葉を復唱した。それから今ロバートの持つ武装や道具を全て渡し、服だけは警察から見つかり辛いようそのまま帰らせることにした。
 これで、とロバートは思った。催眠によって絶対にできると確信した状態では、人間の出来ることはとても多くなる。きっと上手く敵から隠れつつ、家まで逃げかえってくれるはずだ、と。
 けれど、そこでロバートは欲に駆られた。
 ロバートは、いまだ復讐を為せていない。リッジウェイはもちろんそうだが、それ以上の対象――亜人差別という概念そのものを打倒しえていない。
 このまま死ぬのか、と問うた。自分のせいで危険にさらされた姉を無事逃がすだけで、終わりか、と。そこで、ロバートはとても身勝手な考えを起こした。すなわち、ここでアーリがロバートと遭遇したのも、一つの天命であったのではないか、と信じてしまった。
「……そぃ、ぐ……」
 もう口を使っての説明は無理だと判断した。そこで止まればよかったのに、ロバートにはできなかった。警察の声が路地を反響して聞こえ始める中、姉に預けたEVフォンに、文字を入力する。
 そうやってロバートは、付け加えてはならない言葉をアーリに吹き込んだ。
『お前は、外出している時、発作のようにハウンドに戻る。ハウンドであるとき、お前はひたすらにカバラを修め、銃火器の扱いを勉強し、ハッキング技能を磨く。その技能が敵と相対して問題ないレベルに達し次第、ARFの一幹部として働く。敵を皆殺し、ギャングやマフィアたち、果ては一般市民たちを扇動し、ARFの忠実な猟犬となる』
 アーリの口が、声もなく復唱に蠢く。その終わりを待たず、最後にこう打ち込んだ。
『亜人差別に復讐する、猟犬となる』
 柏手を打つと、忘我していたアーリは鋭い目をしてロバートを見返した。彼女は――ハウンドはもはやロバートに構う時間はないと、ロバートを地面に寝かせてその場を走り去る。
 残されたロバートは、満足して己に雷魔法を出力いっぱい放った。警察がそこに辿り着くころには、炭化して死体か否かもわからない、謎の物体が残されるのみだった――



 ――故に、ハウンドはアーリとは言えない。アーリの中に植え付けられた別人格、と言うのが正しかろう。
 このことはハウンドもアーリも、つい先ほどまで知り得なかったことだ。確かにハウンドは自発的にロバートの知識や技能をEVフォンなどからツテをたどって貪欲に吸収したし、アーリ自身も無意識下でロバートとの差別化を図るため、日常的にかなり補正強めのシークレットブーツをはいていたところはある。けれどそれらはあくまでロバートの呪いと言うべきもので、アーリ自身把握してはいなかった。
 むしろ主人格であるアーリの影響が自らに及んでいることをハウンドは知り、それを糸口にしてアーリとハウンドの統合が図られたほどだ。つい先ほどの事である。
 だから、決してアーリがウッドを裏切ったのでも、ハウンドが内偵したのでもない。むしろそれらを意図して嫌った節まである。しかしそれを他者に理解されようとするほど、彼女はおこがましくなかった――
 だというのに、ウッドは心底可笑しそうに笑い始めた。
「ふ、フふ、ふハハはは! そウか、そウイう仕掛けダッたカ! 見事! イや、実に見事と言わセテもラオう! ソウか、俺はツマり、最初かラ最後マでお前ノ手の平ノ上だッタとイう訳ダナ、ハウんド」
「……お前はアタシが裏切ったって知って、笑うんだな、ウッド」
「当然ダ! こレ以上ニ喜ばシイこトガあルか! やはリコの世に情ナドナい。打算ガ、己が利益ガ全テナのダとイう立派ナ裏付ケだ! やはリ俺は正シカった。すべテを殺せば、最後に残るノハ俺だ。そレガこコで証明サれた……!」
「ウッド……」
 ここまで決定的に追い込まれながら激しく愉快そうに笑うウッドに、アーリは歯噛みせざるを得なかった。ウッドには、勝利した。それはもう揺るがない。だが、シラハやアーリ自身の望むものは、得られなかった。
 そしてもう、きっと取り戻せないのだ。
「畜生……、アタシは、こんな……」
 力いっぱい、少女はこぶしを握り締める。俯いて、じっと地面を睨みつけた。音が鳴るほどに食いしばられた歯は、激情と悲哀を彩る唇の隙間から見え隠れする。
 アーリのそんな姿を見て、無遠慮にもウッドはこう宣った。
「ハウんド。こコハマだ戦場ダぞ。そンな隙だラケでイいト思っテイるノか?」
「――は?」
 突如。
 窓を突き破った何者かが、アーリを襲った。
「ッ――――――――――――!」
 電波塔の外からの襲撃。準備なしにはただの人の領域を出ないアーリに、その一撃は避けられよう筈もなかった。地面を何度も跳ねて壁に激突する、目が回り三半規管を徹底的に揺らされ、吐き気がこみ上げるも襲撃者は吐く余裕さえ与えない。
 地上がどっちにあるのかも分からないまま、アーリは襟首から持ち上げられる。そして奴は、喜色をにじませた声で言うのだ。
「やぁ、ハウンド。随分と俺の分身がお世話になったようだな。いいや、ここはあえて親愛を込め、アーリ、と呼ぶべきか?」
「ぅ、ぁ、……ウッド……?」
「そうとも。俺こそが正真正銘、本物のウッドだ」
 そこに転がっているのが、偽物とは言わんがな。ケタケタと仮面を笑わせて、ウッドはちらとズタボロになって転がる異形を見やった。
「何で、これは、どういう……」
「どういうも何も、随分と顔を見せないでいたハウンドが顔を出すとなれば、それは俺を倒す算段が付いたということになるだろう? だから、今回の仕事は最初、全て分身に任せていたのだ。俺は件のイタリアンで、ゆったりとチョコレートピザを楽しんでいたのだがな」
「そん、な……! ウッドはまっすぐここに来たって見張りが……」
「ああ、俺自身は光、音魔法で姿を消して行動していたからな。分身だけが普通に家を出て行ったのを見て、勘違いしたんだろう。それでカバラで何となく動向を探っていたところ、電波塔の分身だけが身動きも取れなくなっていると知って、駆けつけてきた、という訳だ。しかし、……ふむ」
 手を翳し、首をひねるウッド。
「本当に魔法が使えなくなっているのだな。それが分身の今に繋がっているということは……。なるほど、つまりこの分身も、俺の再生能力も、全て魔法だったということか。そして、高高度では再生できなくなるリスクが発生する……と」
「……」
 ウッドは現状把握から、アーリが苦労して得た知識をほとんど読み取ってしまう。そうすることで自らの弱点を知り、さらに手の届かない存在に近づいていく。
 けれど、そんな切れ者のウッドが、アーリには憎らしいと感じられなかった。
「……――ッた」
「……ん? 今、何と言った」
 アーリは、答えなかった。答えられなかった。横隔膜が震え、嗚咽に言葉が出てこず、代わりに珠のような涙がこぼれだした。
「……止めろ。負けたからと言って、泣くんじゃない。お前に苦労させられた自分自身が、馬鹿馬鹿しくなってくる」
 制止されて止まるような、簡単な涙ではなかった。嗚咽は意図せず高まり、みっともなさを増させる。
「だから、泣くのを止めろと言っている!」
 ウッドは怒鳴りつけ、アーリを壁にたたきつける。普段の偽った背丈とは違い、本物の小柄な体が痛みにうずくまる姿は見るも無残だ。
 だが、だからこそウッドは苛立っているのだろう。
 好敵手と認めつつあった相手が情けない姿をさらすことが、許せないのだ。
「立て。今すぐ立ち、俺に牙の一つでも立ててみろ、ハウンド。俺を殺そうというのだろう? そのためにここまで綿密な計画を練ったのだろうが!」
 そんな勘違いが、アーリには愛しくて堪らなかった。――紆余曲折あったが、結局彼女の筋書き通りに運んだ。だから涙をこらえきれなかった。ウッドに負けようと、本当に欲しいものがそこに在ると確信できたから。
「ぅぐ、う、ウッド……」
 アーリは、涙をぬぐいもせずウッドを見上げた。木面の怪人は、仮面を不快そうに歪めてアーリを睨み付けている。そんな奴に、しゃくりあげながら少女は笑いかけた。
「――良かっ、た……! 本当に、良かっ、た……!」
「……何を、言っている?」
 ウッドは、気味の悪いものを見るような目つきになる。「それ」が、それが修羅の本性だ。アーリの感情を、理解できない。理解しようとすることを拒む。好意を向けてくる存在の全てを見えないふり、聞こえないふりで誤魔化して、自分以外が全て敵であることを信じている。
「だって、ウッド、手遅れじゃなかったから……。さっきは、もう、手の尽くしようがないッて……!」
「逆だろう。先ほど優勢だったのはアーリ、お前だろうが。何を訳の分からないことを言っている?」
 それで言えば、ウッドの分身として先ほどまでアーリと戦っていた、あの化け物の方は文句のつけようもなく修羅なのだろう。人と言うものを理解せず、ただ殺す事をのみ信仰している。
 逆に考えると、この本物のウッドには、まだ話が通じる。言葉を投げかければ、それを理解しようと立ち止まってくれる。
「おい、アーリ。時間稼ぎをしようと言うのなら無駄だぞ。ここに飛んでくる最中、目障りだったヘリだの何だのと言った兵器は全て破壊しておいた。もう、お前に助けは来ないのだ」
 だが、ウッドが立ち止まる理由は修羅の性質に基づいてもいた。敵の考えが読めない。油断できないほどにアーリを恐れている。だから立ち止まって、耳を傾ける。敵を無視はできないから――それでいい。そうでなければ、成り立たない。
「……やっぱ、ウッドは鈍感だなぁ……!」
 今度こそ涙をぬぐいながら、けれどアーリは笑みを我慢することが出来なかった。ウッドを正面から見つめ返して、涙をこぼしながら、満面の笑みで口にする。


「――知ってたか? ウッド。アタシ、お前の事大好きなんだぜ?」

 ぐずっ、とウッドの体組織が揺らぐ音がした。


「な、ぁ、……は?」
「……そうだよな。お前には、『この一言』が一番効く。どうでもいい奴の好意の言葉なら無視できても、“敵から言われた言葉”はウッドには無視できない」
 硬直し、仮面を無表情なそれにするウッドを見て、アーリは小さくほくそ笑む。
「ウッド。アタシさ、お前と一緒に住み始めてから一週間くらいの頃からかな。結構な頻度でお前をほめたり抱き付いたりしてたの、知らなかったろ」
「ぇ、ぁ、……う、う?」
「そうだよな。どうでもいい奴の好意は無視する。『人を愛せば人になる』から、好意には無関心を装うしかない。脳がそういう風に世界を歪めるんだ。だけど、敵からそれを指摘されたら、もう駄目。封じて黙殺した記憶を、敵を倒すために蘇らせなくちゃいけない」
 アーリは元々、人と触れ合うのが好きな性質だ。だから多少親しい相手には、簡単にハグしたり額にキスしたりする。ウッドもその例外でなく、何度もそういったことをしたが、その度に反応がないことくらい気づかない訳がなかった。
 そこを着眼点に、この計画を練ったのだ。感情に左右される修羅を攻略するため、システマティックな感情論を構築した。
「う、嘘、だ。――そんなのは出鱈目だ! 俺のような殺人鬼を好むような輩が居る訳がない! そんな、そんな――」
「ウッド。ならカバラでアタシを調べてみろよ。嘘だっていうなら、ほら」
 へたり込むアーリが差し出す手を、ウッドは触れるのも恐れた。それから、怒鳴りつけるような声で反駁してくる。
「そうだッ! アーリ、お前は俺を、お前の弟に重ねているだけなのだろう!? お前がハウンドをやっているなら、恐らく弟は死んでいるはず。それならば、お前の言う好意はただの紛い物で、お前が俺を好きなどというのは戯言だと――」
「重ねるよ、そりゃ。何から何まで似すぎなんだよ。自分の理想の為に暴走して、危ない橋を渡りまくって。リーダーだって気に掛けるっての、バカ」
 あっさりと肯定を返し、ウッドに二の句を告げなくする。「でも」と続けるアーリの言葉に、奴は聞き入るしかなくなった。
「でも、だから、あの時は嬉しかったんだ」
「あの時……?」
「ウッド。アタシが、警察官を殺すなって言った時、お前、本当に殺さないでくれただろ?」
「そんなの、殺したところで特に利がある訳ではなかったからそうしただけで」
「ロバートは、違った」
 アーリは顔を覆う。
「あいつは、絶対にその場の人間を皆殺した。ただの一人も残さず、明らかに無力な女子供でさえ、ただの一つも例外なく殺しつくした……ッ! それが、あいつの復讐だったから。亜人をただの例外なく殺しまわる、リッジウェイの野郎と同じことをしなきゃいけないっていう強迫観念に、あいつは勝てなかった……」
 アーリは、今自分が何故涙をこぼすのかが分からない。悲しくもあったし、喜ばしくもあった。感情が激しく荒れ狂っていて、訳が分からなくなっていた。けれどこれが最後だと知っていたから、どんなにみっともなくても止まろうとは思わなかった。
「でも、ウッドは違った。泣いて頼んでもロバートは止めてくれなかったのに、ウッドは殺さないでいてくれた……! それが、本当に、本当に嬉しかったんだ。――辛かったよな……? あらゆる生物を殺したいっていう修羅の本能を押し殺して、誰も殺さないのは、苦しかったよな……?」
「つら、い? 苦し、い……。修羅、そうだ、あの時理屈をつけて誰一人殺さなかったのは……。そもそも、総一郎の悪名が知れ渡って困るのは俺じゃ、俺? 俺って誰だ? 総一郎? 総一郎なのか? 俺に警察を殺させなかったのは。そんな、お前は死んだはずじゃ。クソ、お前なんか、違う、俺はお前の為に、為? え、ぁ、ぁ……」
 伸びをするように悶えてから、一気に力を失ってウッドは崩れ落ちる。ぼとぼとと仮面を形作る修羅の肉が溶け落ちて、無表情な――いや、これこそ本物の、シラハから聞いた、桃の木の面が露出した。
「……ウッド……? お前、もしかして……」
 ウッドの左手が、自然な血の気に帯びる。桃の木で出来た面に触れても溶けないその手は、どう見ても人間の手だった。
「――……頑張れ、ウッド。頑張れ、頑張れ……」
「あ、あぁぁぁ……」
 少しずつ、少しずつ力がこもっていく。桃の木の仮面を、癒着した修羅の肉から引きはがそうとしている。対する右半身がドロドロに溶け、手当たり次第に暴れ回り始める。左手はその余波を食らい小さく傷つくが、決して諦めようとしない。
「頑張れ、大丈夫だ。イケる。お前ならイケる……!」
「ああ、あああぁぁぁ……!」
 べりべりと、僅かずつ仮面が剥がれ始める。左手に無数の擦り傷が出来て、そこから小粒の血が伝う。アーリは涙を目尻に溜めながら、まんじりともせず見守っていた。血を。人間の証を。
「あと少し、あと少しだ……! 頑張れ、頑張れウッド!」
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 咆哮が上がる。仮面の下から人間の顔がのぞく。仮面と肉の乖離が目視できるほど確かになる。そして、ついに仮面が剥がれ落ちる。
 その寸前で、修羅の右手が人間の左手を飲み込んだ。
「ぁくっ」
 濁流が全てを飲み込むようにして、修羅ウッド人間ソウイチロウを飲み込んで肉塊と化す。そこから少しずつ痩せて行って、再び元の形に戻ってしまった。服も、仮面も、何もかも元通り。これを人間でないと看破するものはいないだろう。総一郎とウッドを、良く知る者以外は。
「……ウッ、ド……?」
 震える声で、アーリはウッドに手を伸ばそうとした。涙が一粒、少女の頬に流れ落ちた。ウッドは動物じみた声で唸り、俯かせていた顔を上げる。
 そこに宿っていたのは、人の愛を介さぬ化け物の目だ。
「ガァァァアアアアアアアア!」
 雄叫びを上げ、ウッドはアーリに襲い掛かる。再び首を絞めて地面に押し付け、身動きも取れない様に――声も、出せないようにした。
「ぅぐ、ぅ、ぅっど……!」
 アーリは弱弱しく手を伸ばす。苦悶の表情は少しずつ力を失っていく。その刹那、彼女は笑った。呼吸さえも度外視して、いいんだ、と言い切った。
「ァタシは、布石、でしか、なぃ、から、ぁ……! ウルフ、マンも、アタシ、も、ウッドを、元に、戻す、ためのっ、ふせ……っでしかない……!」
 笑みは一層優しくなる。首を絞める力はますます強くなる。
「だか、ら、はっ、焦ら、なくてぃ、いんだぜ……? いつ、か、絶対に、絶対に、取り戻し、やるから、だから、待ってろ……!」
「ガァァアアア! ガァァアアアアアアアアアア!」
 ウッドは右手に精神魔法を展開する。無いはずの周囲の魔力を『闇』魔法で掻き寄せてきて、脳に干渉する微細な電磁波を視認できるまでに強化する。
「だか、ら、それまッ、で、じゃぁ、な、ッ、ウッド……! この一か月、楽しかっ……」
「ガァァァアアアアアアアアアアアアアア!」
 精神魔法をアーリに叩き付ける。声もなく少女は絶叫する。それが終わって、残ったのは廃人だった。自慢の金髪を散らばせ、虚ろな目をして涎を垂らすその姿は、以前の活発な姿からは想像もつかない。
「ガァアア……」
 ウッドはアーリに勝利して、低く獣のように唸った。再びドロドロに溶けた腕で少女を殴打するが、その一打一打には顔を揺らすほどの威力しかない。鋭い爪を形成しズタズタに切り裂こうとするが、寸前で躊躇った。
 結局ウッドは、アーリが銃などを入れていた異次元式収納袋に彼女自身を入れ、その場を去ることに決めた。
 袋を取り出すのは簡単だった。だが、アーリをその中に入れるのにかなり時間をかけた。醜い溶けた手でアーリに触れるさまはひどく丁寧で、あまりに歪んでいた。それから袋を搾り、アーリごと携帯しつつウッドはさらに上空に昇った。
 寒き風がびゅうと吹いた。ウッドの体に雪の塊がぶつかって、痛いほどになる。まだ春は来ないのかと、うっすらと考えられる程度にはウッドの思考能力は回復を始めていた。だが、まだ体は末端になるほど不定形で、仕方なく電波塔の柱を腕の先で取り込むようにして掴まっている。
 ウッドはカバラで発信される電波を弄り、ウッドと総一郎との脳の関連を断ち切るものに作り替えた。流れるテレビ番組も、ネット情報も、あらゆる電波由来の情報が人々に、ウッドから総一郎を思い起こさせないよう促した。
 こうして、世の人々は総一郎を忘れて行った。ネット上に存在した総一郎の情報は、ウッドと関連するすべてがサーバーの不具合によって消滅した。総一郎を知る者は総一郎の名を直接聞いた者、会って会話した者に限定され、一方でウッドの正体は再びヴェールに包まれ始めた。それはARFですら例外ではない。
 しかし、この世で三人、ウッドを総一郎だと知っているものがいた。それは頭だけのウルフマンであり、思考を奪われたアーリであり、そして無理やりなアナグラム合わせに唯一対抗しうる、天使という上位カバリストたる白羽だった。

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