武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

9話 我が身を滅ぼせ、英雄よ(3)

 ローレルが、図書館で唸っていた。授業の予習である。ローレルは全体的に優秀なのだが、思いの外歴史が苦手らしく、まず歴史の魅力を教え込むことから取り掛かった。
 その途中の、休憩のときの話だ。
「そういえば、学園内のカバリストの件はどうなっているのですか?」
 イギリス史は世界史を学ぶ上で最も参考になるという話からローレルの興味を引き出そうとしていたところ、失敗したのか話を逸らされるような形でそんな話題が飛び出た。思わず力が抜けて明後日の方向を向いてしまう総一郎だ。というか、歴史全般に興味がない彼女にそんな話をしたのが無謀だったかもしれない。
「進展ナシ」
「……確かに、手がかりも何もないですからね……」
 その上、面倒を嫌って人目につかない生活をしているのが理由でもあった。総一郎自身は不快感を我慢すれば良いだけだから、校舎中を練り歩いていれば何か掴めるだろうと楽観していたのだが、「自分の悪口を聞くための行動なんて不毛です」とローレルが嫌がるのだ。気遣ってくれているのは分かるが、と総一郎は煩悶する。
「……ローレル」
「駄目です。私は、そんなの嫌です」
 総一郎は取りつく島もない彼女に目を瞑る。虎穴に入らずんば虎子を得ず、と説明したのは昨日の事。その際には、『切羽詰まってもいないのに何故虎児を得る必要が?』と返され、何も言えなかった。
 しかし、総一郎を襲撃するほど自分の帰りが知られた今、待つ必要はない。カバリストたちも、動き始めたはずなのだ。しばらく待って、現場が動き始めてから探りを入れる。前々から考えていた策だった。
 それにしても、とローレルがあからさまに話を逸らしてくる。
「カバリストたちは、一体全体何が目的なのでしょう。何故、そんな行動を……」
 ローレルには、それとなくあらましを伝えてある。総一郎一人なら、彼らは非常に容易く叩きのめすことが出来たはずだ。だから、それが目的ではないのだという事は分かっている。あくまで利用しているのだ。
 しかし、総一郎を踊らせた結果何が起こるのかとも思った。自分には、能動的な影響力がない。総一郎が行動を起こしても、たとえカバラを使っても出来ることはない。スコットランドクラスの旧友全員と仲良くするために最低限必要な時間が二世紀と出たのだ。それは言うまでもなかった。
 考え込むが、立ちふさがるアナグラムはあくまで断片的で表面的だ。解析したとして、物事の真相に辿り着けそうな雰囲気はない。
 頭を悩ませる総一郎に「休憩で勉強中より疲れてどうするのですか」とクスリと笑うローレル。「ほんの小さな話題のつもりだったのに」と彼女は言う。
「焦っても仕方がないことですよ。命がかかっているのですから、できるだけ慎重に事を進めましょう」
「え……、でも」
「それより、先ほど本を漁っているときに亜人図鑑の最新刊が出ていましたよ」
 にやりとして彼女は何処からともなく分厚い本を取り出した。先ほどまでの沈鬱な考えが、パッと総一郎の頭の中から取り払われる。
「おお! やったぁ! いぇーい!」
「ここ図書館ですからね」
「あっ、はい。すいません……」
 ローレルはいつなんどきも冷静である。
 だが、彼女もやはり非常に楽しみなようで、総一郎が静かになり次第すぐに表情をだらしなく綻ばせた。それだけ、ここの亜人図鑑は優秀で事細かなのだ。総一郎がこの学園で最も評価しているのがこれである。むしろこれがなかったら学園に価値がない。
 載っている亜人の数は、この最新刊を含めずに千種類以上。総一郎はすでに読破し、ローレルもまた同様だった。著者がこの学園の卒業生で、今は世界中で亜人の生態について調べているのだとか。
 世界に出た故なのだろう。偏見を持たない人物で、協力者名に随分と亜人の名前が並んでいて初見の総一郎は度肝を抜かされたというエピソードがあるほどだ。
「早く、早く開けよう!」
「いえ、少し待ってください。ちょっと深呼吸をしますので。ソーも焦っては駄目です」
「そうだね。では」
 二人そろって深呼吸。その後互いに無言で目を合わせて、同時に首肯してゆっくりと図鑑を開いていく。簡素だが重厚な表紙、豪奢な扉絵、そして大量に並んだ亜人目録。
 まるで辞典のように並んだそれを見て、二人は狂喜乱舞した。無言で手を取り合って、強く振り合う。そこにあるのは満面の笑みである。
「じゃっ、じゃあどれから見てく!? いやいやいや、待て。ともかくここは図書館なんだから静かに静かに。焦ると負けだぞ総一郎……!」
「無難に一番最初から網羅していきますか? それとも、あえて後ろから……」
「いや、逆転の発想で、『これだ!』と思った亜人をランダムに見ていくというアグレッシブな方法もあるよ?」
「それです!」
 二人はまずじゃんけんをし、カバラで互いに読みあって十四回に続くあいこを出したのち、辛うじて総一郎の勝利となった。ローレルは深く悔しがっていたが、そんな事よりも早く選べという雰囲気を出している。
「じゃあ……、これは見たことがないから、この『エント』っていうのを見てみようか」
 二人はページを開く。すると、古めかしい顔の付いた木が静かなタッチで描かれていた。どうも木の精霊的な存在なのだろう。取材地はロシア。あの北方の地に群生している林があり、奇妙だぞと近づけば彼らの群れであったという。
「あ、私この亜人知っています」
「え? 本当に?」
「はい。おじいさんとこのエントらしき方とのツーショットが、家のどこかに飾られていたと思います。……聞けばよかったです……」
「いずれ機会があるよ。じゃあ次、ローレルはどれが見たい?」
 彼女は人うなりしてから、ぱらぱらと目次をめくりだした。最後のページまで行って、気づいたように声を出す。
「このページが見たいです。このシュラっていう亜人の」
「……分かった」
 総一郎は、一瞬硬直した。しかし、それを隠した。ローレルは気付かずに図鑑をめくる。
 事実、総一郎自身にも興味はあった。どのようなことが書かれているのか。そして、ページが開かれる。
 現れたのは、干からびたような人型の絵だった。六つある両手には、大量の武器が握られている。そして、異様に目立つ、ギラギラと輝く目。あまりの迫力に、ローレルは息を呑む。
「凄いですね……、こんなのには出会いたくないものです」
「多分、イギリスでは会わないから大丈夫じゃない?」
「そうなのですか?」
「うん。日本とか、中国とかの亜人だと思うし」
 なるほど、とローレルは図鑑に見入っていた。注意深く、読んでいる。この本は伝承などに非常に忠実で、まず原文をそのまま載せてから著者なりの意訳が載せられていた。意訳が間違っていた時の緊急回避だろう。総一郎は、その原文だろう日本語をなぞる。日本の研究家から、発見された書物を見せてもらったものの転写であるらしい。
「どうも要領を得ませんね。意訳がよくわかりません」
「仕方ないよ。……これはきっと、イギリス人からしたら常識の埒外だと思うから。多分この作者さんは、常識に囚われて訳し切れなかったんだ」
「読めるのですか?」
「うん。日本語だからね」
「では、お願いします」
 ローレルは、目を輝かせて総一郎を見つめていた。だが、少年はそれをまっすぐに見つめ返すことができなかった。少し目をそらすようにして、読み上げていく。
「他者を食らい他者と交わらずに生きる。それすなわち修羅である。その条件は孤独にして獰猛。孤独は修羅を生み落し、争闘は修羅を育て上げる」
「そこまでは、訳と同じですね。そこからが、よく分からないのです」
 ローレルは、意訳された英文に目をやった。そこには、『シュラである亜人はいない。人間は亜人である場所にいるだけである』と記されている。確かに、これでは意味が分からないだろう。
 総一郎は、静かな語調でこのように言った。
「……修羅という亜人は存在せず。ただ人がそこにいるのみ」
 ローレルは目蓋を何度か開閉してから、「どういう事ですか?」と尋ねてきた。イギリス人は、多分皆そうなのだろう。日本人でも、ほとんどがそうなるはずだ。だが、少なくとも総一郎は違う。父も、きっと違うのだろう。
「ねぇ、ローレル。フランツ・カフカの『変身』って呼んだことある?」
「え、……はい。あの、主人公が脈絡もなく毒虫に変身してしまう話ですよね」
「うん、その通りだ。それみたいに、世の中には多くの変身譚が存在する。他にも『狐になった奥様』とか『ジェニィ』とかいろいろあるけど、僕はここで『山月記』を紹介したい。知ってる?」
「いいえ。……お願いします」
「『山月記』っていうのは、簡単に言えば才能あふれる青年が、過酷な境遇に狂って虎になってしまう――そういう話」
「何だか、可哀想な話ですね」
「ううん。一概にもそうとは言えないんだ。というのも、その過酷な境遇っていうのがすべて、その青年の傲慢さが招いたものなんだよ。いや、傲慢さっていうと語弊があるかな。尊大な羞恥心とか、臆病な自尊心っていうべきなのか」
「……つまり、自業自得ってことですか?」
「うん。それは、そうだね。自業自得だ。でも、その話の本質はそこじゃない。そもそも、人間が虎になるなんてありえないことでしょ?」
「それは、そうですね」
「でも、その小説にはリアリティがある。現実に起こるかもしれないって、そう思わせられることがあるんだ。主人公がね、言うんだよ。『人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという』って。事実、人間が猛獣になる。そういうことは起こっているんだよ。姿かたちが変わらないだけで、世界のどこか、多分、今この瞬間にも」
「え、いえ、そんな事は」
「起こらないって言える? 僕を排斥しようとするあの貴族たちなんか、まさにそうだとは思わない?」
「でも、人が亜人になるなんて信じられません……」
 無理解によるものではなく、あまりに深い理解のために、ローレルの声は恐れ落ち込んでいた。総一郎は、これ以上は言う必要がないと気づいて引き下がる。
「……それもそうだね。人間が亜人になるなんてありえない。――ちょっと、場所を変えようか。もうすぐお昼じゃない? 食べに行こうよ」
「あっ……。わ、分かりました」
 二人は、立ち上がって外へ出た。きっと二人の考えは完全に一致していたろう。だからこそローレルは微かに震える手で強く総一郎の手を握ったし、総一郎もまた、隠しきれない恐怖に手をつなぎ返すことで応えたのだ。


 やはり、カバリストたちに探りを入れましょう。ローレルがそのように宣言したのは、翌日の事だった。総一郎の部屋。ぶち壊された部屋は、魔法を使って修繕済みだ。小奇麗な物である。
 その、ベッドに二人は腰かけていた。人目もないから、距離も近い。総一郎の右手に、ローレルの左手が重ねられていた。
「……何ゆえ?」
「何よりもまず、ソーの精神状態を慮るべきだという結論に達しました。そのため私はソーのやりたいことを全力でサポートします。死ねと言われたら死にます」
「じゃあ三回まわってワン」「しません」
 かなり食い気味の返答だった。
「冗談は置いておくとして、ひとまず礼を言っておくよ。正直今のままだとローレルが一番邪魔だったからね」
「随分ぐっさりと言ってくれますね……」
 ローレル、胸元を抑えて苦しげな演技をする。それで、と自力で持ち直していた。
「具体的には、何をするのですか? 私も付き合います」
「駄目です」
「却下します」
 却下されてしまった。
「……いやでも、折角ただの不登校児扱いで済んでいる現状を何で捨てようとするのさ。男子のいじめもかなりの物だったけど、女子のそれ何かもっと酷いって聞くよ? 止めておいた方がいい」
「カバラがありますから」
「……どうしよう。反論できなくなった」
 長く一緒にいる内に扱い方を覚えられてきている、という気がしてくる。それは総一郎も同じだったが、ローレルのは非常時に総一郎にものを言わせないというベクトルに進化しているらしい。
 対して総一郎のそれは日常面に特化しているから、からかったり嘘を吐いたりという時に役立つ。しまった。それなら正直に言うべきではなかった。
「何を考えていても駄目です。無駄とは言いませんが、駄目です。私はソーと一緒に居ます。寮の部屋に押しかけないだけ有難いと思ってください」
「押しかけてるじゃないか。今まさに」
「これは遊びに来ている、というのです。押しかけとは違います。ともかく、私は一緒です。絶対に離れません」
 ローレルは、両手を総一郎の手に殊更重ねて、ずいと瞳を寄せてくる。驚いて、総一郎は実を仰け反らせる。我に返って、体勢を戻した。しみじみと言葉を漏らす。
「いつの間にこんなに手強い相手になったのか……」
「それなりに色々ありましたし」
 聞けば総一郎の部屋への襲撃時も、多少の細工を加えていたという。何でも知らん顔して『打倒ブシガイト!』と集団に混ざり、道具のいくつかを不発にするなどしていたのだと。『死なないまでも、怪我するのが計算で分かりましたから。お蔭でかすり傷一つ追わなかったでしょう?』としたり顔をしていた。
「……でもなぁ……、カバリストたちに発見されて利用されないとも限らないし……」
「……今日のソーもなかなか手強いですね……」
 渋る総一郎にローレルも思案顔。しばらく睨み合っていたら、仕方なし、とばかり彼女は息を吐いた。載せていた手を移動。腕に抱き付いてくる。
「じゃあ、分かりました。危ないことがあったら怖いので、ソー、私の事、守っていただけますか?」
「……ああ、もう! 良いよ、負けた。僕の負けだ。悔しいなぁ、ローレルに言い負かされるなんて思わなかったのに」
「うふふ、いい女は男の扱いくらい知っているものです」
「ヘレンさんめ、ローレルに妙なこと仕込んでからに……」
 言いながら総一郎はローレルの頭を撫でる。その手をそのまま首に回し、くすぐったがる仕草を見て愛しさが募った。顎を持ち上げ、キスをする。そのまま、ベッドの上に倒れこむ。
 善は急げという事で、その日の内に校舎を歩きはじめた。放課後。初めは見向きもされなかったが、少しずつ存在に気付かれ、ざわざわと遠巻きから視線が集まってくる。
「……やっぱり一緒に居るなんて言うんじゃなかったです」
「こらこらこら」
 迫害を受ける云々は覚悟が決まっていても、奇異の視線に晒されるのには全く免疫がなかったローレル。恥ずかしそうに身をよじって歩きながら、総一郎に身を寄せるべきか、それとも離れるべきかと懊悩している。
 結局、少しするとそちらも決心がついたようで、威勢のいい強い目つきになってからしっかりと総一郎の手を握った。歪みが消えてから、彼女は右手に触れることをよく求めた。あらゆる場面で、左手よりも右手を選ぶ。歪みの無い、人間である証拠を。
 総一郎はそんな少女の姿を面映ゆく思いながら、どうだ、と周囲に視線を巡らせていた。風、音魔法での探知も行っている。妙な行動を起こす輩が居たら、その人物を捕えて精神魔法をかけてやろうという考えだ。
 しかし、ほとんど全てが気味悪そうに遠巻きから眺めるばかりで、何ら目ぼしい人物は見当たらなかった。ため息をついて、このまま寮に戻るのは好ましく思えず、何ならこのまま山にでも行ってみようかと考え始める。
 その時だった。
「どうしたんだい、イチ。引きこもってがたがた震えていたんじゃなかったのか、チキンボーイ」
「……ギル」
 嫌な奴に会った、と総一郎は顔をしかめる。するとそれに少しきょとんとしてから、「人の顔を見て随分と嫌な顔をするものだね。躾けてあげていたのに、やはり少し見ないと亜人らしくなってしまうものか」と呆れた風に嘆息する。
「グレアム、ですよね」
「ああ、そうともシルヴェスター。ところで、君の手がイチと繋がれているのはどういう事なのか、聞いてもいいかい?」
「見れば分かるでしょう。そういう事です。それと、貴方は私のソーを随分かわいがってくれたそうじゃないですか。覚悟はできてますね?」
「ローレル、ローレルさん。怖いです。そして多分この状況でやり合ったら人数比的にこっちに勝ち目無いから」
「……大丈夫です。今の言葉は、グレアムを怯ませようとしただけです。それに、私もそんなに血の気は多くありません。むしろ低血圧ですから」
「そこについてはどうでもいいよ」
 小声で告げてくるローレルに納得と突っ込みを入れて、改めてギルに目をやる。確かに取り巻きの二人は今の言葉に少し戸惑いを見せていたが、反してギルはさして怯んだ様子もない。泰然と、嘲笑を含んだ視線をこちらに向けている。
「随分と強がって見せるね。その癖足は震えているじゃないか。ほら、君たちも見てごらん。アレが、亜人に与した人間の末路だ。何か言ってやりなよ」
「イチみたいなやられるだけやられて泣き寝入りする様なクズを好きになる理由なんざこれっぼっちも分からないな」
「本当だ。足が震えている。怖いなら謝ってこっちに来たらどうだ? 今なら許してやるぞ」
「震えてなんていませんよ。目、本当についてますか?」
 ギル達の嫌味に懸命に毒を返すローレル。本当に彼女は頭にきているようで、酷く鋭い視線をギルに投げかけている。
 それに、奴はこう投げ返す。
「君こそ、脳みそが足りていないんじゃないか? 自分の足に触れてみるといい。きっとその瞬間、恐れが全身に回ることだろうさ。だって、ほら、君の立場今どうなっているのかな? イチの側につくという事は、学園すべてを敵に回しているのと同じことだぞ」
「え……?」
 ローレルが一瞬の隙を見せた瞬間、周囲の罵声が湧きあがった。それは、異様な光景だった。今までは遠巻きに何がしかを呟くだけだったというのに、ギルが表立っただけでここまで変化する。
 言い合いに参加せず、客観視できる総一郎だからこそ、感嘆してしまった。言葉で、相手の言葉を呑み込む。ローレルがやっているのはドッジボールで、ギルがやっているのは捕食だ。最初は震えていなかったのに、じっとりと語りかける様な言葉が、そして野次馬を利用した言葉の重圧が、少女の自信を揺るがし始めている。
 その一方で、総一郎もまた、違和感を覚えていた。今のローレルの姿が、昔の総一郎なのだろう。言葉で舐め溶かし、足腰を立たなくしようとしている。嫌らしい手口だ。しかし、この年齢の人間にできるものなのか?
「……えっ、嘘です、私、震え……」
 顔から血の気を失せさせるローレル。それでも気丈に睨み付けるが、ギルは何もせず、ただ笑みを貼り付け続けている。
「そ、そんなことを言って、怖いのはあなたなのではないですか!? 私たちに手を出さないのがいい証拠です! あなた方は、ソーが怖いんでしょう!」
「そうだね。イチは、怖い。だが、君はイチじゃないだろう? 他人だ。見たところ信頼関係が出来つつあるようだけれど、そんなものは偽りだと言わせてもらうよ。イチは卑怯者だ。自分のために、君を捨てるよ」
「卑怯者ではありません! ソーは!」
「人が話している途中で遮ってはいけないとお母さんに習わなかったのかい?」
「ぅ、ぁ、お、お母さん、は……」
 目に見えて、ローレルは意気消沈した。今までの威勢は何処へやら、泣く寸前にまで追い詰められた事に、総一郎は気付く。疑惑は確信に近い物に変わった。静かに、少年は行動を始める。
「ん? どうしたんだい? シルヴェスター。随分と大人しくなったじゃないか。もしかして、心当たりがあったのかな? イチが卑怯者だっていう。まぁ、事実なのだから仕方がないね。何せドラゴンに怯えて逃げ出すなんて言う奴だ。そんな奴に人間を信じられるなんて、ぼくには到底思えないね。なぁ、そうだろ。イチ。君も何とか言ったらどうだ」
 総一郎は、何も言わない。集中していて、何も視界に入れたくなかった。故に、俯いている。今は、こうしているしかない。
 それに、ローレルは酷く心配そうにこちらを見やった。皮肉なことに、少年に笑いかけてやる余裕はない。その事が、いっそうローレルを不安にさせたようだった。「ソー……!」と呼ぶ声。それでも、今は答えられない。
「ほら、図星を突かれて何も言えないじゃないか! シルヴェスター。君は騙されていたんだよ。良いように扱われて、最後にはポイ、さ。イチはそう言う奴だ。だから、ぼくらはそれを躾けていた。随分な言い草だったけれどね、それは君の早合点と言うものだよ」
「ソー……? ソー……! お願いですから、何か言ってくださいよ……!」
 ローレルは、ギルの言葉に呑まれていた。すでに声は震え始め、力なく総一郎に縋り付く。
 そこに、声。
「だが、許してあげないこともない。君は、可愛そうな被害者なんだ。そこの亜人とは違ってね」
「え?」
 彼女は、ギルを見る。ギルは、やはり底知れない笑顔を浮かべている。
「こちらに来て、過ちを神の前に告白するんだ。一人でいい。懺悔室の中で、神に許してもらってくればいい。それだけで、ぼくらは君を許そう。君は、自由になるんだ」
「そ、そんな、ソーを裏切れという事でしょう!? そんな誘いに乗るわけが!」
「なら、特別だ。君が来れば、『愛しのソー』の事も許そうじゃないか。それなら、裏切りにならないだろう?」
「え……?」
 瞠目して、少女は動けなくなっていた。心が、揺らいでいる。ローレルは、きっと冷静ではなかった。でなければ、きっと最初から迷う事も無かったろう。
 総一郎は、自分を掴む彼女の手から、少しずつ力が失われていくのを感じた。奴は、最後とばかり言葉を吐く。
「さぁ、こちらにおいで。君がこちらに来るだけで、君も、イチも――」

「それ以上そのやかましい口を開くなら、僕は君を殺すぞ、ギル」
 雑音が、消えた。

 野次も、ギルの甘言も、ローレルの行動も、総一郎の言葉が静止させた。しん、とこの場が静まり返る。総一郎は一歩踏み出しながら、ローレルの手を握りしめた。彼女はそれだけで安堵を顔中に満たして、抱き着いてくる。
「……何だい? 今までだんまり決め込んで、都合のいい女が離れようとした瞬間に苦し紛れに殺す、だって? ああ、怖いね! 確かに人殺しにそんなことを言われてしまえば、ぼくだって震え上がらずにはいられな――」
「それ以上口を開くなと言っただろう。言葉を変えようか。それ以上、『アナグラムを揃えるな』。……しかし、僕も中々捨てたもんじゃないな。少し計算に手間取ったにしろ、まさか、一発で大当たりを引くなんて考えもしなかったよ」
 言葉は途切れ、続かない。顔の筋肉へ命令は届かなくなり、ギルは思考にぽっかり穴が開いたと言わんばかりの表情のない顔を晒した。やおら、彼はあまりに存在感のない動きをした。そのまま、手を構える。アレは――指を鳴らそうとしているのか?
「ソー! 耳を塞いで!」
 叫びながら、間に合わないと考えたのだろう。そのまま総一郎の耳を塞いで、ローレルは抱きしめてくる。くぐもった指の鳴る音。その後から、何か異様な振動が総一郎たちを襲った。ローレルの体から力が抜ける。いや、ローレルだけではなく、ギル以外の全員が脱力してその場に倒れこんだ。
 少女を抱きしめながら、総一郎はギルを睨み付ける。すでに、奴の表情から余裕と言うものは失われていた。急激に理解と恐怖が奴の顔中に広がる。逃げたがっていたが、総一郎の目があるから迂闊にそうする事が出来ないでいる。
「ギル。ギルバート。君は、――お前は、やはりカバリストだな……!」
「く、くそ……! な、何で、何で貴方様がこの知識を得て……。数カ月先に持ち越されたはずだったのに、何故……」
「貴方、様?」
 妙な呼び方に総一郎は片眉を歪める。それを隙と取ったか、ギルは逃げだした。総一郎は魔法を使って一気に加速し、一息に彼を捕え、組み伏せた。
「逃げるなよ。君には色々と聞きたいことがあったんだ。すべて話してもらう」
「何で、何で……。お願いします。あと、もう少しなのです。今までのご無礼は後ほど誠心誠意償わせていただきます。ですから……!」
「お前は、一体何を言っている? 何故僕にそんな丁寧な言葉を使う。まるで訳が分からない!」
「分からなくていいんですよ、今は。とりあえず、気絶してくださいなっ……と」
「は?」
 振り返る。そこには、ランプを逆さに持って振りかぶる少女が居た。よれた黒髪の、あまりに激しい美貌を持つ少女だった。それに総一郎は一瞬見とれてしまう。それが、隙となった。頭に、強い衝撃。ランプの土台が総一郎の頭蓋を殴打し、少年の意識は遠くなっていく。

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