武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

8話 森の月桂樹(11)

 ナイが居なくなってすぐに、周囲を囲む色濃い闇が払われていった。結界、のような役割を果たしていたのかもしれない。とすれば、人が来る。総一郎はそこまで思い至って、面倒を省くべく空間魔法で死体を帳消しにした。
「ソー…。早く、帰りましょう……」
「うん、そうだね……」
 総一郎も、きっとローレルも、疲れ果てていた。午前中の遊びだけでもヘロヘロだったろうに、最後の一幕はあまりに重い。左腕にしがみつく少女はほとんど体重をこちらに預けていて、難儀しながら家に帰った。
 案の定、夫妻は帰ってきていなかった。時計を見る。まだ、六時にもなっていない。ナイや騎士学園の奴らとの出来事の所為で、体内時計が狂っていた。
「少し、休みましょう……。疲れてしまいました……」
「……ああ、お休み」
 ソファーに腰掛けると、ローレルは頭を総一郎の肩に預けてすぐに寝息を立て始めた。本当ならベッドにでも寝かせて腕の歪みを利用して一人になりたかったのだが、この状況ではそうもいかない。
「何処にも行かないって、何で言っちゃったんだろ」
 総一郎は、罪人だ。あまりに、人を殺し過ぎた。イギリスでは言うまでもなく、日本でだって、何度かある。
「――けど」
 心が、重い。その様に感じるようになったのは、恐らくドラゴンにかかわるようになってからだ。
 命の重さに差と言うものはない。それぞれが地球よりも重い。それは前世での価値観で、現世では日本ですら適用されていない。しかし、日本でのものはまだマシだったともいえる。迫害されるべき人食い鬼でさえ、一定の区画では人権が認められていた。
 イギリスでは、人間ですらなかった。憎悪すべき家畜。もしくは、反抗的な奴隷。害獣と言った方が分かりやすいかもしれない。
 そのように扱ってくる輩を殺すのは、あまり胸が痛まない。この国で初めて殺した教師など、罪悪感も抱かない。その反面、ナイが消えたあの野営地での殺戮は、思い出すだけで気分が悪くなる。それは、どんな現存の言葉を用いても表現できない。生理的嫌悪感、と言うと、少し近い。あるいは、――恐怖。
「……ねぇ、君、何であんなことしたんだよ」
 右手に向かって、ぽつりとつぶやいた。手袋は付け直している。答えなど返って来よう筈もなかった。そもそも、自分で言ったではないか。腹いせだと。八つ当たりだと。ナイを失った責任の押しつけだと。
「それは、本当に?」
 それだけで、自分は人を殺せるか?
 疑問。だが、それ以上深みには達しない。考えるつもりで目を瞑ると、不意に意識が遠くなった。そんなつもりではなかったのに、いつのまにか眠っていたらしい。
「ソー、起きてください。夕食にしましょう」
 揺すられて、薄目を開ける。ローレルが、顔を覗き込んでいる。
「ん……。今、は?」
「七時半くらいです。頑張れば八時には出来ますよ。下準備は昨日一緒に済ませましたし」
「そう……だっけ」
「寝ぼけてますね。ほら、起きてください。じゃないとこっそり撮った寝顔を騎士学園のサイトにアップしますよ?」
「止めよう! 様々な意味で危険だから止めよう!」
 一瞬で目が覚めた。ついでに肝も冷えた総一郎。ローレルはその必死さにちょっと驚いて、くすくすと口元を隠しながら笑う。
「私、ソーの扱い方が大分分かってきた気がします」
「僕はローレルの新しい面ばかり見つかって戸惑ってるよ……」
「……嫌、でしょうか?」
「ううん? 魅力的」
 眉を垂れさせて聞いてきたので、にやりと笑って言ってやった。すると目を丸くしてから「早く支度にかかりましょう」と急かす声。照れているなと理解しつつ、喜色に富んだ声で付いていく。
 食事はなかなか豪勢にまとまった。下手をすると四人前はあって、「食べ切れるでしょうか……」とローレルは不安がっている。だが、総一郎としてはそこまでの量ではなかった。一人で食らえと言われると閉口する程度だ。
 手を伸ばす。触れる寸前で、思い出し、怯えた。無味。総一郎は恐らく精神的に疾患を抱えやすい状態にあって、自覚症状としてはまず味覚不全に来る。
 唾を、飲み下す。味覚の有無など、分かるわけもない。先ほどまでの出来事の所為で、ぶり返してはいまいか。そう考えると、こちらも不安が募る。
「……とはいえ、残った分は明日の朝食にでもすれば……、ソー? どうしたのですか?」
 少女の明るい声。総一郎は、思い返す。あれほどの出来事で、一時は足取りも危うくなるほど疲弊したのに、今は何故か平気そうにしている。仄暗い感情が、口から漏れ出た。後悔すると、分かっていた言葉だった。無意識に出た言葉だった。
「……ローレルは、元気なんだね」
「え……」
 言って、我に返った。改めて少女の顔を見て、言葉を失う。呆然。次いで、失望の色。総一郎は咄嗟にテーブルに両手をついて謝る。
「ごめん。口が滑った。言ってはならないことを言った」
「……そう、ですか。私――ソーには、元気に見えるんですか」
「済まなかった。この通りだ。許してほしい。心無い言葉を吐いた僕を責めてくれていい」
「――それなら、そう、ですね。まず、顔を上げてください」
 少年は、大人しく従う。すると、額を中指で弾かれた。痛みと言うほどのものではない。だが、何となく「痛いっ」と叫んでしまう。
「これは、罰であると同時におまじないです。私たちがくっついちゃったのと同じものです。効果はご飯がおいしくなります。折角のニューイヤーズ・イブなんだから、楽しんでいただきましょう」
 わざわざ口元に運ばれてきたチキンを、総一郎は拒むことが出来なかった。口にすると、「えへへ」とローレルは恥ずかしそうに笑う。けれど、それだけではなかった。数秘術で確認すれば、十分彼女が傷ついていることが分かった。それを、必死に隠している。カバラを用いないとわからないほど、緻密に。
 咀嚼する。旨いと、思った。肉の味。確かに、旨い。
 それだけのことが、嬉しかった。先ほどのまじないか、それとも先ほどの事件がそれと衝撃ではなかっただけなのか。どちらにせよ、日常が保たれたことが嬉しかった。
 食事を終えた時、総一郎は腹部に手を置いて天井を仰いでいた。食べ過ぎたのだ。結局、用意した料理は全て胃袋に詰め込んだ。「あの量を完食するなんて……」とローレルは傍らで戦慄している。人の事を化け物のように言うな。
「もう、今日やることは全部やったって感じがする」
「そうですね。あとはもう、お風呂に入って寝るだけです」
「……最後の試練が残ってた……」
 あれだけの事があって締めがラブコメなのは何とかならないものだろうか。
「先、良いですよ。あ、その前にアイマスク持ってきましょう」
「こういう時は素直に感心するよ……。何でドギマギしてんのが僕だけなのさ」
「ソーは安全ですから」
「コメントに困る評価をどうもありがとう」
 絶対に舐められている。こういう風に言われると少し危機感を持たせたくなるのが総一郎だ。
 そもそも、この状況下でローレルが総一郎の右手の異形の事を持ち出して分離を提案しないことが、少年には不思議でならない。それを言えば、何故いまだくっついたままでいるのかも疑問だ。とはいえ、それならそれで総一郎が提案すればいいだけなのだが。
 何か意図があるのかもしれない。という思いがあって、何となく言えずにいた。アイマスクを素早くつけて、「では、手早く済ませて寝てしまいましょう!」とローレル。目の覆いに描かれた間抜けな絵の所為で、全くの考えなしに見えてしまうのは難点だと思う。
 盲目状態になった彼女を引きつれ、総一郎はくっつく場所を足だの手だのに移動させて全裸になる。この光景はかなり変態的で嫌だ。そして何より総一郎自身が恥ずかしい。
 カラスの行水もかくやという素早さでシャワーを浴び終え、これまた敏速に寝巻を着る。「ローレル次良いよ」と言いながらアイマスクを取ると、微妙に顔を赤くしていた。
「……どうしたの?」
「いえ、その……何でもないです」
「……? まぁ、いいけど」
 言いながら、アイマスクを付ける。自らに、ここからが試練だぞ、と言い聞かせる。
 では、失礼して。と声が聞こえ、左手を足首に誘導された。そこを掴むと、頭上から衣擦れの音が聞こえ始める。総一郎は極めて冷静でいるために、穏やかな深呼吸をした。その実アイマスクと言う障害があるのにも拘らず強く目を瞑っているあたり、少年も初心なものだ。
 するする……、と数秒音がして、傍らに服が落ちる。気配や、微風が強い存在感となって総一郎の全身を痺れさせる。「次、手を握って貰っていいですか……?」と弱気な声がかかった。少々どもりながら答えると、手を掴んで、立ち上がらせられた。隣には、上半身を晒したローレルが居るはずだった。目が、回る。
 再び、衣擦れ。心臓が、僅かに早鐘を打ち始めている。ローレルの服が落ちた。目を瞑っていても分かった。「で、では、お、お願いします……」と手を引かれ、少し歩いてから止められた。心頭滅却、と脳裏によぎる真っ白な肢体を掻き消そうとする。
 そうして、少女はバスタブに入り、カーテンを閉めた。カラカラ、と音がして、初めて総一郎はほっと一息を吐く。
「これ拷問だよ……」
「ソーはちょっと緊張しすぎな気もしますよ。私も脱いでいる最中はそれなりに恥ずかしいですけど、今になってみるとソーの体の強張りっぷりは面白いです」
「……絶対何処かしらでドッキリしかけて笑ってやるからな」
「復讐方法が可愛いんだか恐ろしいんだかわからないですね」
 くすくすと笑い声が聞こえてくる。微かに、カーテンが揺れるのが分かった。栓を捻る甲高い音。繋ぐ左手に、湿気と水滴がかかる。少女の華奢な手も、少しずつ湿っていった。不意に想像が膨らみかけて、総一郎は頭を振る。どうも生まれ変わってから初心でいけない。
「少しくらい見られても、私は構わなかったのですけれど」
 からかうような声音。うっ、と詰まる総一郎は緊張を逸らすようにカバラをもって計算を始める。少女の言葉から虚勢を見つけてからかい返してやろうと画策したのだ。目には目を、歯には歯を。ハンムラビ主義である。
 そして、その言葉の中に嘘のアナグラムが混じっていないことが、少年を動揺させた。
「……」
 心臓が、高鳴った。いや。むしろその鼓動は、地鳴りのような強い響きをもって総一郎を揺さぶった。駄目だ。と自分に強く言う。だが、それはもはや衝動と化していた。理性などでは到底止められるものではなかった。
 震える手で、アイマスクを取り払う。揺れるカーテン越しに、うっすらとローレルのシルエットが浮かんでいた。呼吸が、少し乱れ始める。総一郎を行動させようとする衝迫の荒々しさ。その一方で、少女を酷く愛おしいと思う感情が湧き始める。
「……どうしました? ソー。――あ、そうですか。拗ねてるのですね? ふふっ。冗談ですから、機嫌直してください。シャワーから出たら、何か摘まむものでも作りましょう」
 労りの言葉。あまりに純粋な少女の、妖精のように綺麗な声。汚したい、愛したい。腑臓の中で、二つの欲求が交じり合い、次第に混沌に変わっていく。そのサインは、微妙に強まった総一郎の握力として現れた。
「んっ、くすぐったいですよ。――そろそろ体も洗い終わりますから、もう少し待ってくださいね」
「……うん、分かった」
 右手を、頭に当てる。少々の違和感があったが、見過ごした。脳内で、詠唱。精神魔術だ。
 二人が、くっついている理由。総一郎は二日をかけて、その輪郭を理解していた。特定の部位を離すことが出来ないのではなく、ただ必ず一部が接触していなければならない。カバラによるヘレンさんの爆弾染みたおまじないは、その制約から『物理的なものではなく、精神的な作用によって離れられない』ことが読み取れていた。
 精神魔法には、他からの干渉の一切を取り払う、『自己洗脳』と言う呪文がある。そのものズバリ、自ら己の脳を「洗う」のだ。汚れは落ち、余分なものがなくなる。正常な自分を取り戻すことが出来る。
 疼痛のような副作用が、総一郎に纏わりつく。反面、ローレルへの情動は消えていない。これは本物なのだと、改めて思った。「そろそろ出ますよー」と、のんきな声。総一郎はわずかに口端を釣り上げて、左手を開いた状態で引いた。
「ふぇっ、ふぁ、ひゃぁっ!」
 ローレルが、まるで磁石に引かれるようにして、引き抜いた手に若干遅れる形で総一郎に向かってきた。想像以上に、白い肌。細身で柔らかな感触。背中と腰に腕を回して、優しく、抱きしめたつもりだった。けれど、力が入りすぎている感が否めない。
「えっ、えっ、えっ? あ、その、ソー?」
 彼女は、混乱のあまり何も出来ないでいた。ただ総一郎に全身を預けて、表情豊かに慌てて周囲をきょろきょろしている。
「……ローレル。やっぱりさ、君、油断しすぎ」
「えっ?」
 抱きしめる力が、更に強くなった。「んっ」と腕の中で身を強張らせる。
「え、あの、ソー……? これは、一体どういう事なのでしょうか」
 震えた声。総一郎は、耳元で呟く。
「ローレルが欲しい。君の、何もかもが」
 顔を離して、正面からローレルの瞳を見つめた。「あっ……」と声を漏らして、少女は赤く俯いてしまう。総一郎は、ただ黙って見つめ続けた。何度か彼女はこちらを見やっては目を逸らし、最後に数秒総一郎を見つめ返してから、ぽつりと言った。
「その、や、優しくしてください……」
「……」
 ローレルは言ったっきり、斜め下に向かって視線を放る。総一郎も、それ以上言葉を紡げなかった。軽いキスを、彼らは交わす。そして総一郎は、ローレルのうなじに口を付けた。
 耳元で、切ない声が上がる。


 睦言を交わし終えた二人は、総一郎の寝室で柔らかく互いに触れながら息を整えていた。ただ、充実感がある。今まで薄くあった障壁のようなものが、取り払われたかのようだと総一郎は薄目で思う。
 しかし激しく動いた倦怠感もあって、汚れの後始末に動こうという気にもなれないのだった。少し冗談めかして、提案してみる。
「何か、疲れたなぁ。このまま寝ちゃおうか?」
「だ……駄目、ですよ……。んっ、……こんな姿をおじいさんおばあさんが見たら、卒倒してしまいます……!」
 まだだいぶ息の荒いローレルは、頬を赤く染めたまま喘いでいた。そんな様も可愛らしく、「仕方ないなぁ」と意地悪く行って、その額に接吻する。
「……じゃ、先にシャワー浴びてるね。回復したらおいでよ。洗ってあげるから」
「怒りますよ……」
「ああ、何だろうこの感じ。前よりも少し気安くなった気がして嬉しいな、これ」
「もう……!」
 少女は布団をかぶったまま頬を膨らませた。そして、二人同時にくすくす笑い。「それではお先に失礼」と手を振って部屋を出る時、「すぐに追いついて洗ってもらいますから」と言われ、またも二人で笑った。
 だがそれが本当に冗談だという事はカバラで知っていたから、総一郎はささっと汗を流してリビングでぼんやりしていた。ローレルにも総一郎同様の解呪を施したため、別行動が出来るようになっていた。
 十数分も待たない内に、ローレルも居間にやってきた。温かそうなパジャマに、身を包んでいる。思わずその中身を想像しかけて「思春期の中学生か僕は」と呟く。「実際その通りでしょうに」と突っ込まれ、「そうだった」と変な納得をした。
「何と言うか……。想像を裏切られました。ソーはてっきり朴念仁かとばかり思っていましたのに」
「いやぁ……。血だから」
「血?」
「こっちの話」
 父に比べたら可愛い方である。
 ローレルはソファーに座っていた総一郎の、真隣に腰を下ろした。そして、腕に抱き着いてくる。「もうカバラは取れたよね?」と聞くと、「もっと深い所で魔法にかかってしまいましたから」としたり顔で返される。
「このやろ」
「キャッ、やっ、そん、あふっ、やめ、ひぁっ、あはははははははははははははは!」
 脇に両手を入れてくすぐり地獄。身をよじってくすぐったがるローレルの姿は、かなり嗜虐心を誘う。
 そこで、気づいた。
「おっと、ごめん」
「あははははは、は……?」
 急いで右腕だけ引き抜く。その意味が一瞬わからなかったのか、ローレルは強制された笑顔のまま首を傾げた。ついで、「えっ、ちょ、ちょっと見せてください」と真顔で少年の右手を取る。それに従い、総一郎もまた瞠目した。
「……治ってる……?」
 異形が、そこに存在していない。左手の鏡写しの様な右手が、そこにあった。何を言うべきなのかが分からず、総一郎は震える。その時、少女の顔がクシャッと歪んだ。
 少年の右腕を抱きしめて、ローレルは涙を零し始める。戸惑って「何で君が泣くのさ」と聞くと、「そんなの分かりませんよぉ……」と涙声で言われてしまう。
「それでも、何故か、嬉しいんです……。分からないけど、ソーの右手が治ったことが、こんなに嬉しいんです……!」
 えぐえぐとむせび泣く少女の姿に、総一郎は救われたような気分になった。左手を彼女の背中に回し、抱きしめる。「そっか」と微笑みを湛えて口を開くと、言葉は勝手に真実を語った。
「僕、人間に戻れたんだ」
 ローレルはハッとして顔を上げる。総一郎は、その涙をぬぐった。「ソー」と彼女は手を伸ばす。受け入れるように抱きしめ、長いキスをした。その一回で十分だった。それだけで、相手の何もかもが伝わった。
 しばし、互いに何も言わなかった。無言ながら、充実していた。不意に、ローレルは口を開いた。拍子抜けをするような、独白だ。
「……私、多分ダメ男に弱いのだと思います」
「えー」
 ローレルの微笑と共に飛び出た言葉に、総一郎は苦笑する。悪戯っぽく見つめるその瞳から、目が離せない。
「困っている人がいると、気になるんです。何か手伝えれば、と思ってしまいます。そういう性分ですから、私、ソーを好きにならなければ、他のダメ男に引っかかっていたに違いありません」
「それ、自分で言う?」
「はい。だから、私はきっと、たくさんの可能性の中から一番幸せな未来を得られたって、そう思うんです。ソーは、駄目なんかじゃありませんから。ただ、身の丈に合わないほど、過酷な運命にあるだけで。……あなたは、可哀想な人です。傍らで見ているだけで、理不尽な気持ちにさせられます。だから、私はソーの運命を打ち破りたい。――ソー」
 ローレルはその華奢な腕を回して、総一郎を抱きしめてくる。優しく、抱き留めるように、それでいて失わないという意思が見えるほどに強く、力が籠められる。
「あなたはきっと、私の目の前から消える。でも、死なない限り、いいえ、死んでしまっても、私はあなたと共にいます。大好きですよ、ソー」
 彼女は、再び上目づかいに総一郎を見上げる。総一郎も愛しさが募って、ローレルに熱いキスを捧げる。
 夜、きっと最後だろうからと、やはり二人並んで寝ることになった。手を繋ぎながら、半ば抱き合うようにして目を瞑る。次第に、微睡に落ちていく。
 ――そして現れる、白く巨大な、無数の瞳を持つ迷宮の化け物。奴は何本もある足で総一郎を執拗に踏みつぶす。
 夢の中で起こる、苦痛。それが、いつもより近い。総一郎は、ふと、毎晩見続けるこの夢の凌辱を、今までどのように躱してきたのかが分からなくなった。
 一撃一撃で、死が望ましい物であるように錯覚するほどの不快感を抱く。胃が潰され、肺が爆ぜ、小腸が車に潰された青大将のように変わっていく。
 手遅れ。人生の終わり。一撃ごとに近づく破滅が、総一郎の恐怖を急き立てる。
 そして、少年は絶叫を上げて飛び起きた。
「そっ、ソー!? どうしたんですか! 大丈夫ですか!?」
 家中に響くような声に、ローレルは心配そうに叫ぶ。そうしなければ、総一郎の声に呑まれて耳に届かないからだ。
 対して、総一郎は錯乱していた。現実と夢の境界が不確かな状態で、何事かもわからないことを喚き続ける。
「嫌だッ、嫌だッ、こんな所で死にたくない! 誰か、助けて! ナイ! 君ならその方法を知っているんだろう!?」
「ナイなんかここに居ません! 私はローレルです! ローレル・シルヴェスター! ソー! ちゃんと目を開いてみてください! ここは何処ですか!? あなたの隣に居るのは誰ですか!?」
「……ろ、ローレル……」
 震える手を伸ばして、しかし途中で逡巡する。ここで彼女に触れて、本当にいいのかと。得体のしれない化け物の恐怖。それは、彼女に感染する物ではないのか?
 総一郎は、ローレルを不幸にすることだけは願い下げだった。だから、躊躇う。愛おしい相手であるからこそ、巻き込みたくはない。
 そんな心情を読み取ったのか、彼女は穏やかに微笑んで告げてきた。
「先ほども、言いましたでしょう? ソー。だから、ずっと一緒です。いやだって言っても、一緒に居ますから」
「……ロー、レル……」
 弱く、その手を握る。強く、胸に抱きとめられる。
「……駄目だった。駄目、だったんだ。僕は、あの化け物に呪われている。その呪縛を避け続けられていたのは、僕が人間じゃなかったからだ。もう、戻れない。人間になるのも、そうでなくなるのも、自分の意志では叶わない」
 震えながら、呟いた。ローレルが、悲しげに少年の名を呼ぶ。
「人間に、戻るべきではなかった。僕は、ずっと、あのままでいるべきだった」
 修羅。人の中に生きられない者。それは個として人間を凌ぎ、群れることが出来ず種として人間に劣るもの。
 総一郎は、狭間で生きねばならなかった。父は、そのように語った。今、総一郎は人間だ。ローレルが居る限り、修羅になるほど心を荒ませることはできない。

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