武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

8話 森の月桂樹(10)

 ソーの表情に、恐怖が貼り付いていた。同時に、敵意、あるいはもっと、どす黒い感情も。
 目の前には、何処かであったかもしれないような、記憶に薄い教師たちが居た。三人。彼らから伝わってくる嫌な予感が、雪の降りかねないこんな天候でも、ローレルに汗をかかせた。じり、と一歩後退する。ソーに引き寄せられて、留められる。
「駄目だ。後ろにもいる」
 ローレルは杖を必要とするアナグラムを抜いた索敵の聖神法もどきを使って、周囲の情報をざっと確認した。逃げ道を塞ぐように、十人前後がこの周辺で妙な立ち位置でとどまっている。他に人気はなく、人払いの効果を持つ何かを用いたのだろうと推測した。
「……何か、御用で?」
 ソーは、あえてと言った風に妙な言葉遣いをした。彼らに、畏まった口調を使いたくなかったのかもしれない。目の前に立つ教師の一人が、一歩踏み出してきた。スコットランドクラスの人間では、無かったはず。それ以上の事は、分からない。
「大人しく来てもらおうか」
「僕にはそんな事を頼まれるいわれはないが」
「黙れッ! この亜人風情めが!」
 背後から、怒鳴り声。ローレルは思いのほか近くから聞こえてきたその怒声に肩を震わせた。すると、握り合う手が強くなる。少女も深呼吸して、心を落ち着かせる。
「用件を聞きましょう。ですが、この場でお願いします。ここはすでに人払いを済ませているのでしょう? ここでも問題はないはずです」
「……ローレル?」
 ソーが、自分の名を呼ぶ。心配されているのが、何となく伝わってくる。
「……ローレル・シルヴェスター。第二学年の特待生の一人だな。何と嘆かわしい。特待生が亜人と親しくしているなど……」
「……」
 ローレルは、無言だ。ただ、苛立ちがある。何故放っておいてくれないのか。ソーは傷ついているのだ。癒す、時間が要る。
「まぁ、この場に居たのなら、もう致し方ない事だ……」
「――ローレル」
 ソーが、少女の名を呼ぶ。表情が状況の芳しくないことを示している。カバラで、彼の言いたいことを大雑把に読み取った。その意に従って、周囲の情報を数式化、計算していく。
 数字によって割り出すまでもなかった悪意。具体性に帯びさせると、拉致という文字が浮かび上がった。どうやら、奴らは自分たちをかどわかすつもりであるようだ。ローレルは、その考えの滑稽さに苦笑いを浮かべかける。カバリストの存在を知らない者が、カバリストをどうこうするのははっきり言って不可能であるからだ。
 それを、握る手が諌めてきた。
「もっと、深くまで計算するんだ」
「……? はい」
 しぶしぶ頷く。悪意を向けてくる彼らは、迂遠な言葉遣いで何やら言っている。それさえも数字でバラして、計算した。
 すると、彼らの手札が不明瞭であることが知れた。
「……聖神法じゃない」
「……何か、言ったかね? シルヴェスター」
「先生方、あまり脅かすのは止めてくださいよ。慣れている僕ならまだしも、彼女は今まで『そういうの』と無縁に生きてきたんですから」
「……へぇ。亜人が、人間を庇う事があるのか」
 ソーの割り込む言葉で、瞬間、少女へ向けられた関心が有耶無耶になった。その中で、静かに戦慄する。彼らの自信。その根源。そこには、未知があった。数秘術で数字にばらしても、正体の判然としないただの数列になってしまう。
「……」
 少年が、こちらに視線を向けてきた。数字を盛り込んだ視線。読み解く。その様にして、声を介さず会話する。
『ローレル。彼らが脅威であるのは、分かったね? 聖神法でもない。かといってカバラでもない。何か、別の手札を隠してる』
『これは、一体どういう事なのでしょうか』
『パッと考えると私怨っぽいんだけど、多分それだけじゃない。複雑な思惑があるね。貴族も一枚岩じゃないって話をしたっけ? 亜人を徹底的に拒む層と、亜人をひっそり受け入れようとする層。こいつらは前者だけど、ちょっと特殊だと思う』
『利権、でしょうか』
『僕もそう思ってた。こいつらは、議員とかとつながっている種類のそれだ。もっというなら、無知な学生に先入観を植え付けて、扇動する立場の輩。僕が無罪になった裁判で立場を悪くした連中だね。ギリギリで身を守ったけど、それ以上の好き勝手が出来なくなって苛々してる』
『癇癪持ちの子供みたいです』
『大人なんて大半は老けた子供だよ』
「おい、だんまりを決め込まれると困るんだがな! それで、結局付いて来てくれるのか? 自発的に来てくれれば、私たちも助かるし、そこのシルヴェスターだって面倒がかからない。ちょっと来てくれるだけでいいんだ。そうすれば、丸く収まる」
「……だってさ。じゃあ、ローレル。先に帰っててくれる?」
「え? いえ、そんな……」
 何を言い出すのか、とローレルは困惑する。そもそも、先日の悪戯の所為で手が離れなくなっているではないか。それを彼の前に示すようにつないだ手を掲げると、ソーは右手を近づけてきた。手袋をすでに取り外していて、半ばまで袖で隠している。
 彼の右手が異形であるのは、ローレルもしっかりと把握していた事だ。そして、それが日に日に治っているのも。だからこそ、戸惑った。その手で、何をするつもりなのかと。
 彼は異形の手で、ローレルの手を取った。くっついていた部位が、そちらに変わる。そのまま、振り払われるようにして強く手を離された。よろめき、後ずさる。そこには、距離が生まれている。
「……え?」
 あれほど難儀していたつながりが、いとも容易く崩された。しかし、ハッとする。寸前までソーと繋がっていた少女の右手。その中に、異形の欠片ともいうべきものが身を固くして納まっている。
「ほら、帰りなよ。帰してくれるってさ」
 少女は反論せねばと考えて、周囲を見回した。数秘術の計算。けれど、ローレルの意図と違って、彼らは本当に少女を見逃すつもりであるらしかった。その後、少女に不都合をもたらすアナグラムも見つからない。唇を引き締めて、少年を見つめる。「そんな顔しないでよ」と笑われる。
 彼がこの場を引き受けるつもりであることは、すぐに分かった。一人ならば、未知の攻撃にも対処できると考えたのだろう。問題は、その先だ。――ローレルが見つけた八ケタの数字が、ソーの失踪を告げている。ここで彼を逃せば、もう二度と会う事はないのだと。
 何故、とは思わなかった。彼が、ずっと抱えている負の感情。罪悪感。人を、殺したと聞いた。はっきりとは言わなかったが、そのようなことを仄めかした。事実だろう、と思う。それに、忌避感を持たないと言ったら嘘になる。
 だが、仕方のない事だろう、という気もしていた。彼がどんな経験をしてきたか。ローレルには想像も及ばないほどの過酷があったと、そう思っている。そう、思わされてしまった。だから、少女に彼を受け入れないという選択肢はない。けれど、彼自身が受け入れられるのを拒んでいる。
 自罰。ソーのそれを退ける方法を、ローレルは知らない。「早く、帰るんだ」と穏やかな声が少女に迫る。頭を撫でようと伸びてくる手。そこに、見えない、しかし少女にとって最も避けねばならない脅威が詰まっている。
 ――この手に撫でられたが最後。ローレルは記憶さえ残すことなく、少年から離れていくことになるのだろう。
 恐怖があった。あまりにも強い感情は、体を凍りつかせるのだと思った。躱せなかった。彼自身がカバラで調整したのかもしれなかった。悲しかった。彼を忘れてしまう事が。そのまま、のうのうと生きながらえることが。
 ソーの手が、すぐに近くあった。絶望さえ、この手は忘れさせてくれるのだろうか?
「駄目だよ、総一郎君。自分を好きになってくれた女の子の事は、もっと優しく扱ってあげないと」
 僅かな間、鈴の音かと錯覚した。それはローレルよりも幼い、少女の声だった。
 我に返って、ソーの手から離れる。緊張が解けて視界の広がりを感じると、すでに夜の帳が落ち始めていることを知れた。電燈が、道を薄暗く照らしている。照らされていない場所は、一寸先も見通せないほどの闇に包まれている。
 うめき声が、四方から聞こえた。次いで、それが断末魔の叫びであることが分かった。身が、竦む。動けない。辛うじて、ソーに目をやった。彼は恐れと言うよりも、驚きの為に動けなくなっているらしかった。
 そして、うめき声が消える。自分たちを脅かしていた教師たちは、状況を理解できずに狼狽していた。少女たちにとって前門の虎、後門の狼は、そのどちらも怖れのために見苦しく視線を右往左往させている。
 そして、闇の中から三つの影が現れた。
 一つは、蝙蝠の翼のようなものを生やした巨大な黒い蛇のような生物だった。地面をうねるようにして移動し、こちらを睥睨する。その口には、人間と思しき肉塊がはみ出していた。その姿は常に変化を続け、狂おしく身もだえしているように見える。
 もう一つは、象よりも大きな鳥――であろうか。ところどころ血に濡れていて、口端からガラスを爪でひっかいたような声を漏らしている。この国のドラゴンの姿にも似ていたが、そこから感じられるのは荘厳な脅威ではなく邪悪さであった。
 そして、最後の一つ。ローレルたちの正面の闇から出て来たのは、まだ年が二桁にも届いていないだろう少女だった。彼女はしかし、その外見から考えられないほど嫌らしい笑みを浮かべて、こちらに向かって歩いてくる。服の端々に付着した、血、臓物の欠片。その手には、人間の頭が両手に二つずつ、計四つ、髪の毛を掴んで束ねるように握られていた。
「やぁ、久しぶりだね、総一郎君。一カ月ぶりくらいかな。元気してた?」
「……ナイ……」
 彼女はこちらに足を進めながら、握っていた頭蓋を無造作に上へ放り投げた。それを、二つの化け物は素早く掠め取る。無残に咀嚼して、嚥下したと共に少女は両手で指を鳴らした。途端、それらはまるで手品のように陳腐な煙に包まれて消えてしまう。
 ナイ、とソーが呼んだ少女は、平然と教師たちを素通りして近づいてくる。教師たちはそれを恐ろしい物として身を避けさせる。歩いている最中に彼女が自らの服を叩くと、まるで埃のように血の汚れは落ちて消えた。身ぎれいにして、彼女は少年に抱き付く。まるで、愛おしい物を包むように。
「え、え? 誰、ですか。その子。え……?」
 ローレルは、訳も分からず逡巡する他なかった。問い詰めたくても、その勇気が出ない。自分よりも幼い彼女は、まるで高級娼婦のような艶を感じさせる所作でソーの頬を撫でまわす。彼も、積極的にそれを拒もうとしない。
「全く、もう。あまり、自棄にならないでほしいな。死んでも別にかまわないなんて、君の年で考えることじゃないよ。本当は、死が何よりも怖いくせに」
 何を言っているのかは、ローレルにはさっぱり分からない。だが、ソーは図星を突かれたように呻く。少女は、ソー以外の全てを無視して言葉を続ける。
「どうせ、君は全てを殺して逃げだしたよ。君には殺さないということが出来ない。そして、殺すくらいなら死を選ぶという事も。総一郎君は、臆病者なんだからね。でも、君は躊躇っているし、実際に戦うとしても傷を負ったり街に被害が出たりと放置するのも面倒だ」
「……何が、言いたいんだ。ナイ」
「魔法、聖神法、カバラ。そして、続く四つ目の技術を、ボクから君にプレゼントしてあげる……」
 甘ったるい声を出して、少年に抱き着く彼女はソーの唇を奪った。ローレルは息を呑み、絶句する。彼らはまるで恋人同士の様な甘ったるいキスをしていた。口の端から、舌がのぞき見えた。少女は脱力して石畳にへたり込んでしまう。舌は、一方通行ではなかった。その事実が頭の中で反響している。ただ、呆然と彼らの情事を見つめ続けた。
 息継ぎをするように、彼らは一度唇を離す。そして、再開した。あまりに小さな声が、自らの口から洩れる。自分の耳で聞くまで、ローレル自身ですらわからなかった。
「……やだ……」
 衝撃が、少女を貫く。悲愴が、その華奢な体を震わせた。その時、こちらから見つめ続けるしかなかったはずの彼女が、こちらを見やる。火照って、赤く染まった頬。幼くも淫靡な魅力。彼女は、何もできないローレルを見て、薄く嗤った。そしてまた、激しく少年と求め合う。
「……やだ……っ!」
 言いようのない感情が、ローレルの中に灯る。それからたっぷりと貪り合って、二人は逢瀬を終わらせた。涎が糸を引き、架け橋のようになって消える。ソーはよろけ、倒れそうになるギリギリで持ち直した。荒い息を吐きながら、目を覆っている。何処か、正気ではないように見えた。
「さぁ、手加減はしたから――多分、耐えられたよね? じゃあ、知識はあげたんだ。折角だし、この場で試していきなよ」
 少女は笑う。両手を広げて、愉悦に歪んだその双眸を、呆然としていた教師たちに向ける。
 ソーは、震える手をまっすぐに掲げた。右手。異形の手。進行が、今朝よりもずっと深まってしまっている。彼は左手で、その手を掴んだ。震えが大きくなる。抗っているのだと、ローレルは直観した。だが、弱い。
「さぁ、総一郎君のために、極限まで手順を簡略化してあげたんだ。君はただ、イメージして、叫ぶだけでいい。ほら、何を躊躇っているのさ。人殺しなんて、日常茶飯事だろう?」
「ぅっ、ぐ、ぁ……!」
 右手に、幻影が見えた。ソーが、何かを握っている。それは少しずつ現実味に帯びていき、最後には、鼓動の音さえ聞こえて来るまでに実体化していく。
 鼓動。そう、――鼓動を打つ。
 アレは、心臓だ。
「ほら、早く。今更、何を拒むんだい? 君はボクの目の前で何千人もの人々を見殺しにした。ボクの目が外れてからも、その手で、直接、何百人もの人々を殺した。そこに、……数人加わるだけだろう? ほら、――早くッ!」
「ぐが、ぁっ、ぎ、ぃ、い……!」
 少女は急かす。ソーの口が、彼の意思を無視して変化しようとする。そしてとうとう、ソーは反抗の意思を捨てた。諦念にいっそ笑みさえ浮かべて、右手が、心臓の幻影を強く握りつぶす。
「―――――――――――――――――――――――――委縮しろ」
 その声は、酷く低く、冷たかった。
 何か、恐ろしいことが起きる。そんな前兆に、ローレルは体を抱きしめる。だが、ソーの言葉が終わった一瞬は、静寂がその場を支配していた。何も、起こらない未来を想像した。少女は、少年に何事か尋ねようと口を開いた。
 途端、弾けるような音が響いた。煙が教師たち一人一人の周囲に充満する。焼け焦げるような音。薄い煙は、過程を経ずに黒く炭化していく彼らの姿を隠してはくれなかった。自重に耐えきれず、四肢が砕けて呆気なく崩れ落ちる彼ら。少女は哄笑を上げる。高々と上がる笑い声が、薄闇を埋め尽くしていく。
「どうだい!? 初めて使う魔術に、相応しいとは思わないかい!? ああ、愉快だなぁ。虫けらがここまで分かりやすく破滅してくれるのは、結末が分かっていてもやっぱり笑えるね!」
 暫く抱腹してから、「じゃあね、総一郎君。また、一か月後くらいに」と少女は嗤って闇の中へと歩いていく。その最中、彼女はローレルを見つけて、にやりと笑みを大きくした。軽やかに駆け寄って、耳元で囁いてくる。
「何もしないで嘆くだけなんて、滑稽だね。ローレルちゃん?」
 ハッとして、見上げる。だが、すでに彼女の姿は見えなくなっていた。ローレルは立ち上がる。恐怖からもがくように周囲を見回す。すると、ソーの姿を見つけた。
 怒りも、嫉妬も、抜け落ちた。彼はただ、項垂れてそこに佇んでいる。名を呼びながら近づくと、疲れたように彼は口端を持ち上げた。それが、ローレルには堪らない。
「ソー。嫌です。行かないでください。私を置いて、一人でいなくならないでください……」
 縋るように、抱きしめる。カバラの呪縛が再発して、再び離れられなくなる。彼は、ローレルの頭を撫でた。安心させるように、語りかけてくる。
「大丈夫だよ。僕は何処にもいかないから」
 嘘だと、分かった。それでも、言った。
「信じてますから。ソーが何処にも行かないって、私、信じてますから……!」
 ローレルの思い人は、きっと何も言わずに目の前から去っていく。数秘術は無情だ。真実をぼかさない。だから、少女もまた、対抗するように心を決めるのだ。
 ――たとえ置いて行かれようとも、追いかけて、絶対に捕まえる。
 それは、高潔な決意ではなかった。そうしなかった時の、『ナイ』に対する恐怖による己の自壊を予見したに過ぎない。求める者すらない孤独は、きっとローレルを殺す。それを、明確な言葉なしに少女は理解していた。
「信じてますから、ソー……!」
 言葉を、繰り返す。感極まって、涙が流れた。しがみつき、思い人が近くに居ることに強い安堵を抱く。
 それは淡い恋心であるのと同時に、狂おしい執着でもあった。

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