武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

8話 森の月桂樹(9)

 ローレルが、へそを曲げていた。総一郎は半笑いで片手謝りをする。
「ごめんって、ローレル。笑ったのは悪気があったわけじゃないんだ」
「でも私は傷つきました。周りの人の『誰かが馬鹿をしでかしたのか』という目線が私に半分くらい集まっていて、とてつもなく恥ずかしかったのですよ」
 昼時、総一郎はローレルと昼食をとっていた。だがレストランではなく、ローレル持参である。芝生で広い公園にシートをひいて、二人は座っている。遠足を思い出して懐かしい。
「はい、ソー。サンドイッチとバナナです」
「うん。ありがとう」
 サンドイッチを受け取り、しみじみと食らう。日に日に、味覚は正常に近づいていく。ローレルの美味しい料理を食べている限り、毎日が感動だった。これを思えば、辛かった日々にも意味があるのではと思うのだ。
 食べ終えて、一息をついていた。ローレルは満腹に息をついてから、尋ねてくる。
「では、どうしましょうか。ここでしばらく風に当たりながらゆっくりするもよし、何か他のことをするもよし」
「少しゆっくりしようか。本は持ってきてあるでしょ?」
「はい。でも、お話をするつもりで私は言っていたのですが」
「ああ、ごめんごめん」
 そうして、ローレルと先ほどの映画の話をした。俳優の表情が素晴らしかったとか、上手く表現できていたとか、最後の言葉の爽快感とか、彼女は熱く語っていた。もしかしたら映画にはまったのかもしれない。今度また、連れて行ってあげようと心に決める総一郎だ。
 風が気持ちよく吹いて、芝がざわざわと鳴っている。思い出すのは、ナイのことだ。彼女に自分が心を開き始めた頃、彼女はここに似た草原で昼寝していた自分に、膝枕をしてくれた。
 懐かしい記憶である。しかし最近のことでもあった。総一郎は、手袋を見る。これは彼女によるものだ。しかし、彼女のどのような行いによる物なのかまでは分からない。まず種のように少しの異常があって、人殺しを経て、そこから一気に進行した。
「ソー、何を考えているのですか?」
「ううん、何にも。ボーっとするのが、気持ちいいんだ」
「……カバリストの私に、嘘が通じると思いますか?」
「不覚だった」
 素で忘れていた総一郎の眦が、驚きとともに開かれた。カバラにはカバラで返すが信条の総一郎。顔筋のアナグラムを合わせて、ローレルだけは絶対に笑う表情を作り上げる。
 それを見た少女は吹き出して、体を折って笑い始めた。「それは……ズルい……です」と息も絶え絶えに震えている。
 総一郎はこの表情を覚えて、勘の鋭い彼女に核心を突かれかけたらこれで乗り切ろうと決めた。今の総一郎には死角がない。全面的にカバラの所為だろう。
 有耶無耶になったのを、さらに総一郎はローレルにカバラの存在を忘れさせるように動いた。そのお蔭で、彼女にナイのことを聞かれずに済んだ。時計を見ると、大体二時前ほどだ。もう一つ何かしてから、家に帰るのが丁度よかろう。
「じゃあローレル、次は何がしたい?」
「うーん……本屋でしょうか」
「君は隙があれば本屋って言うね」
「駄目ですか」
「いいけど帰る直前にするよ。最寄りの本屋って結構大きいし」
「わかりました。では……お任せします」
「特に行きたいところもないんだね……」
 ある意味徹底している。そういえば、映画を提案したのも総一郎だった。
 再びローレルの携帯を使い(彼女が取り返そうともしなかったので、それっきりずっと総一郎が所持している)、近くの施設を調べる。駅を内包したショッピングセンターからは出てしまったので、少しくらい歩く場所がいいだろう。
 丁度良い場所に美術館があって、ほうと思った。そういえば、ギルにあげたあの絵以来、何か美術作品を仕上げた記憶がない。ともなると、少し行きたくなってくるのが心情である。
 幸いローレルに提案したところ、彼女は快諾してくれた。「小さいころに行って、楽しかった記憶があります」とのことだ。彼女もなかなか良い感性をしている。二人でわーきゃー話しながら歩いた。意見が一致すると、妙に気分が高揚するのだ。傍から見れば子供丸出しである
 美術館に着き、入場した。展示されているのは、もっぱらシュルレアリズムだった。シュールの語源である。具体的に言うと、布状の時計や上半身が鳥かごの男など、超現実的な代物が描かれた絵のことだ。亜人のその先を行く世界観が、そこには広がっている。実現しても面白味はあまりなさそうだが。どちらかというと悪夢を連想する。
 ローレルと並んで、絵を観て行った。ピカソ、ダリなど有名な作家のレプリカもあったが、総一郎が心惹かれたのは新人のそれだ。
 右半分と、左半分で絵の内容が分かれている。中心には、人らしき何者かが鑑賞者を慈愛のほほえみで見つめるとともに、親の仇が如く睨み付けている。というのも、左右で表情が違うのだ。右が昼、左が夜。右が微笑み、左が睨み。右半身は黄金比を守ったかのような均整のとれた体つきの、立派な服を着た男性。左半身は見るもおぞましい怪物で、辛うじて人型であるのがむしろ気味が悪かった。注目すべき点は、その絵が少々立体的のところがあって、見る角度からその人間と怪物の境界線が動くのである。
 ローレルが「すごいですね!」と小声で歓声を上げるのを聞きながら、総一郎は下唇を噛んで立ち尽くしていた。「見る角度で絵が変わりますよ」と少女に引っ張られ、その表情が変わる。睨んでいた怪物の目が、ひどく悲しそうに歪んだ。受けいれてほしいと、懇願するような目だ。総一郎は、いたたまれずに角度を変える。人間側が多くなる角度だ。そこでも、人間の表情が変わった。
 怪物にも劣る、断末魔を思わせるその悲痛。慈愛に少し開けられた口元は、絶叫を必死にかみ殺すものに変わった。総一郎は、圧倒されて後退する。
 絶望的な気持ちが、総一郎を包んだ。感情移入のし過ぎだと自嘲しなからも、少年は強く打ちのめされた。
 ――まるで、僕に見せるために作った絵のようだ。総一郎は、そんな妄想に取りつかれた。自分の足元を見る。去年、この服は獣から剥いだものだった。今は仕立て上げられた、上等ではないにしろ人間的な一品だ。人間。そこにも救いがないとすれば。
 その時、ローレルが総一郎の手首をつかんだ。ひどくつまらなそうな面持ちで、「次に行きましょう。私、この絵が嫌いです」と言う。
「……何で、嫌いなの?」
「だって、報われるところも何もないじゃないですか。余韻もないですし。シュルレアリズムじゃなくて、こんなのただの趣味の悪いだまし絵です」
 ほら、早くいきましょう。あちらには、果物でできた中世の貴族っぽい絵があるみたいですよ。――ローレルは、か細い腕ながら、力強く総一郎を引っ張っていく。そんな彼女の優しさに、少年は救われた。自分にも聞こえないほどの声で、「ありがとう」と呟く。
「どう致しまして。ソーは私がカバリストであることを忘れすぎです」
 言われて、きょとんとしてしまった。総一郎は次の瞬間、何故かとても可笑しくなってしまって、訳も分からず必死にかみ殺しながら笑った。「僕って結構バカだなぁ」と言いながら、目じりに溜まった滴を拭い取る。
 美術館を出ると。ちょうど夕方の終わり目だった。「なかなか有意義に過ごせたね」と笑いかけると、「改めて、本屋以外もなかなかいいものですね」とローレルは少々偉そうな表情で言う。
「じゃ、最後に本屋によって帰ろうか」
「はい」
 繋いだ手を、離さなかった。係員の人に少しほほえましげな表情をされたが、恥ずかしがるつもりはなかった。何故か離したくないと、そのように思ったのだ。
 ショッピングセンターを通り抜け、駅のホームに立って、列車の個室に並んで座った。「どんな本を買おうか」と尋ねると、「ハッピーエンドが読みたいです」と彼女は言う。
 下車したその景色に、総一郎は息をのんだ。はちみつ色の町が、夕焼けで橙色に膨らんでいる。ケーキみたいだと、総一郎は思った。「家に帰ったら、ケーキを焼きましょう。イブに相応しい、とびきり豪華なケーキを」としたり顔でローレルが言ったので、つい笑ってしまった。
 幸せの形は、様々だ。この状況でしか幸せなどないなんて、そんなことは有り得ない。だから、これも幸せの一つの形なのだ。総一郎は、ローレルと手をつなぎ、笑いあいながらケーキの町の中を歩く。
 そして、立ちふさがる影が現れた。
 総一郎も、おそらくローレルも、気づかなかった。今まで警戒することなど一切なかったからだ。その影は見覚えのある人物の物だった。去年総一郎を虐めぬいた教師の一人。名前は、知らない。ただ、その顔が醜くゆがむ様だけは、うっすらと覚えている。


 ソウイチロウ・ブシガイトを初めて知ったのは、教室でガイダンスを受ける直前の事だった。
 ローレルは、一番乗りで教室に来ていた。次に来たのが、彼だった。本を読みだして、真面目なのかと思っていたが、気づけば陽気そうな友人を作っていたことに驚かされた。自分は出来ないのにと思うと、名前も知らないのに、少しの敵愾心を覚えた。一日もすれば忘れてしまうような類の。
 次に意識したのは、彼が教師に名指しで亜人と弾劾された時だった。顔を真っ青にしていた。だが、気が強いのか抗弁していた。その時は、ちょっとした忌避感だけ。誰も聞かない虚しい彼の言葉を、本を広げることで無視した。
 それからしばらくすると、彼はいつの間にか名前を聞かない日がないような人物になっていた。誰もかれもが、寄ってたかって彼の意志や矜持をへし折りにかかっていた。それでも、しばらくは耐えていた。肉体的な攻撃が一番やりやすいという顔付きをしていたのを、今でも覚えている。反抗的で、挑発的な目。そんな瞳が出来るなら、こんな虐め、何とかできるだろうと、無知な軽蔑と共に黙殺した。
 さらに月日が経つと、彼はだんだん萎れて行った。その時、僅かな罪悪感を抱くようになった。しかし、日常に支障をもたらすものでは決してなかった。ファーガスや、その当時は居たベンと共に狩りに興じる楽しさが、日々のほとんどを占めていた。虚ろな目をして謝罪を繰り返す彼を見ていると気分が悪くなって、いつも足早にスコットランドクラスを離れていた。
 問題の日。彼が教師を殺して逃げだした日。ローレルは彼のその凄絶な立ち振る舞いに強い畏怖を覚えた。だが、同時に胸を打たれたような気持にさせられた。
 克己。その信念を明言化してひっそりと自らに掲げたのは、今思えばこれが原因だったのかもしれない。
 それから、彼が山で追手をその木刀で打ちのめして退散させているという報告が入る度、ローレルは恐怖し、その上で自分が彼と遭遇した時の事を考えた。自分だけはブシガイトと対峙しても、彼の捕縛は置いておいて、無傷で下山してやる。そういう、謎の決心がついた。
 けれど結局、彼とは一度だって会いまみえることはなかった。ファーガスが意識を失った彼を担いで下山する場所に立ち会っただけだ。幸運なのか不運なのかは判別がつかなかった。
 数か月後。春になって、退院してきた彼と図書館にて直接相対した。やはり読書好きなのか、と親近感を覚えたのは秘密だ。大分葛藤した末、隣に座った。その理由はひとえに、自らの恐怖心に打ち勝つためだ。理由を聞かれた時は嘘を吐いて誤魔化した。今から思えばその行動は、すでに彼に興味を持ち始めていた事の証左であったのかもしれない。
 彼の話はファーガスから頻繁に聞かされていたが、実際に会話して何となく彼の人物像が見えた。人懐こくて、優しくて、しかし強い人間不信を抱えている。最初はほぼ無視されていたのに、数回会っただけで気の抜けた姿をさらされた時には焦った。ファーガスから始まる特待生パーティの全員と、すでに仲良くなっていることに驚愕した。
 彼が確かな人間、一個人だという事に気付いたのは、この頃だ。
 だが、仲良くなるための時間らしいものは全く用意されなかった。すぐに彼は、ドラゴンの討伐という明らかなこじつけのために学園から姿を消した。彼を原因としたクラスごとの対立はそれ以降落ち着いて行ったが、少々物足りない気持ちでもあった。
 ドラゴンが原因で帰省して、彼を発見した時は肝が冷えた。
 人間ではないと、直感的に思った。以前までの彼とは違う。確定的に、何処かが欠損してしまっている。倒れ伏していたが、分かった。その衝撃が、かつての記憶を恐怖の色に染め上げた。どこか感じていた親しみなどの、全てを忘れた。
 それでもブシガイトを救ったのは、彼が名前で浮き彫りにし、ローレル自身が育て上げた克己心があったからだ。
 恐ろしい。だが、その恐ろしさにまず打ち勝たねばならない。そんな逆転してしまった強迫観念が、ローレルを突き動かした。わざわざ、忌むべき手に触れて、彼を運んだ。
 家に彼を招いてからしばらくは、苦痛だったと言っていい。馴染んでいるように見えて、全く心を開いていない。だがそれは人間不信と言うよりも、負い目、後ろめたさ、自分への失望ともいうべき感情からだと、何となく分かった。彼が演技で作り出す笑顔は、いつだってどこか済まなそうだった。
 しかし、自分がそれに気付いていることに、ローレルは気付いていなかった。
 自覚できたのは、彼を看病した時だった。彼の言葉、様子、そして寝ぼけて泣きじゃくる姿を見て、ローレルの抱かされた恐怖は粉々に砕け散った。人間ではなくなったと判断したのは、それほど彼が傷ついているからだとわかった。だからきっと、泣けてきてしまったのだ。とはいえ当時はそんなことも分からず、ただ自分が、もうこれ以降彼に冷たく接することが出来ないのだろうという予感だけがあった。
 その日の夜。ベッドで目を瞑りながら、明日彼の事を愛称で呼ぼうと決めた。
 けれど皆と一緒というのが少し嫌で、イントネーションを変えた。ちょっと適当に、「ソー」と呼ぶと、きょとんとした風に反応してくれたのが嬉しかった。
 多分、彼を好きになり始めたのは、この時からだ。
 親しく接していくうちに、少し、ソーは自分を含めた家族に打ち解けるようになっていった。だが、一線を画していたのをローレルは知っている。どうしても、越えられない薄壁。亀裂。それは遠慮と言う形で明確に示された。その度に、ローレルはこっそり歯噛みした。
 それを切り崩したのは、祖母のカバラと言う知識だった。ソーはまるで宝の山を目の前にした少年のような表情で、カバラと言う技能に夢中になっていった。それに、ローレルも参加した。彼の智の開拓に対する情熱は凄まじい物だった。事実、ローレルも夢中になった。将来研究職にでも就こうかと考えてしまう程に、楽しかった。
 一方で、彼に対する恋心は少しずつ大きくなっていった。
 ソーは大人びている。だが、その本性は子供だ。そんな彼にからかわれるのも、一緒になって何かに熱中するのも楽しかった。その頃にはもう、彼の表情に陰りが見えなくなっていた。それが、堪らなくローレルには嬉しかった。
 その上、奥手な自分にもツキが回って来たのか、恋を意識させる出来事がここ最近立て続けに起こっていた。体を離すことが出来なくなり、非常に至近距離での生活をしなくてはならない――なんていう、フィクションなら使い古されたネタ。トイレやお風呂などは顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、自分がバスタオルを巻いてシャワーから出てきた時の目隠しをしたソーの赤面っぷりには、ローレルも吹き出してしまった。彼のことを真剣に可愛いと思った初めての事だった。隣で寝ることは怖くもなんともなかった。寝ぼけた振りをして抱きしめてやろうかとも考えた。
 幸せの、絶頂だった。好きな人と過ごす日々が、こんなに楽しいなんて思わなかった。
 だから、願う。運命に、懇願する。唐突に現れた、ソーに悪意を振りまく彼らを見ながら。
 ――何も、ニューイヤーズ・イブに、不幸の種をまき散らす必要はないではないか、と。

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