武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

8話 森の月桂樹(4)

 一応の所体調が治って気付いたことと言えば、ローラの態度の変化である。
 取り立てて優しいというのではないが、何処か砕けた感じがあった。自然体というと、更に近い。ヘレンばあさんなどが言っていたローラの人間像そのものが、今のローラであるように思える。
「ソー、朝ごはんですから、起きてください」
 呼び方が変わったのも、最近の事だ。家族に習い総一郎の『総』を取った形だが、微妙に彼女の祖父母とは違う。もっと適当な呼び方だ。けれど、何だか総一郎からしてみると不思議に新鮮でくすぐったい。
 三度のノックに呼ばれて下りていくと、ヘレンばあさんとローラがすでに食卓に並んでいた。相変わらず、他人の家の食卓に参列するというのが総一郎には慣れなかった。その為少し気後れしつつ食事を終えて、素早く自室に戻ろうとすると、おばあさんに止められた。
「ソウ。ちょっとお待ちなさいな。ローレルも、食べ終わってもしばらくここに居ておくれ」
 何だろう? と少年は眉を顰める。その用事の正体に思考が回り始めるが、ローラの言葉がそれを寸断した。
「……何でしょうね。私たちを呼び止めるなんて」
「え、うん。そうだね」
 ローラの態度の軟化には、未だついていけない総一郎である。理由が分からない変化というものは、容認しがたい。
 そんな戸惑いが感じられたのか、僅かに怒ったような視線が少年に向けられた。総一郎は気まずさに視線を逸らす。そこに、おばあさんが戻ってきた。
「ふぅー。あー、重い重い。ローレル、少し手伝っておくれ。平気だと思っていたけど、やっぱり年を取るのは怖いねぇ」
 くつくつと笑いながら、重そうな機械を肩に担ぎ上げているヘレンさん。総一郎も立ち上がったが、「座っていなさい」と諌められてしまった。その機械はテーブルの上に載せられる。古い。総一郎の前世を基準にしても古い一品だ。銀色の外身に、真っ黒なスクリーンが貼り付いている。
「あ、懐かしいですね。何で今出してきたんですか?」
 ローラには覚えがあるらしい。更に訳が分からなくなる。耐えかねて、尋ねた。
「あの、これは一体何?」
「えーと……計算能力を養うと言いますか……」
「幼児向けの計算力鍛錬機だよ。正式名称は知らないがね。ただ、これは私が少し改造してある。そんな訳でね、二人には勝負してもらおうと思ったのさ」
「えっ?」
「……何でそんなこと考えついたのさ」
「まぁまぁ、いいじゃないか。親睦を深めるってね。ローレル、これでソウに負けたら、今日の晩飯はお前だけ抜きだから」
「え!」
「いや、それはちょっと残酷じゃない?」
 しかもローラ限定である。総一郎は負けてもペナルティが無いという事らしい。その事に気が付くと、一周回って腹が立ったような気がした。抑えようとすれば抑えられるが、そうする必要もない。
 怒ったような素振りをしつつ、切り出す。
「というか、僕がそう簡単に負けると思われるのも癪な話だよ。日本の英才教育を舐めないでほしいな」
 何せ二桁の掛け算を暗算させられるスパルタである。他にも、これと似たようなこともやらされた。五ケタの数字の七連続足し算までは総一郎の実力に入る。正直何でクラス全員が乗り越えられるのか、少年にはよく分からない。
 だが、対するヘレンばあさんは余裕綽々で答えた。
「私は日本の英才教育とやらを甘く見ているんじゃない。自分の英才教育に自信を持っているのさ」
「じゃあぜひ見せてもらいたいね。その英才教育とやらが、どの程度の物か」
「二人とも英才英才五月蝿いです」
 だが総一郎と老婆はそんな少女の言葉なんぞどこ吹く風。ヘレンばあさんは機械にスイッチを入れる。緑色の8が八つ並んでいる。一ケタ増えた程度では、狼狽えない総一郎だ。
「じゃあ、今からここに出て来る数字を全て掛け算するんだよ」
 一瞬おやと思ったが、気にしなかった。せいぜい二桁、ないしは三桁だろう。三桁同士となると自信は薄いが、絶対に無理ではない。
 もっとも、現れたのは五ケタの数字だったか。
「えっ」
 ぱっ、ぱっ、ぱっ、と五ケタ、六ケタの数字が合計で四回明滅した。総一郎はあまりの衝撃に最初の一つ目さえ覚えていられなかった。顔を上げると、声を殺してヘレンばあさんが爆笑している。騙しやがったなと思って仏頂面をすると、横からこんな言葉が聞こえた。
「……31427837958283742ですか?」
「正解!」
「うんちょっと待って」
 抗議の声を上げると、きょとんとした純粋な瞳が総一郎を見つめた。その所為で、更に困惑する。まさかと思ってヘレンさんの方にも目をやったが、彼女はやはり笑っている。訳が分からず固まってしまう総一郎。
「あー、面白かった。という訳でね、ローレルのかくし芸の一つ、暗算が得意であるのをお披露目したという訳さ」
「……本当に計算して、本当に答えを出したの? ローラ」
「え、ええ。そうですけど……」
 心底凄いと一周回って懐疑的になってしまうのは総一郎の悪い所かも知れない。いけないと彼は首を振り、こっそり精神魔法で嘘かそうでないかだけ確かめて、「うん」と彼は頷く。
「ローラ、君は凄い。ちょっと気味が悪いくらい凄い。というか本気で君の頭の中を見て見たい。どうなってるの? 桁が大きめの電卓でも入ってるの?」
「い、いえ、そんな事はある訳ないじゃないですか」
「うん……。いやもう、本気で訳が分からない」
 スナーク、スライム並みの衝撃にため息を吐く。もしかしたら、数年に一回はこういう事があるのかもしれない。そう考えると人生が何か嫌になってくる。
 余談だが、スライムは山籠もりのころに戦った時、木刀を突き刺したら破邪の力に反応したのか掃除機に吸われるようにして消滅した、という事があった。
 推理するにアレは液体生物であるからして、木刀に触れたそばから消滅していくのに対し、楕円形を保つ生物的な働きによって『消滅→体積減→形を保つべく消滅した部位にスライムの体が集まる→消滅』のサイクルが起こったのでは、という事なのだが、つまりはそれを予備知識なしの直視したという経験が総一郎にはあって――ああ、頭が痛い。
「……おばあちゃん。何かソーが弱っているのですが」
「思った以上に驚きに弱いね、この坊やは。ほら、しっかりおし!」
 抱えていた頭を強めに叩かれ、恨めしい顔になる総一郎。「弱ると素が出るね」と言われきょとんとすると「あ~」と落胆の声を出される。
「……何さ」
「いやいや、別に何でもないよ。ねぇ、ローレル」
「は、はい!」
「……別にいいけどさ」
 自分が玩具にされているようで、面白くない総一郎である。だが、次の老婆の言葉が、強く総一郎を惹き付けた。
「ちなみに坊や。数秘術に置いて、八桁の暗算が出来る様になればあとは知識次第で個人ならどうとでも出来るよ」
 顔を上げる。息を呑む。老婆は総一郎を見て、にやりとした。「概要を一切教えないのもどうかと思ってね」と彼女は言う。
「数秘術は技術としてのカバラの神髄。数字で解析した因果なのさ。つまり、数秘術に不可能はないという事。未来を知り、未来を創る」
「ちょっ、ちょっと待ってください。何の話をしているのですか? それに、カバラって……」
「ローレル。お前も良くお聞き。ソウは自由意思に任せるけれど、お前は強制的に習得させるからね」
「え、ええ?」
 いつしか場はヘレンばあさんの独壇場である。彼女以外に困惑していない者は居らず、総一郎でさえ置いてけぼりをくらっている。
「あの、おばあさん。一人でガンガン進まないで、ちょっとでいいから待ってよ」
「ん? 坊やはカバラをやるつもりがなかったんじゃなかったかい。そもそも、カバラとは知らない人間には決して分からない原理だからね、置いてけぼりは当然さ。さ、やらない者はさっさと上に行っちまいな。ローレル、カバラは楽しいよ? 具体的には思い通りにならない事なんて無いからね」
「何ですかその悪魔の技術」
「悪魔じゃなくて神の技術さ。知ってるかい? サタンは聖書上では数人しか殺していないがね、神は万だか億だかにのぼる人間を殺しているんだよ」
「いや、そんなトリビア要らないよ」
「おや、まだ居たのかい? 部外者の分際で」
「……ぁぁああ、もう! 何だよ! やればいいんだろやれば! 元々そこまで嫌がってたわけじゃないよ! それがこんな扱いなんてあんまりだ!」
「とまぁ、ここまでがカバラの実演って事だね。今回は単純だったから、だいたい四ケタの数字を三回掛けたり割ったりするだけだった」
『……は?』
 現状、誰もヘレンばあさんの話についていけていなかった。少年少女はともにぽかんと口を開けている。「ま、ここらで親切なヘレンばあさんに戻ろうかね」と穏やかに老婆はくすくすと笑っている。
「正直な所、全ては坊やが持っていた『美術教本』に支配下にあった。私が坊やに教えなくても、あの本が燃えない限りいずれ誰かが教えていた。なら今に知っておいた方が坊やも困らないだろうとね、思ったのさ。で、坊やにいう事を聞かせるためにアナグラムを合わせていた」
 総一郎、しばし意味が分からなかったが、冷静になってやっと仮説が立てられた。おずおずと聞く。
「……それが、今の茶番って事?」
「ああ、そうさ」
「もう訳が分かりません……」
「ローレルはソウに比べても知識が足りないからね、後で詳しく教えてあげるから、今は分かった振りしてふんふん頷いておきなさい」
「なるほど」
「納得しちゃうんだ」
「ま、理解しがたい概念であることは確かだからね。まず大枠から入ろう。今回教えようとしている数秘術とは、神の技術であるカバラの神髄であるのはいいね?」
「う、うん」
「はい」
「相槌から迷いが完全に消えたねローラ……」
「で、具体的な内容は、数学を媒介とした予知と未来創造さ」
「……何となく、理解できたようなそうでないような……」
「ふむふむ」
「で、さっきは坊やにカバラを学ばせるためにアナグラムを完全に合わせ終えた言葉を使った。アレ以外に七通りあったがね、他はあまりよくなかったから止めておいたのさ」
「良くないって一体何が……。というか、あの会話にそんな高度な技術が盛り込まれてたの? 本当に?」
「ああ、だって坊やはカバラを学ぶことに了解しただろう? しかも、ちょっと坊やにしては過激なくらい怒って」
「いや、でも……」
「ソー。おばあちゃんの言うことに間違いはないのですよ」
「確かにローラは、カバラ使ったって言われても違和感ないくらいおばあちゃん子だけど」
「おし、分かった。じゃあ、改めて分かりやすく実演と行こうか。段々説明だけでは難しい事に気が付いたよ」
「うん……」
 頭がピリピリしている。五歳辺りに図書に世界情勢を教えてもらった時以来の混乱だ。正直今、ヘレンばあさんに嘘だよと言われれば信じてしまいそうなほどである。
 老婆はまず、ローラに耳打ちをした。少女はよく分からないと言いたげに眉根を寄せていたが、不承不承気味に首肯する。
 総一郎は一体何を吹き込んでいるのだか、と半ば面倒に思いながら欠伸をした。やはりやめたいと言ったらまたムカつくことを言われるのだろうか。
 そのように考えていた時、ローラが「えっ」と呆気にとられたような声を出した。「何さ」と言うと、更に「えっ、えっ」と気味の悪そうな声が漏れる。
「おばあさん。一体何を吹き込んだんだ?」
「えっ!?」
「いやもう、ローラ五月蝿い」
「……全部、当たりました」
「は?」
「欠伸をし、驚いたローレルに『何さ』『おばあさん。一体何を吹き込んだんだ?』と聞いて、更に驚くローレルをうるさいとあしらう……と、ローレルに教えたのさ。さっきね」
「……予言したって事?」
「まぁ、そういうことさね」
「嘘くさいなぁ……」
「じゃあ、次は坊やの番だ。だけど坊やはただ耳打ちするだけじゃあ信じそうにないから、ほら、これを御覧な」
 言って渡されたのは、紙だった。とびとびの数字に、それぞれよく分からない台詞が振られている。全部で五十ちょっとのボリュームだ。
 その上部には、『瞬きの回数』と書かれてあった。一回目、二回目、三回目、と計算方法が綴られている。
「……」
 視線で老婆に問うと、ローラの方に彼女の目線が言った。少女に注目しろという事なのか。
「……。え、今度は私ですか?」
「ああ、そうとも。じゃあソウ、今から一回目だからね」
 無言で首肯し、ローラを見つめた。彼女はむずがゆそうにしながら、視線をウロウロさせつつ五回瞬きをした。一回目の計算方法は三度目と七度目の瞬きのみ三点とし、他はすべて二点とする数え方だ。
 合計十一点。総一郎は、11と記された場所の台詞を見る。
『あの、私の何を見ているのですか?』
「あの、私の何を見ているのですか?」
「……」
 総一郎、少しだけ驚いたが、まだまだである。家族ぐるみの詐欺をすれば、この程度簡単だ。精神魔法を使えばすぐに白黒付くが、それは無粋と言う物だろう。
 二回目。掛け算である。一回目のみ三で、他は全て二だ。ローラを見つめていると、計六回の瞬きをして、話し出す。六回だから、二の五乗掛ける三。96だ。
「すいません、一人で何かを話すというのは苦手なのです。出来ればその、話しかけて戴くと……」
『すいません、一人で何かを話すというのは苦手なのです。出来ればその、話しかけて戴くと……』
 またもやどんぴしゃだ。まだまだ、と粘り強く待つ。その時を見計らったように、ヘレンばあさんは言う。
「ちなみにだけど、今までに坊やは八回瞬きをしたね」
 きょとんとして、視線を紙に下した。自分は一回目だと言われてから言葉を発していないから、恐らく一回目の計算方式だ。八回。十八点である。18。
『誰か、僕を助けて』
 総一郎は、動けなくなった。息を呑んで、それっきりだ。紙が、手の内から落ちた。それを拾ったのは、ローラだった。彼女は一度、「八回ですか」と呟いてから、紙を見る。
 総一郎は、それを阻止しようとした。だが、ヘレンばあさんが一度机を叩き、その音に異常に注目させられてしまった。老婆は不敵に笑い、少年は我に返る。紙に目を向けた少女の顔色の変化を見つめて恐怖した。言い様の無い、不確かな恐れだ。
 ローラは顔を上げ、総一郎を見つめ返した。少年は、その時から逃げなければという強迫観念に駆られた。椅子ごと後ずさった時、少女の言葉が総一郎を捕まえた。
「あの、ソー。少し思ったのですが、やっぱり私の呼び方を変えてもらえませんか?」
「え?」
 脈絡もない台詞が、総一郎の意識に空白を作った。続く声が、少年の重力を強める。
「ローレルって、呼んでください。呼びにくいですけど、私、こっちの方に愛着があるのです」
 言って、ローレルは微笑した。総一郎は浮かしていた腰をペタンと椅子に落とし、呆然としたまま首を縦に振る。
 微笑みは少年の中で、柔らかな響きを残していた。

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