武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

6話 1/0≒∞ クルーシュチャ方程式の真偽 (2)

 数日は、安穏としていた。一週間もすれば罠の仕掛け方も慣れて、街に出られるようになった。そうするとナイは総一郎に引っ付いて、アレ買えコレ買えだのとねだるのだ。
 とはいえ、実際に買うか買わないかは総一郎が判断する。買わなくても、文句ひとつ言わないことも多かった。
 大体一か月程度が経っても、天狗の調査は遅々として進まなかった。自分が手伝おうかと申し出ても、やんわり断られてしまう。
 社での生活にも、慣れきった。早朝に起き、素振りをし、罠を仕掛け直して、時折街に出たり、騎士を迎え撃ったりする。
 今日は、街に出る日だった。服も最低限買い揃えて、着ないものは非常に内容量の多い不思議な巾着袋に入れてある。
「ナイ、行くよ」
「うん、ちょっと待って!」
 急いだ様子で、彼女は靴を履く。そして終わり次第、総一郎の腕に抱きついて、鼻歌交じりに歩き出すのだ。
「デート、デート、総一郎君とデート」
「頻度の高いデートだなぁ……。今日は何も買わないつもりだし、どちらかと言うと散歩じゃない?」
「やんわりとデートを否定しないでよ。嫌なの? ボクとのデート」
「邪神とデートって字面からしてぞっとしないよね」
「本気で嫌がられててかなりショックだよ……」
「はいはい。じゃあ、飛ぶよ」
「うん」
 自重の軽減。そして、周囲を廻る強風。二人の体が、ふわりと宙を浮く。風魔法の細かな操作で態勢を整え、彼女の名を呼ぶと掴まれる感触が強くなった。
 物理魔術の運動エネルギーに魔力を思い切り詰め込む。そして、皮切りの呪文。
 景色が飛び去った。風魔法で風防を作ってあるから、存外に快適だ。最近余裕が出てきて分かったのだが、ナイは高所恐怖症の気があるらしい。その為表情を青くしているのだが、総一郎にはその理由が分からないのだ。
 そもそも総一郎、無貌の神についての知識が、『人間の破滅を好み、無限に等しい化身を持つ、恐ろしい強大な邪神』という事以外にないのである。外宇宙だの何だのといったよく分からない単語も聞いているが、規模が大きいだけだろうと適当に解釈している。
 ナイはその中でも別枠に存在しているというのを、彼女自身の言葉で聞いたことが在った。それがさらに、総一郎を混乱させる。だからこそ、どんなに互いの表面上の態度が軟化しようと、信用も信頼もないままなのだ。
 ある種、真綿で首を絞められるような状況だった。
「……着いたー……」
 街外れの、目立たない場所。魂が口端から半分くらい抜けかけているのではないかと思えるほど、気の抜けた声である。毎度毎度ナイは街に着いた直後こうなるのだが、総一郎は呆れ半分ながら、もう半分はそれが演技なのではないかというぎわくがある。
 それにも、いつしか慣れていたものだ。
「大丈夫? 休む?」
「大丈夫。……ただ、ちょっとだけ支えてくれないかな、総一郎君。ボク、恐怖で腰が抜けかけてるみたい」
「二回に一回はそうだよね。慣れなよ」
「自力で飛べるからって無茶言うなぁ……」
「飛べないの?」
「飛べないよ?」
「あれま。新事実」
「むしろ飛べるのに高所恐怖症っておかしくない?」
「あはは、それもそうだね」
 その癖こんな会話ができるのだから、ナイを支えながら総一郎は、自身で裏表を感じざるを得ない。
 ごく稀に、深く考えてしまう事があった。いつもは、そんな風でも特に考えないのだ。その時に読み途中の本の内容が、普通なら頭の半分以上を占めている。今日は現在読み途中の書物に、あまり興味を引かれなかったからだと自らを納得させた。
 どの道、散歩を始めてから数分もすると、結局そんな考えは霧散してしまうのだった。結論も何もないのだから、仕方がない。今更ナイに対する嫌悪を表に出しても、疲れてしまうだけな事は分かっていた。
 賢い生き方、と言う奴である。
「総一郎君、見て見て! あの服可愛くない?」
「確かに趣味がいいね。買わないけど」
「……先回りするのはどうかと思う」
「でもいつも買わないでしょ?」
「買って、ってねだるのが好きなの、ボクは!」
 街では、大抵ウィンドウショッピングをしてから、本屋で立ち読みをするという流れになる。
 昼食は天狗か総一郎が作ったお弁当だ。偶に隙を突かれナイにお弁当を作られる事もある。その場合は、食べる時は毒魔法で密かに口内分析をするが、今の所引っかかった事は無い。
 今日もそうで、毒魔法をしなければならないのが面倒だが、その点を抜けば一番うまいのはナイが作った物だったりする。
 綺麗な薔薇には棘がある、と考えれば、別に気にもならない。
「どう? 総一郎君」
「ん、いつも通り美味しいよ」
「えへへ~、作った甲斐があるね。そう言ってもらえると」
「僕が作った物より格段に美味いから偶にムカつくんだけどね」
「君のその思考回路にはボクもびっくりだよ……!?」
 今日のサンドイッチにも、毒が入っているという事は無かった。「もう一個いい?」と頼んで、彼女が作ってきた三つの内、二つを平らげた。不意に、考えてしまう。彼女は総一郎が毒魔法での解析をしていることを、知っているのか。
 こんな事は、総一郎自身したくない。自分でしていて、気持ちが悪くなる。美味い美味いと言い、自ら望んで彼女の作った料理を食しながら、神経質に毒が盛られているのではないかという事を疑っている。明らかに、異常だ。
 しかしそうしなければ、途中で吐き気が彼を襲い、胃の中身を全てぶちまけてしまう羽目になる。
「ふぅ。満腹満腹」
「……そうだね、ナイ」
 今日は、調子が悪い。公園のベンチに二人で座りながら、そんな事を思った。いつもより、妙な事を気にしてしまう。
 精神魔法での防御は、一応施してあった。しかし加護の少なさの為、効果は限定的だ。ナイが本気で総一郎の心を操ろうとした時、気付き、一瞬だけ防ぎきれるように、と祈りを込めて魔法を使ったのが、ドラゴンを倒した直後の事である。
 しかし、今の所何かを感じたという事もなかったし、警戒心を保てている現状からすれば、掛けられてもいないのだろうと考えている。それはつまり、今の所ナイに総一郎をどうこうする気はないという事だろう。
 だから、彼女がこちらを見ていない時を見計らって、「忘れよう」と唇だけで呟いた。そうすると、案外すぐに気が楽になった。
 それからまた、二人で遊んだ。買う気は無かったのに、本屋で結構な量を買ってしまった。楽しかったように思う。今日は、珍しく彼女にねだられたものを買った。髪飾りだ。
 着けた姿を見せられ、「可愛い?」と聞かれた。総一郎は嘘をつかない性質だから、その時は素直に褒めた。ナイは頬を僅かに紅潮させ、相好を崩す。総一郎も、笑っていた。
 黄昏時、昼食を取った公園のベンチに座っていた。少し休んでから、山に戻ろうと二人で決めた。人気は無い。何もかも、夕日に赤く染まっている。総一郎も、ナイも、何もかもだ。
 柔らかな沈黙が、満ちていた。それは、優しい赤色をしている。総一郎は、珍しく眠気に襲われた。腕を組んで座っていると、かくん、と首が落ち、はっとなって目が覚める。
「……総一郎君って、本当に可愛いなぁ」
 再び舟をこぎ出しそうになった総一郎に、ナイがそんなことを言った。反応して彼女に目をやれば、見上げる様な、見下ろす様な、慈しんだ微笑を浮かべている。
 寝ぼけたまま、総一郎は彼女を見つめていた。すると、ナイの表情に変化が訪れた。彼女は、笑みの八割を消して下唇を噛む。躊躇いを思わせるが、その本心は分からない。
「あの、さ。総一郎君。……聞いてくれる?」
「ふぁぁ、……何? どうしたんだよ、改まって」
「本当はさ、もっとふさわしい時に話そうと思ってたんだけど、そう思うと中々機会が無くってね。今、話してしまおうと思ったんだよ」
「だから、何さ……」
「ボクが君に接触した真の目的」
 総一郎は欠伸を止めて口を噤んだ。呼吸が止まったと言ってもいい。目は一気に醒め、瞼は落ちる事を許されなくなった。
「……僕を、破滅させるためじゃないの?」
「ううん。真逆だよ」
 真逆とは何か。総一郎の思考が回り出す前に、ナイは続けた。
「ボクはね、総一郎君。君に殺される事こそが、本当の目的なんだ」
 少年は、考えるよりも前に立ち上がった。目を剥いて、強い口調で言い放つ。
「嘘を吐け。そんな訳がない」
「……うん。だから、これはボク個人の願望だよ。本当の目的は、『自身の破滅』そのもの。でも、多分意味が分からないだろうから、順序立てて説明していくね?」
 あくまで落ち着いた様子のナイに、総一郎は我に返りベンチに座り直した。何故、今のような根拠のない言葉を吐き出したのかが、自分でもわからなかった。――まず落ち着こう。その上で、彼女の言葉を噛み砕いていけばいい。
 ナイは、「とりあえず、総一郎君に不足な無貌の神の説明から入ろっか」と言った。彼女は姿勢を正し、何処か無機質な声色で語り出す。
「無貌の神。這い寄る混沌。千の顔を持つ者。暗黒神。百万の愛でられしものの父。門の場所に平和は無い……。他にもたくさんあるけれど、二つ名はこんな物だね。強大でおぞましくて冒涜的で、簡単に殺せるはずの人間を直接殺すことを極力避けて、いろんな手管で破滅を誘い、その浅ましさを嘲笑している……。それが、人間から見た無貌の神」
「人間から見た?」
「そう。だから、他の視点も存在するって事。つまりは……無貌の神そのものの視点からすると、それは結構ごく一部の面に過ぎなかったりする。そもそもね、千の顔だなんて、少なすぎるんだよ。本当はもっともっと多い。でも、ある意味では確かに千の顔に語弊は無いの。それは、その、人間に知られた邪悪な化身の数が、だいたい千だよっていうことだね」
「……邪悪じゃない化身もいる」
「ううん。邪悪じゃない化身なんて居ないよ。これは無貌の神の性質だから変えられない。でも、自分が邪悪な化身だと気付かずに、普通の人だと勘違いしたまま、生まれて育って老いて死ぬ。……そういう化身も、少なからずいる。そしろ、こっちの方が大多数だ」
 総一郎は、考え込む。必死に、噛み砕いていく。無自覚の化身。邪悪な自身の本質に気付かない。……言い換えれば、無害という事だ。しかし、覚醒する危険性は微小ながら孕んでいる。
「……それが、かつての君って事? ナイ」
「そうだよ。君の理解が早いと、こっちも楽でいいね、総一郎君」
 ナイは、有難がったような、しかしどこか上の空のような様子が在った。
「少し外宇宙の神話になるんだけどね。昔々、無貌の神以外の邪悪な外なる神々や旧支配者たちは、こぞって善なる神に封印されてしまった。明らかに邪悪な神々の方が力は強かったんだけど、奇跡的にそれが叶ってしまった」
「一人だけ助かったんだ」
「まぁ、自己と自我を持つのは彼一柱だからね。で、封印されなかった無貌の神は、仲間である神々の失態を嘲笑しつつ、封印を解こうと画策した。……けど、はっきり言って神の時間感覚ってかなりスパンが長いから、順調にいっても数十億年かかるんだよね。いや、もっとかな? ――そこで総一郎君に質問。君は暇なとき、何をする?」
「……本を読むかな?」
「そう。彼も、君と同じように暇つぶしに何かをしようと考えた。そして幸運な事に、彼はいくらでも化身を自由に作ることが出来たから、いろんな星のいろんな国に様々な化身を飛ばして暇をつぶし始めた」
 それが無貌の神がこんな辺境の星に居る理由ね。とナイは言う。
「でも、問題が在った。彼は少々全能すぎたんだよ」
「……どういう事?」
「簡単に言ってしまえば、答えの分かり切った謎々なんて今更やりたくないって事さ」
「……」
「とはいえ、下等生物の自滅破滅は、結末が分かり切っていてもひとまずの時間つぶしにはなった。彼の嘲笑的な本質からすれば、退屈しのぎにならない事は無かった。でも、本当に興味があった事に関しては、中々手が伸ばせない。全能であるが故の不能っていう奇妙な事態が訪れた」
「本当に興味があった事って?」
「破滅の味だよ」
 ナイは感情の伺えない視線を、総一郎に差し向ける。
「あの甘美で蕩けるような破滅を、たった一度でいい、自分自身で味わってみたい。ずっとずっと、彼はそんな風に考えていた。でも、出来なかった。化身の性能を必要以上に落として破滅させても、はっきり言ってつまらない。破滅とは、苦悩の末に落ちていく、敗者の力及ばずのものなんだ。自ら縛ったって余裕が出る。でも、破滅の苦しみが味わえるだろう必要最低限の性能を持たせると、それを上回る存在が居ない」
 そう考えていた所に、君たちが生まれた。
 ナイは言う。
「全能のはずの無貌の神でさえ、未来が読めない。はっきり言って異常事態だよ。でも、彼はそれを歓迎した。君たちを育て上げれば、いつの日か自分を破滅させてくれるかもしれない。全ての原子の動きを計算したところで、その計算がどんなに精確であっても、狂う時は狂う。予知は違う。文字通りの全知だ。でも、君たちにだけはそれが通じない。だから、君たちに目を付けた」
 まるで他人事のような遠い口調で、淡々とナイは語り終えた。無貌の神の事を、『彼』と彼女は呼んでいた事と、何か関係があるのかと総一郎は訝しむ。
 深いため息。ナイは、一度伸びをした。こちらに、久しぶりの笑顔を向けてくる。先ほどまでの硬い顔つきを想うと、まるで今は仮面を外したかのような印象を受けた。
「ここからは、ボク個人の話になる。規模が小さくなるし、話も単純だけれど、聞いてもらえる?」
「……そこで僕がいいえって言ったら、どうするつもり」
「その時は、ちょっと泣きそうになりながら軽く流すかな」
 総一郎、毒気を抜かれて苦笑した。
「分かったよ……。聞かせて、君の話」
「ありがとね、総一郎君」
 ナイは、「何処から話そうかな」と顎に人差し指を当てた。「とりあえず、ボクの簡単な生い立ちから」とニコニコしながら総一郎に話し始める。
「ボクはね、研究者で純粋な人間の父と、多くの亜人や人間のハーフの母の間に生まれたの。でも日本じゃなくて、しかもお母さんから継いだ個々の加護が薄かったから、あんまり魔法は使えないんだ。もともと九歳までは無貌の神なんて自覚は無かったし、ちょっと悪戯が好きな節があったけど、普通の女の子として育てられた。当時のボクの悩みは、お父さんが研究室に籠っていた事かな。その所為で全然遊んでもらえなかった事を覚えてるよ」
「……」
「それでね、そのお父さんっていうのが話の目玉っていうか。すっごく頭が良かったんだよ。それはもう普通の人は解こうって気にもなれないような難しい方程式も解いちゃうくらいね。……それで案の定、解いちゃならないタイプの問題を解いちゃった」
「解いたら、何かが出て来るとか?」
「そう。『クルーシュチャ方程式』っていってね。無貌の神の化身の一つでもある。解いた瞬間に、身体を乗っ取られちゃうんだ。それを、お父さんは解いた。解いて、無貌の神になって、娘であるボクまでもが自覚のない無貌の神である事を知って、人間の浅ましさを嘲笑した。それが、ボクが大体四歳くらいの時かな。ちょっとお父さんの様子が変わって、数日もしない内にお母さんが死んだ。子供心ながらにショックだったね」
「……」
 総一郎は、口を閉ざして考える。ナイは構わず口を動かす。
「それからは、お父さんに育てられたんだよ。ほとんど放任で、寂しかった。でも最低限の教育とかは施された。勿論、人間としてのそれだよ。ボクは、その時は無自覚のまま一生を終える予定でいたから。――でも、九歳のある日に何もかも変わった。お父さんがね、仕事中だっていうのに、血相変えて帰ってきたんだ。それで、自宅に監禁された。全裸にガムテープの拘束なんて言う粗末なものだったけれど、身動きは取れなかった。それでね、数日間そのままだったの。放置だよ。酷い話だと思わない? 空腹と脱水症状で死にそうになった時、いきなりガムテープを引っぺがされて自由になって、……その時、お父さんは何を言ったと思う?」
 総一郎は、視線を上げてナイの目を見つめた。疲れたような笑みが、そこに在った。
「『おめでとう、我が娘にして我が分身よ! 祝福すべき子供たちが、今この瞬間、この世に生を受けた! 今よりお前は無垢なる千の顔の一つとなり、甘美なる破滅をその身に満たしなさい!』――その後、ボクは無貌の神たる必要最低限の知識だけ与えられた。……目をね、合わせるんだ。そうすると、一見意味不意な呪文の羅列と、それを唱えた時の効果が伝わってくるの。で、後は一人で追い出されて、君たちを探し始めたんだ」
 躰が成長しなくなったのも、この時期かな。と語り終えたナイに、総一郎は呆けたような無表情でいた。夜の帳も下りはじめ、互いの表情は見えないで居る。彼女はきっと、今の総一郎の心情が分からないだろう。総一郎も、同じだ。どこか歪んだ顔つきのまま、少年は尋ねる。
「――つまりナイ。君は僕やその他の、未来の見えない子供に殺される為に存在してるって事?」
「うん。その通りだよ」
「いや、まだ足りないよ。……無垢って、今言ったよね。それはどういう事なのかな」
「……それも、そのままというか。……無貌の神ってさ、その精神構造からしてどんな事でさえ嘲笑の対象なんだよ。つまり、そのままの精神では破滅は味わえない。――間違いなくそれを味わえる精神構造の生物に、化身の精神を似せなければならないんだ」
「でも君は、僕の父さんに殺されても、平然と現れたよね? それは、人間じゃないって事じゃないの?」
「あの時は、対策を打っておいたんだよ。君のお父さんとはいえ、『祝福すべき子供たち』という訳じゃない。未来が見えるんだ。だから、あの時姿を現したのはボクの傀儡。もっとも、あの人の呪詛がボクまで辿ってきて驚いたけどね。どうせしばらく日本に用は無いし、いざとなればあの地下室で会えたから、甘んじて受けたんだよ」
「――じゃあ、つまるところ君は、人間と同一って事なんだね。人間と同じように喜怒哀楽を示す。君は、人間とまるっきり同じ心を持っているっていう……」
 総一郎の声は、小さい。ナイはぎこちなく笑う。
「……うん、そうだね。だからその、何て言えばいいのかな。ボクも傷つきやすい乙女なわけだから、もうちょっと優しくしてくれてもいいんじゃないかなーって……」
 ダメかな……? と上目遣いに見るナイ。電灯が点き始めて、彼女の表情が総一郎の前に現れた。何となく、困ったような、そんな顔だった。
 少年は、それにこう返す。
 華奢な声だった。
「……その言葉に、客観的な証拠はあるの?」
 総一郎は、酷く狼狽していた。だからこそ、こんなにも愚かしい言葉を口にしてしまったのかもしれない。昼間の疑心暗鬼もその原因の一つだ。だが、ナイは今まで総一郎に害を加えようとはしなかった。そうでなければ、総一郎は彼女の言葉を微塵も信用しないまま、微笑んで聞き流すことが出来た。
 その葛藤を、しかしナイは知らなかった。いや、知らないふりをしたのかもしれない。分からなかった。ただ一つ事実があるとすれば、彼女が傷ついた顔で、一瞬目を剥き、すぐに細めて、乾いた笑みを浮かべながらこう言ったことだけだ。
「……そうだね。ボクの言葉なんか、証明できる材料なんて一つもないね」
 冗談だよ、全部。ナイはそう言って、総一郎に手を伸ばした。「帰ろう」と彼女は言う。朗らかな声。しかしそこに込められた感情は、分からなかった。総一郎には、ナイの何も理解できない。過去の記憶が、父の言葉が彼を強く縛っている。
 ナイが無貌の神でなければ、何もかもが上手くいった。泰然として、構えていられた。
 故に人の破滅を嗤う神は、総一郎の葛藤をも、世界の何処かで冷笑しているのかもしれなかった。

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